トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.81

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 今日は次女のピアノのレッスンである。そして、私は仕事が休みである。土・日、飛んで天皇誕生日の飛び石連休である。そのなか日、月曜に休みを取ったのだ。だから4連休だ。

 当然私がレッスンに連れて行く。そばで待っているのだが、先生が次女につける稽古に耳をそばだたせ、私の肥やしにする。

 連弾用のトルコ行進曲、先生は稽古をつけながら、次女の様子を見い見い、「ここんところは5432、でいこっか!?」などと、次女が弾きやすいように随時指づかいを変えていく。・・・ふうむ。

 レッスンが終わってから、少し先生に尋ねてみる。

「あのう、先ほどのお話ですが、指づかいっていうのは、変えていっていいものなんですか?」

 先生のお話によると、変えていい場合といけない場合があるそうである。

 基本的にハノンなどの練習曲は、その指で弾くことを練習させていたりするので、変えてはいけない。楽譜の指示のとおりに弾くことが練習曲の目的にかなう。反面、今回の連弾の曲のように、演奏を楽しむような場合には、楽しめるように変えていってかまわない。ただし、楽譜の指示の指づかいが、もっとも弾きやすいやりかたの提案であったり、一見難しい指づかいが、実はその次の音符を弾きやすくするためだったりするから、その目的を失わないようにすることが大事である。

 しかし、演奏を堪能する曲だからといって、どの曲も変えていいわけではない。作曲家によっては、例えばショパンなどは、指の一つ一つに個性を見出していた。ショパンは、薬指にはえもいわれぬ嫋嫋たる響きを、小指には繊細でしかも強固な意志を期待したのである。3度4度と飛んでいくようなメロディに、「これらの音は全部薬指で弾くように」というような指示がショパンの楽譜にはあるそうだ。こうした場合は、ショパンの心を弾くためにも、指づかいを変えるべきではないそうだ。

 私はトルコ行進曲の一箇所にどうしてもなじめない指づかいがあり、どうしたものかと思っていたのだが、先生によると、この場合は変えていいそうだ

 ほかにも面白い話を伺うことができた。次女と連弾の練習をすると、どうにも手がぶつかりそうになるので、「ぶつからないように練習しような」と次女に向かってつぶやいてみたところ、先生が「ああ、ぶつかってみたりするところが連弾の楽しいところなんですよ」とおっしゃるではないか。

 先生によると、その昔、ヨーロッパの紳士淑女のお付き合いがまだまだ奥ゆかしかった頃、男女がともに連弾曲を練習して、少しばかり手や体が触れ合ったりすることは実にうれし恥ずかしいものであって、作曲家もそうした作用を期待して、ことさらに手が触れ合ったり交差したりする曲を書いたものだそうである。時にはそれがお見合いであったり、隠微な求愛であったりしたかも知れぬ。モーツァルトなど、いかにもそんな作曲や、弟子へのレッスンをしていそうだ。

「ですので、ちかちゃん(次女)と、ぜひ触れ合って、楽しく工夫して練習してみてください」とは先生のいわれたことである。実に肯うところ大である。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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