読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第13巻、「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」を読んでいる。

 帰りの通勤電車の中で、二つ目の「文学とは何か Introduction à une science de la littérature」(G.ミショー Guy Michaud 著・斎藤正二訳)を読み終わった。

 文学についてそれが一般的な論なのかどうかは私はよく知らないのだが、本書で著者ミショーは、「文学の完成は8割は読者や批評家・評論家によってなされる」と主張しているように思う。実際、本書の物理的分量の、ざっと8割は読者が何をなすべきかという論に()かれており、作者がどのように作品を()むかについて書かれているのは残りの2割に過ぎない。そして、作者がどのように作品を生む「べき」かは、書かれていない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第13巻「文学とは何か」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.204より
厳密な意味では――文学とは「美しい文章」ということである

 上記は、下記の部分に(つな)がる一節のタイトルである。

p.205より

 そこで、われわれは、ごく狭い意味での文学を、定義づけて、こんなふうに、いおうと思う。

 「文学とはすべて、『美しい文章をさしていうのである。」と。

 しかし、それにしても、「美しい文章」の名に値するものとは何かということになると、その判定の仕方は、はなはだ困難である。それに、いったい、だれが、「美しい文章」としての価値のある無しを、聞かせてくれるのだろうか。……

p.221より

サルトル流にいうならば、“作品はまず存在し、出会い、世界のなかに出現するものなのだ”。

p.241より

太古のひとびとの心のなかでは、詩と文学とは、ひとつに溶け合っていた。そこにあるものといえば、ただ歌であり、ただリズムであり、ただ諧調であった。それというのも、太古のひとびとには、「自然」と「超自然」のけじめがつかなかったからである。たとえば、眼前(がんぜん)にめらめらと音を立てて燃える火がある場合にも、かれらには、それが物理現象としての燃焼であるのかそれとも、何かの(おん)(りょう)が焔をあげているのであるのか、このふたつのもののけじめは、はっきりとはつけられていなかったのである。

p.297より

われわれは、文学については、ハーモナイゼーション、そしてオーケストレーションを語ることが、正当の権利として、なしうるのである。じじつ、マラルメがいみじくも(かっ)()したように、文学は、ペンと紙とによって書かれたものであるという点からは、ページにおける一種の同時性が存在するとも、いいうるのである。

 上記の部分は、私には「果たしてそうか?」と感じられ、疑問である。著者はこの部分を含む章で文学を音楽と対比しているのだが、多数の楽器や声部が同時に演奏される音楽に比べ、文学はどうしても、鑑賞の瞬間瞬間には、シリアルに流れる一文字一文字の羅列を消化していかざるを得ず、同時に別のページや段落を著者ミショーが言うように味わうには、一度作品を読み終わった読者の記憶によるしかないから、どうしても音楽と同レベルのハーモニーを楽しむことはできないのではないか。

 この部分は、むしろミショーが、文学が音楽に対して劣る部分を羨望を含めて「ああ、もし文学がこうであったなら!」と言い立てているようにも感じられる。

p.299より

 結論的にいえば、ほんものの作品においては、すべてが切り離しがたく結びついているのである。そして、ひとつの書きかたしかないようにひとつの読みかたしかないのである。だから、われわれが、ひとつの作品を理解し、またその作品とともに生きようと思うならば、われわれは、つねに、作品のもつ多様性を、統一性に従属せしめうるように努めなければならないのである。

 正しい意味での“調和の追求”。これこそが、文学作品を読む唯一の仕方であり、究極の目的なのである。

 次は引き続き同じく第13巻より、「文学――その味わい方 Literary taste」(A.ベネット Arnold Bennett 著・藤本良造訳)である。

(みぞれ)(ぼう)

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 昨夕の退勤路では(みぞれ)が降った。まだまだ冬はこれから、というのが正直なところだが、気づけば来週ははや立春である。

 通勤経路上にある道路の植栽に紅白の沈丁花があるが、その芽が既に大きく膨らみ、赤や白に色づいている。去年の秋に植えた我が家の庭の沈丁花も、よく見ると芽が膨らんでいる。

 新越谷駅駅ナカの「VARIE」に出店している「澤光青果」の店先には、早いうちから菜の花が並び、昨日(きのう)一昨日(おととい)にはもう(たけのこ)の若いのが出た。

 疲れて帰宅する間の霙にすら、そんな(はる)(どなり)の感が深い。

 今日の退勤路は昨日とは打って変わった澄んだ冬夜で、東から大きな大きな月が昇ってきた。今日の暦は旧暦十二月十七日、月は十七夜なのであるが、天文学上の(ぼう)は今日の早朝、午前4時16分で、したがって望は今日と言うことになるようだ。

 月を眺めながら、明日は庭に植えた草花にそろそろ「(かん)()」を施してやろうかな、と思う。