勉強と学歴

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畏し

 (きた)る令和元年10月22日火曜日には、天皇陛下の即位の礼が執り行われる。まことにもって畏れ多いことである。

 すめらみことの(いま)したもう我が国の国柄にあって、心ならずも王法(おうぼう)に触れ、罪咎(つみとが)に問われて刑せらるる者があるのも止むを得ぬところである。

 国の慶事にあたり、御稜威(みいつ)(あまね)(ところ)、こうしたやむなき罪人を皇恩のもと(ゆる)し放つことは、古来行われてきたところであって、ごく当然のなりゆきである。

 そのような有り難き恩寵(おんちょう)の下しおかるる中において、一部、「罪人を解き放つとは何事、被害者の感情に配慮したのか」「天皇がどう言おうが罪人は永久に罪人だ、絶対に許すな」「そんなことを言うんだったら、借金をチャラにしろ!」「勉強に金がかかってしょうがねえ、奨学金を無料(チャラ)にしろ!」などという不逞極まる言説が囁かれているようである。

 さまざまな主張はあろう。国家はこれを許すだろう。だがしかし、「恩赦なんぞより奨学金を無料に」という言説には賛同できない。

 奨学金がなければ学べないような金満金欲主義の大学に大卒の学歴欲しさだけのために通わなくても、コンビニのレジにも土木作業の軍手の先にも汚物清掃のブラシの先にも、学ぶべきことは山のようにある。給料を貰って学べばよい。

 「学ぶ」は立派なことであり、尊ぶべきことであるが、それを「大学に行って学士や修士や博士をもらうこと」と直結するのは、笑止千万なことである。

 少子化のために入学者が減り、大学等は露骨な営業に走っている。大人の学歴欲をくすぐって学びましょう学びましょうなどと、あまりにも幼稚だ。

 勿論、そうでもして学業の基盤を確保し続けなければ、日本の大学如き、世界の「知」の圧倒によって瞬時に粉砕されてしまうだろう。

 だからと言って、有象無象がサラ金紛いの高利借金で学歴を買うこと、そして、その金で妙ちくりんに歪んだ学歴付与機関を養うことは、それは正しいのか?

 であれば、一言にして断ずべし。権威付けや学歴授与などによりかかることなく、ただただ、自ら学べばよい。

 暴力教師、セクハラ教諭、パワハラ教員、淫行教授なんぞによりかからずとも、世の中は読むべき万巻の書、学ぶべき神羅万象、乞うべき千言万語の教えに満ち満ちている。


投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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