キリスト教と北朝鮮

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 今日は話題の映画二本をハシゴしてきた。以前も見たいなあと書いた「沈黙」「太陽の下で」だ。映画のハシゴなんてことは、生まれて初めてした。

 どちらも見応えがあった。



 「沈黙 ―サイレンス―」は原作に忠実な映画だったが、ラストシーンにはかなり野心的というか、原作に対して挑戦的な解釈が加えられていたと思う。

 「太陽の下で」は興味深く、私としては見応えはあったが、反面淡々とした映画で、映画評で騒ぎ立てられているほどの見応えでもなかった。とは言え、平壌の景色風物、主人公の少女の心の動きが活写されていて、それに費やした制作陣の労苦を思うと興味深かった。あのような映画が公開されて、製作陣や、(いわ)んや少女の一家が苦難に()ったりしていなければよいが、と思う。

 二つの映画を見て、洗脳、という言葉が我知らず反芻される。キリスト教の洗脳と、北朝鮮主体(チュチェ)思想の洗脳だ。その二つの共通項にどうしても思いが向いてしまう。

 多分、私などが「往古のキリスト教宣教師など、教会に洗脳された狂信者集団だ、その教会はエホバの威圧によせて支配と圧迫を強制するもので、所詮北朝鮮の中間軍人や官僚と異なるところなどない、彼らが(さげす)む特攻隊、カミカゼよりも残酷で非人道だ」と(うそぶ)けば、いやそれは違う 、それは偏った見方だ、純粋なキリスト教徒を洗脳したのは日本の幕府の方だろうなどと本気で反論されるだろう。だが私に言わせれば、キリスト教だからと言って正義だ洗練されているカッコいい頭良さそう、とばかり無条件に加点から始めるような人の方が偏っている。「アメリカサイコー!」も「金日成(きんにっせい)マンセー」も、結局一緒だということだ。

 筋金入りのキリスト教徒・遠藤周作はそこが分かっていたと思う。文庫でたった300ページほどに過ぎないあの短い原作で、それを言内言外両面からえぐり出して見せている。

 残念ながら、名監督マーティン・スコセッシにしてなお、多少見解に相違があるようだ。スコセッシは最後のシーンの作り込みで、そこのところを惜しくも取り(こぼ)してしまったのではないかと私には感じられた。

 他に、読書感というのは変わるものだと強く思った。

 私が「沈黙」を読んだのは二十年以上前で、神戸松蔭を出た妻の持ち物の中にあったから手に取ったものだった。

 私はキリスト教なぞ大嫌いだ。その説くところも嫌いだし、歴史的背景や、まとっている空気感も生理がうけつけない。

 だが、数十年来それを理解すべく、無駄なこととは知りながら努力をしている。なぜそんな努力をするかというと、殺し合いが良くないことだと思うからだ。相互に解り合おうとしなければ、また殺し合いが繰り返される。

 今日映画を見るつもりだったからこの機会に読み直そうと思い、妻に「あれ、どこにいったかな」と問うてみても、この数十年、引っ越しを繰り返した後のこととて詮もない。

 昨日駅前の書店で文庫を(もと)めなおし、今日映画を見る迄の間、久しぶりに読み直してみたのだ。

 私にとっては沁み入るように美しく、かつ、尖った文体と構成だと再び思う。

 昔読んだときと違って登場人物が若く感じられる。

 覚える痛みの質も違う。若い頃はキリスト教徒の痛みに強く共感したが、今は主人公の敵である日本の武士たちの描写すら痛く感じる。思えば老練の書き手遠藤周作は、それを当時から全て書きとってあった。作品は発表当時から寸分も変化していないのだ。

 遠藤周作は、情報取得不自由な往時にあって、調布にある岡本三衛門ことジュゼッペ・キアラ(主人公ロドリゴ・岡田三衛門のモデル)の墓所をも訪ね調べたものであろうか。そうした営為を思うと、作家と言うのは(あだ)(おろそ)かなものではない。こんなに苦しく痛く残酷で緊張した文章を、読み手にとっては読めば半日のこととはいえ、書くのにどうやったらいいのだろうかと、想像すらつかぬ。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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