春分の日

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天皇陛下万歳

 祝日「春分の日」である。

 あいにくの雨模様だが、国旗を掲揚して拝礼する。

 かつてこの日は「春季皇霊祭」という皇室行事に(ちな)む日であったが、戦後祝日「春分の日」と改められたものである。

建国記念の日

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天皇陛下万歳

 祝日「建国記念の日」である。玄関先に掲揚した国旗は新春の青空と陽光に映えて美しい。

 言うまでもなく今日は昔でいう「紀元節」であり、神武天皇即位の記念日である。日本人すべての新春だ。

成人の日

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天皇陛下万歳

 祝日「成人の日」である。

 曇天だが、軒先に高々と国旗を掲揚する。

 長女がようやく成人式を迎えることができた。まだ学生の(すね)(かじ)りだが、なんとかここまできた。

 長女は気分が乗らないらしく、今日は特に衣装を整えたり盛り場に出かけたりと言ったことはしないようだ。せっかく準備していた振袖も、キャンセルしてしまった。それもよい。いろいろな成人式があるということなのだろう。

 私自身も、30年前、自分の成人式に出ていない。これは、長女と違って、その日は仕事をしていたからである。

 だから、数年前まで「荒れる成人式」というようなニュースを見聞するたび苦々しく思っていた。しかし今は、そういうふうに思っていない。自由に喜べ、と思う。乱痴気騒ぎをする無軌道な若者も許され、また、長女のように、静謐に成人式を送る喜び方も、また許容されるのだ。

 成人式だけではない。いまや、人のあらゆる()り方を許容しなければならなくなった。挨拶をしない、性を転換する、ホモ、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、別姓の夫婦、一生独身、子供を作らない、子育てをしない、学校へ行かない、仕事をしない……私などからするとこうしたことどもは生理が許容しないのであるが、しかし、そこを、「理性で許容せよ」と社会が求めているように思う。なかなか許容は難しいが、しかし、寛容はできる。許容と寛容は違うし、寛容されている側の立場になれば、今風な言い方をすれば「上から目線で憐れむのはやめろ」ということにもなるだろう。だが、許容できないのなら寛容するより他にない。

 たとえ苦しくとも、間尺に合わないと感じようとも、これまで自分が我慢し、それを受け入れてきた、というようなことを、相手も同様に受け入れられる、相手もできるはず、それを相手がしないのは、相手が怠けているからだ、相手に忍耐の精神がないからだ、相手の努力不足だ……などと思うのは、自分の思い上がりと言うものなのだろう。

 私などは、国民たるもの、(すべか)らく「一旦緩急あれば義勇公に報ず……」べき、というふうに考えているが、そんなの、断じて嫌だ、と言う人だって、世の中たくさんいる。というか、そんな人ばかりである。

 私は、それをも寛容しようと思う。

 しかし付言しておけば、だから、逆に、かつて「一旦緩急あれば義勇公に報……」じてきた人々、というものも、相手に受け入れられ、寛容されなければならない、というのは自然の流路と言える。

天皇誕生日

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天皇陛下万歳

 祝日「天皇誕生日」である。冬麗の空に向け、玄関先に国旗を掲揚する。

 昔の言い方なら「天長節」である。「天長地久」の意であるという。

山の日

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天皇陛下万歳

 祝日「山の日」である。

 日本は地形の変化に富む山国でもある。山の日が定められたのは近年の事であるが、こうした日が設けられたのは、(けだ)し適切であったと言えよう。

こどもの日

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天皇陛下万歳

 祝日「こどもの日」である。玄関に国旗を掲揚する。

 民主党政権時に「子供の日」から「こどもの日」に表記が変更された。いわく、「『子供』というのは差別語である」という、サッパリ理解できない理由だった。「子供」という単語が差別なんだったら平仮名(ひらがな)で書いたところで差別は一緒だろう、と思う。「支那人」を「しな人」と書いたって、朝日新聞流に言わせればやっぱり差別だろう。

 自民党政権に復した時にこの「こども」や交ぜ書きの「子ども」が、清々と「子供」表記に戻らないかな、と思ったが、わずかに「こども手当」が「子ども手当」に変わったのみである。半分だけ戻す、て、一体もう、もはや何が言いたいのかしたいのか、全然わからない。交ぜ書きも気持ちが悪い。

 しかし、祝日法を改正までして法定の名称を律しているのであるからには、どうにもしようがない

 繰り言はさておき。毎年同じことを書いているが、この「こどもの日」は、実は法定の「母の日」でもある。祝日法には次のように記されてある。

祝日法第2条抜粋

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

 自分の子供たちの母である妻に感謝したいと思う。