そして、

投稿日:

 そして、

中国人も朝鮮人も朝日新聞も大嫌いだ!!!!

 ・・・と、私が述べるのと同じ強度で、アメリカ人とその作るアメリカ合衆国も、私は大嫌いだ。

私は朝鮮も中国も朝日新聞も大嫌いである。

投稿日:

 私は、中国も朝鮮も朝日新聞も大嫌いである。

 「朝鮮」は韓国・北鮮両方を含む。

 中国人と朝鮮人と朝日新聞が日本と日本人を大嫌いであるのと概ね同じ強度で私も中国人と朝鮮人と朝日新聞が嫌いであり、彼らが日本と日本人を蔑むのと同じ強度で私も中国人と朝鮮人と朝日新聞を蔑み、憫笑している。

 嫌いなものは嫌いなのだからしょうがない。

 「アナタはどうしてピーマンが嫌いなのですか?」なんて問いに、ほとんど意味がないのと同じように、理由なんかない。心の底から嫌いなのだからしょうがない。

暴言を恥じる

投稿日:

「8月15日には」

 これじゃあまるで、酔っ払いの暴言なり。

 読み返してみるとまた、随分アホなこと書いてしまったなあ。

 人間・小泉氏にお詫びしたい感じ。

 削除してしまおうとも思ったが、ワタシの忍辱をお詫びとするため、そのままにしておこう。

あなたは夏が好きですか?

投稿日:

 このほどの「トラ場」は、標記のとおりであるという。
 ・・・夏が好きですか、か・・・。
 本当に、夏ほど濃密な季節はあるまい。なにしろ、「夏は好きですか」と問うだけで、それが明確な詩情ですらある。数多の詩人と歌手が、どれほど夏について説明してきたことか。
 子供の頃、無論、夏が好きだった。夏休みというそれだけで、夏を好きになれた。だがしかし、今振り返ると、夏は私にとって難行苦行の試練の季節でもあった。勉強がどうとか宿題がどうとか言うのではない。喘息と鼻炎、これであった。夏に喘息や鼻炎を病むのは知れきったことで、とどのつまり、不潔な家に住んでいたという、理由はただそれだけのことにとどまる。
 どうしてあの苦しい夏を、それでも好きと言って憚らなかったのだろう。兄も姉も夏を好きといい、「もうすぐ夏休みやで」と期待を持たせる言い方で両親もそれを盛り上げ、「夏は好かねばならぬもの」と、少々頭の弱い私にそんな常識ををすり込んだものでもあろうか。
 喘鳴の夏。呼吸という自然な行為がその一つ一つに努力を要する喘息病みの夏。鼻炎による嚔のため、勉強もできぬ夏、そしてそのため怒鳴りつけられ、今にして思うにそんなわけのわからない劣等感にさいなまれて夏を呪う夏。呪うているクセに、皆が夏を好きだから、とて、妙に引きつったような異常な表情で、「もちろん夏休み大好き!」などと大声で言ってみる、腹の底から夏が好きですと自分を信じ込ませようとする子供らしくもない努力を強いる、屈託と精神病的な馬鹿な夏。
 ややあって、それから20年後の私は、「俺が最も嫌いな季節は、夏だ」と、公言して憚らぬようになっていた。真に自由な夏は、この時来た。俺は季節を他人の定義によらず、自分の魂によってようやく評価できるようになったのだ、そんな自由を思うさま吐き捨てることができた。
 今、私は、夏が好きである。理由は簡単である。二人の娘が明るい表情で、額に汗を浮かべて、疲れも知らず遊びまわっているからだ。
 結局こうして、私の夏が好きという感情は、自分以外の官能によって持ち運ばれていく、そういう、どうにもならない情けなさによって営まれていくものなのであろうか。
 二人の娘は、夏が好きなのであろうか。

ブログ人のトラ場 「あなたは夏が好きですか?」

奥崎謙三死去

投稿日:

 先月中ごろ、奥崎謙三が死去した。いわずと知れた「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三である。

 「ゆきゆきて」は、20代の頃、私も興味津々で見たものだ。見終わった後、随分長いこと考え込まなければならなかった。

 しかし、近作「神様の愛い奴」は、

「なっ、なっ、なんじゃこりゃあああああ」

・・・と叫びださずにはおれない、空前絶後人跡未踏の極北にして泰斗とも言える、オッソロシイ一種の宗教マンガ、いやなんというのだろう、特殊ビデオ!、これであった。

 ゼヒ一見をおすすめする。

 チナミに、奥崎謙三の死亡記事には、「『ゆきゆきて、神軍』の主演として知られる・・・・云々」という記述はあっても、ただの一行たりとも「晩年はポルノビデオに出演する等云々」という記述はなかったことをここに記しておきたい(笑)。

ゆきゆきて、神軍

神様の愛い奴

「寿司を食べ、酒を飲んでいるうちに・・・」

投稿日:

 二代目廣澤虎造の浪曲、また、古くは講談のネタでも有名な「石松三十石船道中」というのがある。 「食いねェ食いねェ、寿司を食いねェ、酒を飲みねェ、もっとコッチい寄んねェ」というアレだ。
 この語り出しに、「親分には内証だが途中で買ってきた小さな酒樽 縁の欠けた湯呑へ注いで飲む 大阪本町橋の名物『押し寿司』を脇へ置いて 寿司を食べ 酒を飲んでいるうちに 船が水に流されて河のなかばへ出る・・・」というくだりがある。
 唐突だが、この「寿司を食べ、酒を飲む」という行為が、どういう感覚のものなのかを想像してみた。
 当時のこと、刺激のある飲料なんてものは、ない。現代なら、ビールだのジュースだのソーダだのコーヒーだの、なんでもある。しかし、当時、飲み物と言えば水、湯、茶、酒であったろう。つまり、酒がもっとも刺激的な飲み物であったはずである。
 一方、食べ物の寿司。これは、当時のファーストフードの最先端であり、今で言えばハンバーガーぐらいにもあたろうか。
 そして、物語の主人公のやくざ、石松。これは、「イキな小粋な、そして愛すべき馬鹿の石松」であって、マンガ雑誌「ヤングマガジン」に出てくるような、一部の人にはかっこ良いとしてあがめられる如き、先端ヤンキーであったかも知れぬ。
 つまり、こうである。
 「カッコイイ先端ヤンキーが、バドワイザーかマックシェイクを持って船に乗り、ハンバーガーをパクついている光景」
 ・・・コレが、石松三十石船道中の理解の仕方なのではアルマイカ、と。

支那と朝鮮の狂気ハッカー

投稿日:

 自宅で無料ドメインを利用してWebサーバ・メールサーバを運用している。

 不正アクセスの試みが数多くある。

 サーバはかなりタイトに仕上げてあるから、それらの不正アクセスは寄るそばから全てドロップされ、クラックされることはなく、ログが残る。

 それらの攻撃の発信元の99パーセントは中国と朝鮮である。

 そのアクセスの仕方は、馬鹿のように執拗で、狂気じみている。何万回、何千台、何万IPアドレスから、繰り返し繰り返し、アクセスしようとする。

 怨念と狂気。

 相手にもしたくなく、馬鹿馬鹿しく、話題にもしたくないが、ちょっと書いてみた。

価値のない質問

投稿日:

 ここに、仕事は身過ぎ世過ぎの業か、社会と人とがかかわっていく上での理想を追求するための業か、どちらか、という問いがある。
 以前はこうした問いを真剣に考え、答えを出そうとした。
 しかし、最近は違う。
 こうした問いを作る者に不快を覚えるようになった。すなわち、これは答える価値のない問いである。
 無理に迫られれば、「どちらでもなく、かつ両方である」と答えることになる。問答は次のように続く。
「あえてどちらかを選べ」
「両方なのでどちらも選べない」
「それは両方等分、50%ということか?」
「否。どちらも選べず、どちらでもなく、かつ両方であるので、何割づつということはできない。この問いは、『自動車と黄色はどちらが正義か?』というわけのわからない問いと同じである。性質の違うものをどちらか選べと言うような問いに答えることはできない。」
 一体、こういう馬鹿げた質問を考えるのはどこの誰であろうと今は思う。
 これが何か、試験のようなものに対する答えである場合もある。言おう、そのようなアホな質問に答えなければならないような試験であれば、落ちたほうがマシである。