葦と日本人

投稿日:

 数学者にして哲人、ブレズ・パスカルの「葦」の一節は学校で習うから誰でも知っている。あの一節は彼の遺稿集成「パンセ」の中にあるという。

 同じ「パンセ」の中の、あまり知られぬ一節に、こういうのがある。

「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣(きんじゅう)にひとしいかということばかり知らせるのは、危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。

 人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」

 この「パンセ」の一節の「人間」という単語をそのまま読まず、「日本人」と置き換えて、中国や韓国、またアメリカとの関係を念頭に置きつつ読むと味わい深い。

 パスカルは30代で死んだ。若かった彼をして、人間にある偉大さ・悲惨さの二重性と、理性の知らない心情の論理を発見せしめたものは、宇宙の神性と言うほかにない。

にゅろぬろ

投稿日:

 外出できないので家に垂れ込めていたら、「NURO光(にゅろぴか)」の営業が来た。

 薄汚れた作業着に、実直そうな汗を額に浮かべ、「今日も頑張ってますっ!」と言わぬばかりである。

 だが、その誠実韜晦とは裏腹に、この男は詐欺師であった。

 営業の仕方が人を騙すようなやりかたで不愉快だったので、「ウチは回線もプロバイダも代える気はありません」と一言、ピシャリと玄関を閉めた。こんな幼稚な野郎に騙されるようなことでは男が(すた)る。

 無視していたらずーっと玄関先でなにやら(わめ)いている。明日は我が身と思うと多少胸底の痛む気もしないではないが、それにしても日曜日に気の毒なこった。

 いろいろ苦しいとは思うが、人を騙すようなやりかたはどうかと思うぜ>NURO光(ヌロみつ)

 いくら良心的でも、「お客様は何もすることはありません、ただ回線が速くなるだけなんです」などと言って、無知と目した客がなんだかわからないうちに契約する相手を変えてしまう、てのは、例え形の上で合法であろうと、どうもよくないな。近代社会では契約ってのはけっこう大事なんだぜ。

 「NURO光」の営業の若僧には恨みはないが、とっとと帰れ、世間知らずが。

しなやか

投稿日:

 昨日、更科蕎麦の事を書いていて、「しなやか」という言葉を使った。

 (おの)ずと流れ出てきた言葉で、それが最もよく対象を形容している、と思ったから使ったのだが、ふと考えた。

 「しなやか」には、たしか、「(しなや)か」という字当てもあったはずだ。「強靭(きょうじん)」「(じん)性」という言葉もあるとおり、強く、粘りがあり、例えば(はがね)の板ばね、割竹などの良く(しな)い、元に戻るような、そういう強さがこの「(じん)」だ。

 だから、この字を使った「(しなや)か」では、更科蕎麦の細くスマートですんなりとした感じの形容にはならない。

 一方、同じ「しなやか」でも、「(しなや)か」とする字当てもある。これは、「繊細」の「(せん)」だから、更科蕎麦の形容にはぴったりだ。

 そうすると、「しなやか」という言葉には、互いにかなり離れた二つの意味があることになる。

 昔、山口百恵の歌だったか、「しなやかに歌って」というのがあった。恋人来たらず、寂しい時や悲しい時もある、そんな時はこの歌を「しなやかに」歌おう、というあらすじの歌詞だった。この場合は、これは実にいい言葉選びだと思う。「(しなや)か」「(しなや)か」、どちらの意味を含ませても女性らしく、歌によく合う。

 「しなやかに生きる」と書くと、なにやら恰好(かっこ)いい。しかし、具体的にどういう行動を積み重ねて生きると「しなやか」に生きたことになるのか、こうなってくるとどうも曖昧である。「靭か」だと、どんな圧力にも屈せず、すぐに立ち直る、七転び八起き、根性人生というような感じだが、「繊か」なら、オシャレで軽々と生きる、美しいような感じがする。

 (いず)れにせよ、はっきりとした意味を問われる公文書や論説などには使いにくい言葉で、様々な意味を言外に込める詩や小説、随筆などに向く単語であるということは言えると思う。