読書

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 二百十日あとの日々、台風が次々と接近しているが、今日の私の住まい付近(埼玉県)は、よく晴れて暑い。残暑とは言うものの、仲秋近くなり、ながいこと咲いていた近所の家々の百日紅(さるすべり)も散り始めた。

 引き続き平凡社の世界教養全集第3を読んでいる。

 この巻の4つ目の著作、三木清の「人生論ノート」を読み終わった。

 三木清は哲学者だが、同時に共産主義者かつ反体制主義者で、戦前に逮捕され、戦後も釈放されることなく獄死している。そういう点は嫌なところだが、しかし、この「人生論ノート」は示唆に富むところ多く、よい著作だと思う。

「噂について」

 本著作中に「噂について」という一篇がある。いまや一億総SNS社会と言っていいと思うが、そんな世相下、この一篇はまったく色褪せて見えず、燦然と光彩を放っているように思う。戦前に記されたものであるにもかかわらず、さながら昨日、著名なネットワーク評論家によって書かれたようにすら感じられ、名篇だと思うので、ここに全文引用しておきたい。

(平凡社世界教養全集第3収載、三木清「人生論ノート」より引用。
本日現在作者没後74年経過につき日本法著作権消滅)

 噂について

 噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しようもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り巻かれながら生きてゆくのほかない。

 しからば噂は我々にとって運命の如きものであろうか。それは運命であるにしては余りに偶然的なものである。しかもこの偶然的なものは時として運命よりも強く我々の存在を決定するのである。

 もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさえ決定するというのは如何なることであろうか。

 噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさえ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に関係してくるのである。しかもこの関係は掴むことのできぬ偶然の集合である。我々の存在は無数の眼に見えぬ偶然の糸によって何処とも知れぬ処に繋がれている。

 噂は評判として一つの批評であるというが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従って本来なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社会的に存在する一つの最も重要な形式なのである。

 評判を批評の如く受取り、これと真面目に対質しようとすることは、無駄である。いったい誰を相手にしようというのか。相手は何処にもいない、もしくは到いたる処にいる。しかも我々はこの対質することができないものと絶えず対質させられているのである。

 噂は誰のものでもない、噂されている当人のものでさえない。噂は社会的なものであるにしても、厳密にいうと、社会のものでもない。この実体のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じている。噂は原初的な形式におけるフィクションである。

 噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競争心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。――熱情をもって語られた噂は噂として受取られないであろう。――そこにいわば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行われる。神話は高次のフィクションである。

 あらゆる噂の根源が不安であるというのは真理を含んでいる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また伝える。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいうべく、従ってまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考えられるのもこれに依ってである。虚無から生れたものとして噂はフィクションである。

 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永続するに従って神話に変ってゆく。その噂がどのようなものであろうと、我々は噂されることによって滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無関心で冷静であり得る人間は少ないから。

 噂には誰も責任者というものがない。その責任を引受けているものを我々は歴史と呼んでいる。

 噂として存在するか否かは、物が歴史的なものであるか否かを区別する一つのしるしである。自然のものにしても、噂となる場合、それは歴史の世界に入っているのである。人間の場合にしても、歴史的人物であればあるほど、彼は一層多く噂にのぼるであろう。歴史はすべてかくの如く不安定なものの上に拠っている。尤も噂は物が歴史に入る入口に過ぎぬ。たいていのものはこの入口に立つだけで消えてしまう。ほんとに歴史的になったものは、もはや噂として存在するのでなく、むしろ神話として存在するのである。噂から神話への範疇転化、そこに歴史の観念化作用がある。

 かくの如く歴史は情念の中から観念もしくは理念を作り出してくる。これは歴史の深い秘密に属している。

 噂は歴史に入る入口に過ぎないが、それはこの世界に入るために一度は通らねばならぬ入口であるように思われる。歴史的なものは噂というこの荒々しいもの、不安定なものの中から出てくるのである。それは物が結晶する前に先ずなければならぬ震盪の如きものである。

 歴史的なものは批評の中からよりも噂の中から決定されてくる。物が歴史的になるためには、批評を通過するということだけでは足りない、噂という更に気紛れなもの、偶然的なもの、不確定なものの中を通過しなければならぬ。

 噂よりも有力な批評というものは甚だ稀である。

 歴史は不確定なものの中から出てくる。噂というものはその最も不確定なものである。しかも歴史は最も確定的なものではないのか。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異なる歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。

 噂するように批評する批評家は多い。けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である。私の知る限りではヴァレリイがそれだ。かような批評家には数学者のような知性が必要である。しかし如何に多くの批評家が独断的であるか。そこでまた如何に多くの批評家が、自分も世間も信じているのとは反対に、批評的であるよりも実践的であるか。

言葉
リゴリズム

 rigorism。厳格主義。

(『人生論ノート』(三木清)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

 良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズムである。

ヴァニティ

 vanity。虚栄。

 すべての人間的と言われるパッションはヴァニティから生まれる。

アノニム

 anonym。匿名。IT技術者としては「アノニマスFTP」なんていう言葉を想起すると納得できる。

……しかしそれにしても、虚栄心においては相手は「世間」というもの、詳しくいうと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、……

ゲマインシャフト・ゲゼルシャフト

 ゲマインシャフト:  共同社会、基礎社会。

 ゲゼルシャフト:  利益社会、派生社会。

……ゲマインシャフト的な具体的な社会においては抽象的な情熱であるところの名誉心は一つの大きな徳であることができた。ゲゼルシャフト的な抽象的な社会においてはこのような名誉心は根柢のないものにされ、虚栄心と名誉心との区別も見分け難いものになっている。

デモーニッシュ

 超自然的・悪魔的。

 怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであったのである。しかるに今では神は人間的にされている。

アイロニイ

 アイロニー。反語。

 アイロニイという一つの知的性質はギリシア人のいわゆるヒュブリス(驕り)に対応する。

アプリオリ

 a priori。原因・原理。

……言い換えると、世界――それを無限に大きく考えるにせよ、無限に小さく考えるにせよ――が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。

パウゼ

 pause。休止・休憩・中断など。

 ここでは「段落」のような意味合いで用いている。

 哲学的文章におけるパウゼというものは瞑想である。

ミスティシズム

 mysticism。神秘主義。

 瞑想は思想的人間のいわば現在である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。

鬩ぎ合い・啀み合い

 これで(せめ)ぎ合い、(いが)み合いと()む。

 私もまた「万の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず鬩ぎ合い啀み合い、相反対し、相矛盾する多くの心を見出すのである。

羈絆(きはん)

 足手まといになるもののこと。

 一様に推移し流下する黒い幕のような時の束縛と羈絆から遁れ出るとき、私は無限を獲得するのではないか。

人名
カール・ヤスペルス

 Karl Theodor Jaspers カール・ヤスパース。ドイツの医学者にして哲学者。

キェルケゴール

 Søren Aabye Kierkegaard キルケゴール。デンマークの思想家・哲学者。

次の著作

 この巻最後の著作、亀井勝一郎の「愛の無常について」を昨日から読み始めた。

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