少数派を理解せよ、而して

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 人の言う事に耳を傾け、また、人が快いと思うことをしてやり、人が嫌がることをしない。……こういうことは人間が理性の動物である以上、まことに基本的・基礎的で、必要欠くべからざる人生の態度の一つであると言えよう。そこに何らの疑問もない。

 ただ、それにも限度と言うものはある。

 人生の甲を経てくると、人間には実に様々な性癖と好悪を有する一群の者たちがあることを、知識ではなく実体験として知るものだが、そんな中には、例えば、

  •  糞便を全身に塗りたくることを無上の喜びとしているような者
  •  覚醒剤中毒患者
  •  殺人がやめられなくなった者
  •  児童を犯す者
  •  盗癖者
  •  痴漢・痴婦

……などという極端な者たちもある。

 こういう連中に対するとき、生理的な嫌悪のもと反射的に遠ざけてしまうのは、ごく一般の人にとって仕方のないことだ。だが、そこをげて、到底常人の生理の許すあたわざるこういうやからを冷静に良く調べ、彼らの心や内実を理解するということは、この価値観の多様化した現代を生きる常識人にとって、必要なことである。犯罪人の取り調べにあたる警察官などは、日々そういうことに心を砕いているのではなかろうか。

 だが、こういう極端な者たちが望むことをしてやる必要は、ない。いくら人として、相手が快いと思うことをしてやることが基本だと言っても、このような連中を調べて理解することはしても、彼らが望むことをしてやる必要などないのだ。

 これを帰納すれば、

「少数の者を愛ある態度で理解することは必要だが、その好むところをなしてやるべきとは必ずしも言えない」

ということである。

 最近、政治的に絶叫しだした人も多い。冷静にして、多数派とは言えない。だがしかし、彼らの話を聞き、彼らの言うところ、求めるところを理解する必要が大いにある。多数派でないからこそ、少数派だからこそ、その主張するところを理解しなければ人類は進歩しないのである。

 しかし、その要求するところをれるかどうかは、別問題である。

「ウンコはおいしいものです。あなたもこの美味を体験すべきです。さあ、みんなでウンコ食べようウンコウンコー」

……などと言われれば、

「そうですかおいしいのですか。なるほど、おそらくインドールやスカンドールなどの香味成分が脳の快感中枢を刺激して美味なのでしょうね。よかったですね。これからも頑張ってください」

と、彼らの心の内を研究し、理解はする。

 だがしかし、俺はウンコなど食わん。そんなことができるか。誰がお前らの仲間になどなってやるものか馬鹿野郎。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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