読書

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 時疫(じえき)の不安に加え相変わらず降ったり止んだり鬱陶(うっとう)しい天候だ。

だが、そうは言うものの、いかにも梅雨らしく豊かに降る、とでも言えば季節を愛でようという気にもなる。ふと気づくと近所の家々の庭の百日紅(さるすべり)が、あるいは赤に、あるいは青紫に、美しく咲き始めている。芙蓉を多く植えているお宅もあり、おおらかで邪気のない明るい花が咲いている。

 盛夏の予感がする。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、三つ目の「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中(まさ)()訳)を読み終わった。

 マルティン・ルターの名前は誰もが学校で習うので知っている。学校では「ルター、カルビン」などと、フランスのカルビンと一組で習う。しかし、そのルターが何を言ったのかは、学校では少ししか習わないから、その所説を知っている人は少ない。

 もちろん私もそうであったが、この読書によってなるほどと膝を打つこと大であった。

 本書はルターの代表的論説で、誤解を恐れずザックリと内容を要約すると、

「物質的な形から入るのは誤りである。まず初めに精神がなくてはならぬ。精神から形はおのずと現れる。だがしかし、精神が成ったのち、それが物質的形となって慈愛とともに溢れ出さなければ、精神もまた誤りであったということになる。」

……ということとなろうか。ルターはこれを、「免罪符を買う」とか「ひざまずいて祈る」とかいう「形」が、「キリスト教信仰」という精神なしに横行していることを憂えて言っているのである。

 これはしかし、実に考え込まされることだ。キリスト教信仰だけでなく、例えば日本人の日常生活での「礼儀」などにも投げかけるものがあるからだ。つまり、内心では相手を蔑み、馬鹿にしているのに、態度は慇懃丁寧に相手を思いやり、いたわって見せる、というようなことに意味があるか、という問いに通じる。

 その一方で、「形は心を作り、心は形を導く」という説もある。例えば、日本ではその昔、吉田兼好法師が

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。()を学ぶは驥の類ひ(たぐい)(しゅん)を学ぶは舜の(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」

……と言っている。形から入って、それを無心になぞるうち、精神も自然に導かれ、導かれた精神は更に形を磨いていく、ということが日本では一般に肯定されていると思う。

 ここで、しかし、ルターの所説を曲解してはならない。ルターは「形など永久に棄却されるべし」などとは少しも言っていないのである。

 すなわち、本書は大きく分けて2部から構成されている。第1部では「まず精神あるべし」、つまり、信仰心のない外面だけの宗教ごっこを徹底的に攻撃する。ところが、第2部では「精神成ったのち、徹底的に物心両面、利他に徹すべし。利他の功による神の救いなど求むべからず」と、一見第一部の真逆に見える事を説いてやまないのである。

 これは、単に、形と心のサイクルの、スタートをどこに持ってきているかという些細な点が違うだけで、やはり形も大事なのである、……ルターは言外にそう言っているように私には感じられる。

 また他に、ルターは非キリスト教徒にはわかりにくい「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを誠に明快に一刀両断している。すなわち、「人を絶望させる神の厳しい『掟』、つまり『罪に対する罰』を述べたものが旧約であり、その絶望からすべての人が救われる『(ゆる)しの約束』を述べたものが新約である」という意味のことを説いている。これを言い換えると、旧約は「罰」を述べ、新約は「赦し」を述べるということで、罪の意識に(さいな)まれ、絶望した人間がその頂点に達するや、そこで神の寛大な許しにあって自由となる、と説明しているということになろうか。

 「罪と罰」による悲哀と絶望が極限に達して止揚(アウフヘーベン)され、裏返って赦しによる自由と歓喜に至る、その後は一意専心、神からの恩寵すら求めずに他人に奉仕すべし、これがルターの所説であると私は見た。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリスト者の自由」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.335より

そしてまた聖書全体は、おきて、すなわち神の戒めと、契約、すなわち約束と言う二つの言葉に分けられるということを知らなければなりません。おきては、私たちにさまざまの善行を教え、規定していますが、それによって善行は生じません。なるほど、おきては指示しますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行するための何らの力をも与えません。したがって、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることを悟り、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは『旧約』と呼ばれ、すべてのおきては、『旧約』に属しております。

p.336より

 さて、人間がおきてによってその無力を学び、自覚するようになりますと、どうしておきてを満たすことができるかと不安になってきます。おきては満たされなければならず、さもなければ罪に定められるからです。そのとき、人間は、ほんとうに謙虚になり、自分の目に無となり、自分のうちに義とされる何ものも見出さなくなります。そのときはじめて、ほかの言葉、すなわち神の約束と契約がきたって、次のように語ります。

 「おまえがおきての強要するとおりに、おまえの悪い欲望や罪から解放されたいと思うなら、キリストを信ぜよ、キリストにおいてわたしはおまえにすべての恵みと義と平和と自由を約束する。おまえが信ずるなら得られるが、信じないならえられない。おきてのあらゆる行い――それは当然多くあるが、しかも一つとして役にたたない――をもってしても、おまえにできないことが、信仰によって容易になり、簡単になる。なぜなら、わたしは信仰のうちにすべてを要約しておいたからである。したがって、信仰をもつ者は、すべてをもち、そして救われ、信仰をもたない者は、何ももつことはできない」

 このように神の約束は、おきてが要求するものを与え、おきてが命ずるものを成就します。このようにして、おきても、その成就も、すべてが神のものとなるためです。

 神のみが命じ、神のみが成就されます。したがって神の約束は、『新約』の言葉であり、『新約』に属しています。

 次は四つ目、「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)である。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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