- 東京医大、学内報告前に減点か 不審避け操作の可能性(東京新聞、平成30年(2018)08月05日(日)02時00分)
東京医大の女子受験者差別。
しかし、この報道で、杉田水脈氏のGLBT云々なんて、すっかり塗りつぶされ、消し飛んでしまったな。所詮その程度のこと、ってことだ。アレは言論にすぎないのだし、コッチのほうは実際に多くの被害者がいるわけだし。
オッサンは生きている。
東京医大の女子受験者差別。
しかし、この報道で、杉田水脈氏のGLBT云々なんて、すっかり塗りつぶされ、消し飛んでしまったな。所詮その程度のこと、ってことだ。アレは言論にすぎないのだし、コッチのほうは実際に多くの被害者がいるわけだし。
私はプロ野球・高校野球に反対だ。廃止すべきである。
理由は、「女性がプレーしていないから」である。以上だ。すぐにやめろ。今すぐ競技も大会も中止だ。
GLBT論議以前に、ここから考え直せ。
代議士の杉田
「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
との意見を表明したことが槍玉にあげられ、炎上している。
さすがに、馬鹿右翼の私ですら、氏の「生産性がない」発言はダメだと思う。人間は
だがしかし、人間が「生産性」などという無機質そのものの指標で評するべきものでないなんてことは、GLBTだけに当てはまることだろうか?GLBTであろうとなかろうと、普通の会社員でもオッサンでもオバハンでも、はた子供であろうと学生であろうと、老若男女いかなる人であろうと、人間であるなら皆同じであるはずだ。
そこからすると、今回の騒ぎは幾分、揚げ足取りの傾きが濃厚だ。
私は、GLBTだからと言って、無条件に税金が投入され援助される、というのは行き過ぎだと思う。その点で私は杉田氏がすべて間違っているとは思わない。先の「生産性」というところを除けば、杉田氏の意見には
GLBTに無条件に税金が投入され、援助されているなどという事実があるのかないのか、私は知らない。いや、まあ、言っておけば、調べて確かめる気もないし、そんな義務もない。
だが、今の世相、メディアでのGLBTの取り上げられっぷりには、逆におそれを覚えるのも事実だ。放っておいたら町のいたるところや公共施設内に、何十億円もかけて「GLBT用便所」なんてものが建設されかねない。民間企業だって、「GLBT用温泉・浴室・銭湯・便所・更衣室」なんてものを莫大なお金をかけて建設しなければならなくなるかもしれない。
こういったことに既に公金が使われているのかどうかは知らないが、だが、多分既に役所には「GLBT担当」の役人が置かれたりもしていることだろう。勿論給料つきだ。
こんなの、やりすぎだ。他に考えることやお金をかけることがたくさんあるでしょう、と私などは思うのである。
その点で、杉田水脈氏には気を確かにしていただき、うっかり言い過ぎたところを改め、落ち着いて論考を深くしてもらいたいものである。氏の主張には正しいところも多いのではないかと思うのだ。……ほかにどんなこと言ってるのか、知らんけど(笑)。
私は、レズが先でもゲイが先でもない、そんなもの、どっちだっていいと思っている。
この順番がどうこうという部分に引っかかるような奴は差別主義者だと思う。「レズが先だ!」なんてことを言うこと自体が差別だ。
私には是非は分からない。しかし、いいことではないな、なんとなく。
ロリコン、小児性愛者というのはいなくならない。馬鹿だと思う。馬鹿で済めばいいが、連中は人も殺す。私も二人の女の子を育てた親だが、その立場から言ってロリコンを許すことはできないし、生理が受け付けない。
名浪曲師・廣澤虎造は一世一代の名曲「清水次郎長伝」でこう
ロリコンは馬鹿を治すために、一度死ぬといいと思う。人間は一度しか死ねないので、まことに都合がよい。
さて、ロリコンに対する程には「死ね」とまでは思わないが、私はGLBTもロリコンと同じようなものだと思う。同じ性的少数の延長上に感じられる。生理が受け付けない。しかし、私に関係のないところでなら、GLBTは生きていてもいいとは思う。
あまりにも痛ましい事件である。冥福を祈りたい。
しかし、私には、新聞やテレビがこの哀れな女の子の死を楽しんでいるように感じられる。写真の取り上げ方、フリップの作り方もふざけていると思う。不愉快である。テレビ屋は人の死を真面目に取り上げることができないのかと思う。
すみません、私にはこの会社側の対応の何が悪いのか、さっぱりわからないんですが……。
多分、記事になっていない、何らかの行間があるのだとは思うが。新聞の記事なんて信用できないしな。
まあ、こういうの、これから増えるんだろうなァ。それを職場として受け入れていかなくちゃならないとすると、企業の経営者は大変だ。男便所、女便所の他に、性同一性障害の男用、逆に女用、などと用意していくとする。そうすると、性同一性障害なんてものは男の体で精神が女、あるいはその逆、ってだけの単純なものばかりじゃなく、男の体で性転換して女の体で、精神は男、とかいうなにがなんだかわかんない複雑な病態の人もいるんだから、そういう人用まで全部準備しなくちゃいけない。更衣室も同じだ。
多様性を受け入れる、ってことだと、問題は性だけではない。嗜好や趣味、個人の性癖なんてものは百人百様だから、たとえば更衣室や便所なんて、100人の社員に個室で100個用意しなけりゃならなくなるぜ。
そんなにまでして、多様性の受け入れのために耐え忍ばなくちゃならんのだろうか。多様性のほうでコッチに合わせてくれたっていいじゃないか。
理性はよく無理を
生物
このようなことを端的にまとめ、ものすごく嫌な、極端な言い方で表すと、「人間の歴史においては、生物としての自然に背くものが理性とされてきた」ということである。
オスの役割の否定、メスの地位の否定、残酷さや弱者抑圧を否定すること、差別を否定することなどもその延長だと思う。
人間の理性はゆっくりだが進歩し、いまや、あらゆる次元での差別に反省と検討、考察が加えられ、女性、病者等、弱者にも光があたるようになった。
それは更に進み、GLBTの肯定、同性婚の肯定などにまで広がっている。
これらが更に進んだその先には、兄弟婚、親子婚、近親相姦などの修羅場の肯定がほの見える。動物の自然な姿としては、同性婚や近親相姦は自然に忌避され、
この先、私などの凡庸で進歩的でない者にとって、生理の根幹の部分からして到底許容できないような、それこそ兄弟姉妹婚、親子婚、幼児婚、屍婚、動物婚、植物婚、人工物婚など、あらゆる
しかし、現代社会と現代人が、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、これらをすべて受け入れたのと同じ忍耐をもって、忌まわしい悪鬼の魂を受け入れなければならない時代がもうすぐそこまで来ている。
これまでの経緯、時代の趨勢から言って、この恐ろしい耐え難さに、ひたすら耐えるよりほかにあるまい。こういう恐ろしいものを受け入れ、それを「自由」と名付けて喜ぶような者は、進歩的な差別廃絶論者として称揚されるのであろう。