自衛隊制度異感

投稿日:

 40年あまり勤めた自衛隊を定年退官して、はや4年目も半ばを過ぎた。最近、(たま)さかには自衛隊の思い出話なども書くようになった。

 多少、雑感を(したた)めておくのも悪くない。

憲法に関して

 諸論あるところであり、私のような退官自衛官が全員同じ意見とは思わない。多分、私のような意見を持つ者は現職退職問わず、少数派だと思う。そのように前置きしておいて、その上で述べる。

 憲法は、一切、一字一句たりとも、改正する必要などない。1000年はわからないが、500年は改正しなくていいだろう。仮名遣いや用語用字の修正すら、する必要はない。

 心ある人たちは、これまで事実として日本の鎮石(しずめいし)たる自衛隊がツールとして役にも立ってきたことを深く考え、憲法との整合性を様々に議論してきた。意見のバリエーションとして極端なものを挙げれば、あるものは、自衛隊は違憲である、違憲であるから即時自衛隊を廃止せよ、また別のものは、否、自衛隊は違憲であるが必要であるから憲法のほうを改正せよ、更に別の者は、否々、自衛隊は合憲である、現憲法のまま自衛隊の存在は合法であり、(いわん)やその行動においてをや、憲法の趣旨は急迫不正の侵害にあって国民悉皆(しっかい)座して死を待つべしというような人権蹂躙(じゅうりん)(はなは)だしい極論の上には立脚していない……等々、数十年にわたって多くが語られてきた。

 「糞のような議論」……とまでは言うまい。政治の大家などにはこのことに生涯をかけた人々もいる。だから、それを尊重して「糞」などとは言うまい。だが、言うまいけれども、それでも、私には「糞のような議論」に感じられて仕方がない。

 宗教で例えたい。

 キリスト教の大意は、ユダヤ教の厳神より発して愛あるキリストの磔刑(たっけい)と復活により昇華し、没後弟子パウロによって確立され、そこから旧教(カトリック)は聖母の慈愛を讃仰(さんぎょう)する。新教(プロテスタント)は復古し、なお神とキリストに慴伏(しょうふく)し、その愛を渇仰(かつごう)する。そこに「人を殺せ」とか「盗め」とか「(だま)せ」などということは一切説かれることはない。神への絶対の帰依と人間愛を説くものと理解される。聖書は一字一句の加除訂正もなく世界に翻訳流布され、その二千年以上になんなんとする伝統は世界史に(さん)としてある。

 その素晴らしい聖書を頂く人々は、だが、見たまえ、殺し合い、憎み合い、盗み合い、騙し合っているだろう。キリスト教絶対多数派のアメリカ人が、毎年毎年乱射事件を起こして人を殺しているだろう。

 仏教はどうか。仏典は多様性に富み、その大意を一言で表すことは困難であるが、これもまた、「人を殺せ」とか「盗め」とか「騙せ」などということは一切説かない。正しい生き方をあらゆる方便をもって説く。しかるがゆえ、大蔵経に加除訂正が行われることはない。

 だがしかし、仏教徒の実際も、キリスト教徒と大同小異であり、殺し合い、憎み合い、騙し合っている。

 私は回教(イスラム)(くら)いが、世界の状況を(おも)(はか)るに、回経典(コーラン)回教徒(ムスリム)の関係も、おそらく上述二教徒と似たり寄ったりだろう。

 聖典や経典が人間に合わないからこれを修正しようなどということは、必要ない。なんとなら、聖典や経典は「それはそれ」であり、人間は「そのまま人間だから」である。

 日本国憲法も似たようなものである。自衛隊が憲法に位置付けられていないから、一朝事あるときに人を守らなくてよいなどという理屈など通るはずがない。「それはそれ」として自衛隊は国民を守らなければならないのである。

 せっかくここまで、およそ80年にもなんなんとする間、一切の手を加えずに憲法を護持してきたのであるから、このまま500年くらい、「伝説の古文書にして唯一無二の経典・日本国憲法」としてそのままにしておけばよろしい。内容と現実との乖離など、聖書とキリスト教徒、仏典と仏教徒、回教典と回教徒のようなものだ。「ルールと人間」なんて、そんなものだ。

 それでも自衛隊は義務を果たすだろう。

 それしきの落ち着きの悪さに我慢がならない自衛官など、懦弱(だじゃく)で修業が足りないから自分から辞めてしまうか、さもなければ免職(クビ)にしてしまえばよい。

階級に関して

 自衛隊は創設時から旧軍隊との形の上での袂別(べいべつ)を追求したため、旧軍隊と似ているようで同じではない珍妙な階級呼称を用いる。すなわち、二等兵は2士、軍曹は2曹、少尉は3尉、大佐は1佐、……となっていることだ。

 最近はあまり耳にしなくなったが、これに違和感を表明し、(こだわ)る人もかつてはかなり多くいた。すなわち、「この階級呼称が自衛隊の行動力を()ぐ遠因となっている。自衛官が誇りをもって任務に邁進できるよう、階級呼称は旧軍隊と同様の呼称に戻し、ひいては自衛隊を国防軍に改め、憲法も改正すべきである」というのである。

 だが、これは、例えば40年もの間自衛隊にいた私のような者を愚弄するもので、自分でいうのも僭越だが、私の労に報いるような意見では、まったくない。

 自衛隊が警察予備隊から保安隊を経て、現在の形に整ったのは昭和29年(1954)のことである。今年(令和7年(2025))で既に71年の歴史がある。他方、旧軍隊は明治4年(1871)~昭和20年(1945)まで74年の歴史があった。

 つまり自衛隊は、あとわずか数年で旧軍隊の歴史の長さにも比肩し得る歴史を経ることになる。その間、不戦であったことは言うまでもない。

 その七十有余年の歴史の過半に及ぶ、40年もの自衛隊歴が私にはある。私は、今の階級呼称を押し頂いて、その数十年の長い年月を真面目に勤務してきたのだ。今の階級呼称で歯を食いしばって頑張ってきたのだ。今更、それが中佐だの二等兵だのに変わったからと言って、それがどうしたというくらいの意味しか感じられない。

 階級呼称復古を主張する人は「大将、少佐、軍曹と言った軍人の階級呼称は世界標準なのであるから自衛隊もそれに変更すべき」などと言うことがある。私に言わせれば、そんなものは「珍妙怪奇そのものの笑止千万論理」である。というのは、大将とか少佐とか軍曹とかいうのは、英語で言う General とか Major とか Sergeant、独語なら Allgemein、Wesentlich、Sergeant、仏語なら Général、Majeur、Sergent と言った欧米語の呼称を、明治期に和語や華語の古い言葉をアレンジしてあてはめ、翻訳したものだからだ。大将とか少佐とか軍曹というのは明治時代に翻案・創製された「新日本語」であって、世界標準の言葉などではない。世界標準というならGeneral とか Major とか Sergeant とかいうのが世界標準だろう。

 どうしても変えるというのなら、諸外国の軍人について新聞などが書くとき、その翻訳語を変えればよろしい。すなわち、「スティーブン F. ジョスト空軍中将 Lt. Gen. Stephen F. JOST」を記事にするときには、「スティーブン F. ジョスト空将」と書けばよいのだし、「陸軍大尉マッコーネル中隊長 Army Captain McConnell Company Commander」はやめて「1等陸尉マッコーネル中隊長」と翻訳すればそれでよいのである。実際のところ、もし私がアメリカ人に紹介されるとすると、「元2等陸佐 佐藤俊夫」は「Retired Army Lieutenant Colonel Toshio Sato」と紹介されるだろう。私は、現職の頃、2度ほど渡米して任務を果たしたが、当時も名札には「Lieutenant Sato」だったり「Army Captain Toshio Sato」と日英翻訳で書かれていた。だから逆もそうすればよい。わざわざ中尉だの陸軍大尉だのと訳す必要がどこにある。英日翻訳はそのまま2尉とか1等陸尉と訳せばよい。

 もっと言うなら、「米軍」とか「英軍」とか「米国陸軍」とか「米国海軍」と翻訳するのをやめてしまえば、国防軍への改編問題も全部解決する。すなわち、「米国陸軍 US Army」 は「米国の陸上自衛隊」と翻訳すればよろしい。「英王立海軍 British Royal Navy」を翻訳する時も、「英王立海上自衛隊」と訳せばよろしい。それが日本語の主体性ってものだ。

 もう、旧軍隊の階級とその意味を分かっているような人は、日本人にはほとんど残っていないさ。当然、自衛隊の階級章なんか、普通の人にはわからない。ならば、現在の自衛隊への理解をより一般に得るべく、日本語のほうを自衛隊の階級呼称に変えていき、普及させるのが政府の務めではないか。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.