便所爺

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 毎日伝書鳩のように会社と家を往復している。私は爺ィだから、品行方正そのものだ。

 会社には子供みたいなことをする人がいて、トイレの手洗い洗面台がいつもびしょびしょに濡れ、汚れている。時にはゴミなどが放置されていたり、手を洗って拭かずに戻り、そのままの手で部屋のドアを開け、ドアノブが濡れていたりする。

 それで、私はトイレに行くたび、他人の邪魔にならない限りは、備え付けのクリーニングクロスで汚れた洗面台と、うがいか何かの飛沫の飛び散った鏡を綺麗に拭き清め、クロスはぎっちり折って、真ッ四角に角をそばだてておく。ゴミは拾って、所定のゴミ箱に捨てる。ドアノブは備え付けのキムタオルか、それが切れておれば自前の懐紙で拭く。

 もちろん、ビルの管理会社が一定のインターバルで清掃しているが、契約上のSLAでは少々間に合わないきらいがあるようだ。

 こうしたことを地味に続けていると、それをするようになったきっかけを思い出す。

 私は十数年前、47歳の頃、防衛省・統合幕僚監部の防衛計画部(J5)というところでOR(オペレーションズ・リサーチ)の仕事をしていた。

 統幕というところは陸海空の自衛官と事務官、技官が相携えて仕事をしているところである。

 そんな中で、特に海上自衛官と親しく一緒に仕事をさせてもらっていて改めて感じたことがあった。

 それは、彼らの身綺麗さや清潔さである。前から「海上自衛隊は掃除にうるさい」ということは知ってはいたが、統幕で改めてそれを強く感じた。

 というのも――。

 私自身は当時、防衛計画部の中では珍しく万年1尉の下っ端で、しかも47歳のロートルだったが、防衛計画部全体で言うと、庶務の女性海曹を除けば、ほとんど全員が1佐?3佐で、主力層は若手の2佐、つまり、とても階級が高かった。

 自衛官は一般に、階級が高くなると整頓や清掃などは下の者任せになり、自分ではあまりやらなくなる。

 ところが、統幕の海上自衛官は、1佐・2佐といえども、若い頃から芯に叩き込まれた習性があるのだろう、服装や身の回りが清潔なのである。

 海上自衛官がトイレの「大」から出てくるのと入れ違いになると、必ずトイレットペーパーの端が精密に三角に折られ、便器が糞で汚れているなどということが全然ない。

 これが陸上自衛官となると、どうもだらしない。糞片が便器に残っていたり、トイレットペーパーの破り方も何だかだらしなく斜めにギザギザである。

 いや、私も陸上自衛官であったから、言い訳のために書いておくと、若い頃、教育隊や学校では随分と掃除でシゴかれ、「キレイだと言うなら、この便器を舐めてみろ!」などと、さんざんいじめられた経験など、一定の年齢層以上なら大概の陸上自衛官にもあって、私もその例には漏れなかったけれども、教育隊や学校を修了してしまうと、喉元過ぎればなんとやら、とばかり弛緩してしまうのである。

 ところが海上自衛官は違う。これは若い頃の清掃に関するシゴかれ方が陸自に倍するのかもしれない。清潔に関する緊張感が2佐になっても1佐になっても、ずっと持続している。

 さて、統幕で私の席があった部屋はトイレの向かい側にあった。

 当時の防衛計画副部長は某海将補という人格者で、謹厳実直な方だったが、私の所属する室の仕事ぶりなどを様子見がてら、「よっ、やっとるか?」などと声をかけ、私のいる部屋の中を通り抜けてトイレに行かれる。近道だからだ。

 帰りも逆経路で部屋を通り抜けていかれるのだが、その時のついで、なぜか私に「便所の洗面台が汚い」と文句を言うのである。

 これには閉口した。というのも、(まったく、うるせェなあ、何で俺に便所の文句言うんだよ、俺は便所係じゃねえよ)と胸の内で愚痴りながら渋々便所を見に行くと、洗面台が水一滴なく綺麗に拭き上げられ、クリーニングクロスが真四角に折られて整頓してあるのだ。防衛計画副部長にして海将補という極官にある、某将補手ずからなさったことは疑いない。

 しかし、私はそれを一、二度ほど目の当たりにしても、なんだか、他律的に尻尾を振るようなことは潔くないことのように思えて、洗面台清潔化に取り組もうとはしなかった。ある時には、いつものように「便所が汚い」と私に言った副部長に、

 「いえ、副部長、これは役務調達の『監督官』の問題であります」

 と口ごたえしたことさえあった。防衛省庁舎A棟の清掃は、きちんと役務契約がされており、部外委託で清掃が行われている。その要求元の、官側の監督がなっていないから便所が汚れるのである、と私は言ったわけである。

 そうしたら、副部長某将補も負けてはいない、ニヤリと片頬笑って、

 「うむ、佐藤よ、確かに監督官の問題だな。えーっと、市ヶ谷庁舎の清掃委託の要求元はどこだ、中業支か?! ??なんだ、陸じゃないか」

 と、こうおっしゃったものだ。「中業支」とは市ヶ谷の駐屯地業務全般を一手に担っている「中央業務支援隊」のことで、陸自の部隊なのだ。

 これは完全に私の負けである。というのも、統幕では陸自に関する調整は陸上自衛官が能動的にパッと動いて受け持つしきたりで、私は私の怠慢を自ら言い立てたような格好になったからだ。「文句があるなら自分で中業支に調整してこい、お前は陸だろ」と言うわけである。無論、当時の私にそんな権能はなかった。

 しかし、そんなことが一ヶ月も続いたあと、私は渋々、しかも周りの人に「まったく、副部長は何で便所の文句を私にばかり言うのやら」などと愚痴を言いつつ、自ら便所の美化に努めるようになった。なんなら、尿意も便意もなくても、時々便所へ行って、汚れたところを清掃するようにすらなった。

 便所には清掃業者のチェックリストがクリップボードに挟んでぶら下げてあり、清掃した時間と氏名のサインが記されている。その時間の谷間の、洗面台が汚れていそうな時間に、洗面台を拭きに行き、トイレットペーパーの端を三角に折った。

 海将補という極官がなぜ手ずからトイレの洗面台など清拭してそれを私に示したのか。いわく言葉にしづらいその動機が、何となく私に伝わったのだと言ってよい。

 数年経って、私は陸自の古巣部隊に戻った。戻っても、その習慣を持続することにした。

 前述したが、陸上自衛官の尻癖は海上自衛官とは比べ物にならず、汚穢である。極端な話だと、かれこれ二十年以上前だったか、頭がおかしくなった奴が市ヶ谷庁舎の便所の壁に糞便を塗りたくるという不祥事があり、さすがにこれは警務隊まで出張ってくる騒ぎとなった。

 それはさておき、陸自に戻ると、統幕の時と違って、私もそれなりに「上の方の立場」になっていた。私が腕まくりをしてせっせと便所の洗面台を拭き上げ、クリーニングクロスをギチギチの真ッ四角に折り、洗面台の鏡の下に整頓していると、私の番頭役の曹長が

「班長、班長がそんなことされたら、私ら、クリーニングクロスが使えなくなっちゃうじゃないですか」

と苦笑しながら言ったことがある。陸自ではベッドメイキングの折、寝床の毛布の角を真四角にそばだてる。これを「毛布の角(カド)をとる」という。さながらそれのようにクリーニングクロスを角張らせていたので、曹長も呆れて言ったのである。

 だが、私はやめなかった。当然のことながら、下の者に「お前らも便所を綺麗にせい」などとは言わなかった。

 若い頃は、私も下の者を掃除で随分とシゴいた。だが今はそういう年齢や立場ではない。そうも思ったし、そもそも便所の掃除そのものは役務の業者さんの役目だ。私のしようとしていたことは、そういう実務上のことではなく、何か精神的なものだった。

 卑下して言えば、自己満足だろう。

 やがて私は定年になり、自衛隊を去った。

 再就職した会社では、以前のように便所の洗面台を拭いたり整頓するようなことはしないようにした。ビル管理会社の役目をないがしろにするような気がしたからだ。

 ところが、二年ほど経って、またそれをするようになった。それにはわけがある。

 ある時、総務系の担当者から注意喚起のメールが全員あてに来た。いわく、

「廊下の隅などにゴミを捨てるのはやめてください。ゴミは決められたところに捨てましょう」

「濡れた手でドアノブ触るのはやめなさい。不快です」

「ウォーターサーバーの紙コップを使いすぎです。節約してください」

……等々。

 なるほど、これはまったくおっしゃる通り、反論の余地もない、と思うと同時に、(こんなことを担当者に言わせるなんて、小学生男子か何かかい、大の大人がみっともない)と思った。また、会社には色々なルーツや立場の人がおり、習慣や意識の違いなどで、そのへんにウッカリゴミなど捨ててしまう場合もあるのだろう、とも思った。

 ところが、普段そういうことに口を差し挟まないある人、Aさんという人だが、Aさんはそのメールに全員返信でこんなことを書いて来た。

 「そんな行儀の悪い人がいるとは嘆かわしい。そんな人のいる会社の納品物は、きっと品質もタカが知れている」

 普段寡黙なその人にしては痛烈な皮肉メールで、私も(そうだよなあ)と同感した。

 同感すると同時に、こうも思った。

 ゴミを散らかしたり、ドアノブを汚すようないい加減な人のいる会社の納品物の品質が低いのならば、逆に、身の回りや汚れたところを綺麗にしたり、ゴミを拾ったりする人のいる会社の納品物は、品質を向上する精神が鍛えられていて、自然と品質も良くなるはずである。

 そのような経緯で、私はまた便所に行くたびに洗面台を綺麗にするようになった。品質向上精神を鍛えるためである。

 ある時、私がいつものようにせっせと洗面台を拭いていると、たまたまそこに、前述のAさんがいた。Aさんは私の行動を見て、

「佐藤さんはどうしていつも洗面台を拭いているんですか?」

(おっ、来たな、得たりやオウッ!)とばかり、私は

「これはですね、『品質向上活動』です」

と答えたものだ。Aさんはさすがに、以前自分が言ったことだからピンと来たらしく、「なるほど」とつぶやいて、

「私もやろう」

と一緒に洗面台を拭いてくれた。

 今のところ、私の品質向上活動に賛同してくれているのがAさんだけなのは、まあ、ご愛嬌の内としたいところだ。

 かくして、今日も私は会社と家を往復する伝書鳩であり、ついでに便所爺である。


 この記事は、Threadsに書いた記事からの転載です。

投稿者: 佐藤俊夫

 60歳前の爺。技術者。元陸上自衛官。40年勤め上げ、2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者。 セカンドライフはシステムエンジニアになって働いています。

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