読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」を読んでいる。

 収載書の五つ目、「回想のセザンヌ」Souvenirs sur Paul Cézanne (E.ベルナール Émile Bernard 著・有島生馬訳)を読み終わった。

 著者のE.ベルナールは自身もポスト印象派の画家として画壇に一隅を占めつつ、限りなくセザンヌを愛した人物である。

 本書には、著者ベルナールが長年私淑していたセザンヌにようやく会い、親交を深めていくことができた喜びが溢れている。時にはセザンヌのことを正直に「偏屈爺さん」とまで書いているが、それはいわば限りない尊敬と愛とによる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第12巻「回想のセザンヌ」より引用。
一部のルビは佐藤俊夫が増補した。
他の<blockquote>タグ同じ。p.479より

いつも翁を軽蔑していた連中が、パリの新聞で翁の評判がいいのを知るや急に寄ってきて、日常の生活や仕事に交渉をつけたがった。「奴らはなにか私が手品の種でも隠しているように、あわよくばそれを(ぬす)むつもりでやってきたがるのだ、(と目をむきだして)だから片端から断わってやった。一人だって、誰一人だって……(とますます怒気を含んで)寄せつけて莫迦にされるものか」

p.495より
エクス・アン・プロヴァンス 一九〇四年四月十五日
親愛なるベルナール君

 本書を受け取らるる前に君はたぶんベルギーからの通信を落手されたであろう。お手紙により芸術に対する君の深甚な同情の確証をえて欣幸とする。

 たびたび説明したと同じことをここに再びくり返すのを許してください。自然は球体、円錐体、円筒体として取り扱われねばならぬ。そのすべてが透視法に従い、物体と(プラン)の前後左右が中心の一点に集注さるべきである。

 この部分は、静物画を得意としたセザンヌの有名な主張である。

p.502より

 ルゥヴルは読み方を教える本に等しい。しかしながら先輩の美しい処方の踏襲で満足していてはならぬ。。自然を研究するためにその園内から踏みだそう。それから精神を解放しよう。各自の()(ひん)に従って自己表現に努めよう。時間と省察とがすこしずつ幻覚を調節し、ついにわれわれが理解に到着するだろう。

言葉
寂か

 これで「(しず)か」と読む。

  •  寂か(漢字ペディア)
下線太字は佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.484より

 十時が鳴った。王をブゥルゴン町へ送っていった。月光の訪れた寂かな町の間をいつまでも話が尽きずに歩きまわった。

掌る

 「(つかさど)る」である。

p.494より

 一度も挨拶する機会をえなかったマリィ・セザンヌ嬢……翁の妹が家計万端を処理しておられた。家政、毎週の小遣銭、出入商の通帳などの世話まで掌り、誠実な愛情でそれを果たしたのみならず、善良な基督信徒として翁に無形の保護を怠らなかった。

呑噬(どんぜい)

 この「世界教養全集」は「ルビ」はあまり懇切には振られていない。しかし、この言葉は珍しくルビ付きで記載されていた。

 「飲み込んでしまうこと、のまれてしまうこと」を「呑噬(どんぜい)する」「呑噬される」という。

p.499より

マルセィユ港外に着いたときははっきり太陽が見えだしたのに、風は依然強く、ところどころに山頂を見出すのみだった。われわれはまったくシムン(サハラ砂漠で隊商を苦しめる熱風で、地中海および南仏の名物であるミストラルと匹敵すべき害風)のために呑噬(どんぜい)されてしまっていた。

頤使

 「頤使(いし)」と読む。「()」は訓読で「(おとがい)」と()み、おとがいとは(あご)のことである。つまり、「アゴで()き使う」ことを「頤使」と言う。

p.503より

どうか絵をかきつつ死ぬようにと祈っている(Je me suis jure de mouriren peignant.)。すべての老人が襲われるところの憐むべき赤ん坊(ガティスム)の状態になって、その暗愚な感覚に従い、心猿の頤使に一身を任すより、その方が万々勝っている。

雲烟過眼

 本文ではなく、有島生馬による解説の方に出てくる。「雲烟(うんえん)()(がん)」と読み、ものごとを軽く見過ごしにしてしまうことである。

p.506より

 私はパリについてから、この一枚のセザンヌを見たには見たが、この無名画家の、はなはだ目立たない作品を、マネの「オランピア」や、ルノワールの「ぶらんこ」や、モネの「カテドラル」と比較しようとしなかった。というより雲烟過眼していた。

窃か

 同じく解説に出て来る。「(ひそ)か」と()む。

 「窃盗」という言葉の「窃」であるが、これは「ぬすみ、ぬすむ」という重意の言葉ではなく、「コッソリぬすむ」という意味であることがこの「窃か」の訓みから逆に解るわけである。

p.506より

一般大衆の注目を惹かないのも、これではあたりまえであるが、大衆の目をひかないほどの陰にかくれながら窃かな光、重さ、大きさを備えている奥ゆかしい芸術というものは類が少ない。

 次は六つ目、「ベートーヴェンの生涯 Vie de Beethoven : 1903」(ロマン・ロラン Romain Rolland、平岡昇訳)である。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください