この10年ほど、どうも「朝の通じ」について、体調がととのわず、困っていた。40代後半から現在までにかけてだ。
その前10年、40代後半以前は違っていて、時計のように正確な体調が私のひそかな自信でもあった。朝5時に起き、ご飯を食べると、5時25分には偉大なる本尊がドカッと顕現ましまして、そのあとピアノの稽古をして、6時ちょうどには元気よく家を出る、というのが日常であった。
ところが、10年ほど前から、それがどうも、ととのわなくなってしまったのだ。
まず、朝、出ない。しかたなくトイレに座り込むが、どうも変な出方だ。「今日はたまたまだろう」と家を出て電車に乗ると、これがまた、駅と駅の間の中途半端なところで猛烈にもよおし、下りはじめる。たいていは水のようなユルさで、それを我慢するのに困惑・閉口する。
幸いなことに、これまでは通勤電車内で失禁してしまうというようなことはなかったが、「相当にヤバい」窮地には何度も陥った。「こ、ここで負けたら、お、俺は人間失格だッ!」という、背水の陣のような精神力で乗り切ったものだ。
おかげで、東武スカイツリーライン新越谷駅から、日比谷線秋葉原駅までの、「空いているトイレ事情」について、少々ウルサイ男に進化した。
さておき、このことに関して、二つ、感じていることがある。
一つは、自分の
というのは、先日から、この毎日の
仕事に行かない、というただそれだけのことで、数年来の下りッ
「ああ、俺、こんなにも、仕事が嫌いだったんだ」
……ということが、とりもなおさず、わかってしまった。
最近はメンタルヘルスのチェックが盛んに行われていて、私の職場も例外ではない。その中には「最近下痢が続いたり、逆に便秘になったりしていませんか」という質問項目がある。「お通じ」は、精神衛生が大きく左右する指標なのだ。
実は、私はそれを認めたくなかった。認めたくないということは、つまり、多少のことで体調を崩し、腹を下すような人を、私は内心で蔑んでいたのではなかったろうか。
「俺は違うんだ、仕事がいやだから腹が下るんではないんだ、そういう人と一緒にしないでくれ、これはたまたま、なにか、そう、ちょっと酒の飲みすぎなだけだよ!」
と思い込み、また思い込もうとしてきた。
だが、体は正直だ。私はやっぱり、仕事がいやで腹を毎日下すという、そういう他愛のない、可愛げのあるオッサンに過ぎなかったのだ。
なんてことはない。まるで、私は馬鹿だ。これからは、仕事が嫌で体調が悪くなる人に、もっと優しくしよう。
以上が一つ目。
二つ目は、上のような理由で駅のトイレに親しむようになって、いつ頃からか気づきはじめ、今ではもう愕然とすらなっていることなのだが。
東京オリンピックの開催を境に、都内の主要な駅の便所は壁や床が改装され、洗浄便座が備え付けられた。清掃も行き届くようになり、実に清潔になった。思い返すに、20年くらい前の新宿駅のトイレなんて、落書きだらけ、ゲロまみれのウンコまみれで、とても中国の汚穢便所をバカになんかできない、民族の記憶の恥部、国家の黒歴史みたいなものだったが、今では打って変わって綺麗なモンである。
その綺麗な便所で、見るともなしに見ていいて、あることに気づいてしまった。
便所を使う客の、9割とは言わない、ざっと見て、6割から7割5分くらいのオッサンらが
「ウンコ、あるいはションベンをしたあと、手を洗ってない」
という事実である。
本当だ。皆さんも興味を持って観察してみてください。女子トイレの状況は私にはわからないが、男子トイレは、そういう状況だ。
ええ~っ!?お、お前、そのチンコ握った手で吊革つかむ気か~ッ!!??
そういう状況なのである。
ウンコ拭いた手で手すり握るな馬鹿~ッ!!……そう叫ばずにはおれないが、駅で叫ぶとこっちが狂人扱いされてしまうから、叫ぶこともできないのだ。
ばかりか、便所の個室で弁当を食ったり酒を飲んだりしているらしい痕跡に度々出くわす。
便所で飲食し、手も洗わず、その手でエスカレーターの手すりにつかまり、電車に乗って吊革掴んで職場へ行くわけだ。
この状況は、新型コロナがどうこうとか、感染症予防対策がなんとかとか、そういう議論ができる状態をはるかに超越し、もはや異次元である。
怖いッ。新コロうつされる以前に、大腸菌で食中毒になってしまう。
「人を殴るのは悪いこと。大の大人に言うことじゃないよな」
と呼び掛けている。がしかし、
「便所を使ったら、手を洗おう」
……。こ、これはどうなのか。大の大人に言うことではない、と思う。保育園の幼児にやさしく
このように、世の中の現実というのは、あまりにも無残だ。
こういう、便所で手を洗わない人たちが、政治や社会に文句を言ったり批判したりするんだなあ。それが、切れば赤い血の出る、大切な命のある、人の生きる世界なんだ、と、逆にしみじみしてしまう今日この頃である。