六本木の国立新美術館で「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というのをやっているので、見に行った。
マネ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホといった巨匠の作品が一堂に集められている。美術の教科書などで万人が知っているルノワールの「可愛いイレーヌ」やセザンヌの「赤いチョッキの少年」の現物もあり、非常に見
左のモネの作品は、「撮影OK」となっており、観客の頭越しにありがたく撮影した。
ビュールレ、というのはスイスの実業家エミール・ゲオルク・ビュールレ氏(E.G. Bührle、明治23年(1890)~昭和31年(1956))のことである。スイス国籍ではあるがもとはドイツ人で、印象派絵画の世界的コレクターとして著名だ。
これほどのコレクションを残すような大金持ちなのだから、ビュールレという名前を聞けば、ああ、あの会社か、と、氏が何の会社をやっていたのか誰しも思い浮かべそうなものだが、おそらく「ビュールレ」と聞いても、ほとんどの人にはピンとは来ないのではあるまいか。
しかし、ビュールレという名前には、「ビューレ」というカタカナ表記もある。スイスのビューレ、と聞くと、ごく一部の人にはピンと来る。さらに、彼が経営していた会社の名前、「エリコーン・ビューレー社」とか、あるいは「エリコン・ビューレ社」(Oerlikon Bührle)と聞くと、ピンと来る人はもう少し多くなるだろう。
知る人ぞ知るところだが、かつてエリコン社はスイスの誇る名兵器会社であった。古くは我が国の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭載されていた20ミリ機関砲が、このエリコン社の製品をライセンス生産したものだった。
最近では、平成21年(2009)まで陸上自衛隊が使用していた「35mm2連装高射機関砲 L-90」という主力対空火器がエリコン社の製品であった。スイス流の精密かつ質実剛健な火器で、その命中精度には定評があった。
ビュールレ氏は、このエリコン社の社長だったのである。
若き日のビュールレ氏は、第1次世界大戦で、帝政ドイツ陸軍中尉として機関銃中隊を率いて戦った。ドイツ敗戦後、復員して銀行家に婿入りした。その婿入り先から機械製作会社の経営を任されたのだが、その会社の子会社にスイスのエリコン社があった。やがてビュールレ氏はエリコン社に社長として送り込まれたのである。
エリコンの経営は当初あまり思わしくなかったらしい。しかし、仕事に没頭したビュールレ氏は、みるみる経営を立て直した。第2次世界大戦の間、エリコン社の機関砲は売れに売れた。中立国とはいっても貿易は別で、また、スイスは歴史的経緯からドイツとの関係が極めて深く、ナチス・ドイツへは特に多くの機関砲が納入された。ビュールレ氏はこれによって財をなすことを得た。
彼はその財を惜しみなく
絵画コレクションは、コレクションそれ自体がコレクターの感性、ひいては芸術性を表す作品であるとも言え、その点でビュールレ氏のコレクションは人々を感動させて
だが、ビュールレ氏はいわば「死の商人」である。「ナチスへの物的協力者」だ、などという暗い非難が彼には付きまとったらしい。「ビュールレの絵画コレクションは、血塗られた金で買われたものだ」と言うのである。また、ナチスがユダヤ人から没収した絵画が彼のコレクションに13点含まれていたことも、後になって問題視された。これは訴訟になったが、裁判の結果、ビュールレ氏には責任がないこととなったものも多く、返却ののち、誠意をもって9点を買い戻すなどしている。
印象派絵画の名品を見分ける芸術的眼力と、兵器で財を成す軍事的商才、……という取り合わせは、あまりにもアンバランスで、日本人にはにわかに胸中で一致はしないだろう。だが、それがこのビュールレという人なのである。また、一人の人間には、様々な才能、能力が同居する、ということでもあろうか。
- 兵器商人のコレクション(スイス公共放送協会(SRG SSR)国際部(swissinfo.ch)、平成22年(2010)02月11日(木)15時25分)
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