読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の二つ目、「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。中央線水道橋のあたりだった。

 著者ウェルズはSF小説の創始者として誰知らぬ人のない大家であるが、平和運動や歴史書の執筆でも多くの功績がある。本書は第16巻約600ページのうち300ページ以上を占める大著なのだが、これをしもウェルズは「小史 short history」と題している。さもあろう、ウェルズは本書より先に厖大浩瀚(ぼうだいこうかん)の一大著作「世界文化史」を(あら)わしており、本書はその入門編であると自身の手になる序文に記しているのだ。

 本書はなんと、地球の生成から語り始められ、一気呵成に第2次世界大戦前夜までを語り尽くす。欧州史に重心が置かれていることはウェルズの立場から言って当然ではあるが、公平にアラビアや東洋についても語られ、日本についても特に一項を割いてその歴史を通観している。

 著述の姿勢は実に公平・公正と言える。戦争について記すにしても、弱者が劣っていた、誤っていた、敗者がすべて悪かった、というような見方を徹底的に排除しているように感じられる。

 ここで、翻訳者藤本良造による看過すべからざる悪辣な加筆が加えられていることを指弾しておかねばならぬ。解説に記されているが、藤本は翻訳するにあたり、第2次大戦後に出された本書の改訂版に、ウェルズによって付け加えられた巻末の「補遺」を「大した意味がない」(p.499の藤本による解説)として切り捨て、あたかもウェルズの手になるかのような誤解を招く形で自分が書いた文章を挿入しているのである。その文章は下手糞な筆致で敗戦した日本への不満を垂れ流したものであり、歴史に冷静な視線をもって対しているとは言いがたく、ウェルズの公平無私の著述態度とは正反対の下らないものだ。ウェルズの闊達で俯瞰的な姿勢には到底及ばない。この無残な改変は原書に対する甚だしい侮辱であり暴挙であって、翻訳の労による折角の功績をゼロにするばかりか、マイナスにもしかねない。藤本は「ウェルズはこの改変を許すであろう」という意味のことを書いているが、こんな下らぬ内容の文など決して許されまい。その一点のみ、読書していて残念であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「世界文化小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.227より

 どんな未開人でも一種の因果論をもたないほど低級なものはない。しかし原始人は因果関係についてはあまり批判的ではなかった。かれらはひじょうに簡単に一つの結果を、その原因とはまったく異なった他のものに結びつけてしまうのである。「そうしたからそうなった。だからそうすればそういうことになる」と考える。子供にある果実を与えると幼児は死ぬ。剛勇な敵の心臓を食べれば強くなる。この二つの因果関係の一つは真実であり、一つは誤りである。われわれは未開人の考える因果の体系を「庶物崇拝」と呼んでいる。しかし庶物崇拝はたんに未開人の科学にすぎない。それが現代の科学と異なっているのは、それがまったく非体系的、非批判的であり、それゆえに時々誤っていることである。

 原因と結果を連絡させるということが困難でない多くの場合もあり、また誤った考えが経験によってただちに訂正される場合もたくさんあった。しかし原始人にとってひじょうに重大な出来事のうちには、かれらが辛抱強くその原因を探求して発見した説明が誤ってはいたが、といってその誤りを見破られるほど、明白な誤りでもなかった場合が数多くあった。狩りの獲物が豊富なことや、魚がたくさんいて容易に獲れるということは、かれらにとっては重大な事柄であり、たしかにかれらは無数の呪文や前兆によって、この望んでいる結果の解決をえようと試みたり信じたりしていた。

p.228より

原始宗教はわれわれがいま宗教といっているようなものではなくて、むしろ習慣であり、行事であり、初期の聖職者が指図したことは、実際には独断的で原始的、実用的な科学だったのである。

p.334より

どんな帝国も、どんな国家も、どんな人類社会の組織であっても、つまるところは理解と意思によって成り立つものなのである。ところがローマ帝国のための意思はなにものこっていなかった。そしてローマ帝国は崩壊していったのである。

p.350より

九世紀の初めのイングランドは、シャールマーニュの臣下のエクバート王が支配するキリスト教化された低ゲルマン語国であった。ところがノルマン人はこの王国の半分を、エクバート王の後継者であるアルフレッド大王(八八六年)から強奪し、ついにはカヌート(一〇一六年)の指揮のもとにその全土の支配者となった。また一方のノルマン人の隊長ロルフ(九一二年)のひきいる別の一群のノルマン人はフランス北部を征服したが、これはノルマンディ公国となった。

 カヌートはイングランドだけでなくノルウェーやデンマークさえ支配していたが、そのはかない帝国はかれの死によって、領地をその息子に分配するという未開種族の政治的な欠点のために分裂してしまった。このノルマン人の一時的な統一が継続されたとしたら、どんなことになったかを考えてみるのは面白いことである。

p.425より

人間はもはやたんに無差別な動力の源泉として求められはしなくなった。人間によって機械的になされていたことは、機械によってさらに速く、いっそう巧みになされるのであった。人間はいまや選択力と知性を働かすべきときだけに必要となった。人間は人間としてのみ要求されるようになった。これまでのすべての文明を支えていた労役者、たんなる服従の動物、頭脳のない人間、そうしたものは人類の幸福には不用のものとなったのである。

 上の部分は産業革命について述べた部分であるが、これについてはしかし、多少疑問も覚える。というのは、現在も同じようなことが人工知能(AI)に関して言われているが、労役者としての人間が不要とされる時代はこの情報革命後の現在においても、結局来てはいないからである。

p.452より

 ロシア軍は、指揮も下手で供給品にも不正があったため、海上でも陸上でも敗北した。しかもロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航していったが、対馬海峡で完全に撃滅されてしまった。そしてこうした遠方での無意義な殺戮に憤激したロシア民衆の間には革命運動が起こり、そのためにロシア皇帝は仕方なく戦争を中止することにしたのであった(一九〇五年)。かれは一八七五年にロシアが奪った樺太(からふと)(サハリン)の南半分を返し、撤兵して朝鮮を日本にまかせた。こうしてヨーロッパ人のアジア侵略は終りとなって、ヨーロッパの触手は収縮し始めたのである。

 そうした意思を日本が持っていたかどうかは別として、欧州人の東亜侵略を他ならぬ日本が終わらせたのだとウェルズは言っているわけである。私がウェルズの著述姿勢を公平無私であると思う所以(ゆえん)は、こうしたところにある。

言葉

 これで「(けり)」と()み、チドリ科の鳥の一種のことなのだが、本書中では次のように使われている。

下線太字は佐藤俊夫による。訳者藤本良造による「補遺」p.477より 

そして交渉の結果は、ついにソヴェトの連続的爆撃によって高価にはついたが三ヵ月の後に、ともかくも問題の(けり)はつけられることになった。

 「ケリをつける」という慣用句のよってきたる(いわ)れは、文語体の助動詞の「けり」が、文の「おしまい」を「切る」働きがあることから、「おしまいにする」「結論を出す」というところにある。俳句の切れ字で「やみにけり」などと句の終わりなどに使われることからもわかる通りだ。

 だが、古い文章などでは洒落(シャレ)のめしてか、この「鳧」という字を使うことが多いようだ。しかし、鳥の鳧と、ケリをつけるという意味の「鳧」との間には、直接の繋がりはない。

 次は同じく第16巻から「歴史とは何か History」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)を読む。著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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