で、

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 まあ、おデコの温度を測ってネットに晒すのはシャレだったが、……。

 脳波は、耳と額の電位差を測って、これをFFTにかければよいのだそうである。

 ……っていうか佐藤よ!何をしようとしている!?お前はどこへ行きたいのだ!!w

レーウェンフック伝

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 私はオランダの誇る科学者、レーウェンフックをとても尊敬している。

 微生物の発見者として名高いレーウェンフックの名は、正しくは「アントニー・ファン・レーウェンフック Antonie van Leeuwenhoek」という。今から400年近く前にオランダのデルフトで生まれた。ちなみに、同じ年、同じデルフトの街に、「真珠の耳飾の少女」で有名な画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。

 レーウェンフックが生まれた1632年は日本でいうと江戸幕府がはじまったばかり、三代徳川家光の頃である。ヨーロッパでは清教徒がアメリカ大陸へ逃げ出しつつあった頃であろうか。

 また、レーウェンフックが生まれたオランダは、この頃鎖国をはじめた日本と、ヨーロッパでは唯一付き合いのあった国ということも覚えておかねばならない。

 オランダも世界の国々と同じく、都市に住む者が人と成るには、多くが「丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)」をしたものであった。レーウェンフックも16歳の頃、アムステルダムの布屋の丁稚(でっち)になった。

 この丁稚奉公が彼の大学であった。

 釣りが足りない布の質がどうだ、値段が高い負けろ、あるいは商売と関係のない雑談、怒鳴りつける主人、意地悪な先輩の手代や同僚後輩、仲買人、オッサン、オバハン、当時目覚ましく躍進中のオランダ、その首都アムステルダムの、そういうやかましい誰彼を相手に彼もその時代の人と同じく苦労と修行をした。

 21歳の頃、何があったのかは今となってはわからないが、日本でいう「のれん分け」というようなことでもあったろうか、彼はアムステルダムの布屋をやめ、デルフトに戻って自分の店を持った。結婚し、子供ももうけた。当時のことだから、死別も含め、バツイチ、バツ2、くらいのことにもなったらしい。

 後年世界的有名人になったとはいえ、この頃のレーウェンフックはまだ、ただの丁稚上がりの布屋に過ぎなかったから、記録はあまりないようだ。どうも布屋も畳んだらしく、市民会館の門番の親父(おやじ)になったという。

 ただ、洋の東西を問わず、後世の人間にとってありがたいことには、なぜかこの頃彼は「レンズ」にとりつかれてしまったのだ。

 この頃の「レンズ」というのは、どうやら特別なものであったようだ。今でいうと「IT機器」とか「ネットワーク」のように、なにやら知れぬ未知の世界への魅力を開くものであったのだ。惑星の表面、はるか宇宙の珍しい恒星、翻って生物、昆虫、こういう大から小にいたるあらゆるものをつまびらかにするレンズは、当時もっとも斬新で、魅力に富んだ、興奮を(しん)()するものであった。

 要するにマニア、である。もっと言えば、「オタク」かもしれない。いい年こいて、女房子供もいるのに、部屋にこもってはレンズばかり磨いている変なオッサン。彼の女房子供が、「ウチのお父さん、どうしちゃったんだろ……?」と、不安な面差しでそっと覗いているのが目に浮かぶようではないか。

 彼は質のよいガラスを炎で溶かしては、手指に火傷(やけど)()(ぶく)れをこしらえて「あちちち!」などと悲鳴を上げつつ、せっせとレンズを磨き、しかも一つでは飽き足らず、来る日も来る日も、これではダメだ、もっと見えるのを、とばかり、憑かれたようにレンズを磨いた。

 当時のレンズは、ガラス塊を砥石で削り、次第に目を細かくして、最後には布に磨き粉をつけて磨き、さらに磨きに磨くことを繰り返して作ったものだという。手技で磨き抜いて作ったのである。

 近所の細工師や鍛冶屋のもとへも通ったのであろう、磨き抜いたレンズを真鍮の枠に()め込む技術も身につけ、精巧な螺子(ネジ)や、調節機構を作る技も会得した。

 レンズを小さくすればするほど屈折率が強くなり、見(づら)くなる反面、微小なものを信じられないほど大きく見ることができるのを体得した彼は、またしても、これでは駄目だ、もっと小さく、もっと小さく……と、小さく小さくレンズを磨き減らしていった。そして、それをごく上等の枠金にはめ込んだ。

 ついにそのレンズは、直径わずか2ミリほどの、ガラスビーズのような、極端な曲面と精妙な細かさを持ったものとなった。

 単なるトンボ玉とか、ガラスビーズではない。レンズとして機能しなければならない。その曲面が、手技によってどれほどの精密度を持っていたか、想像するにあまりある。

 本業は布屋で、また門番である彼だ。つまりアマチュアだ。だが、当時既に世の中にあった「顕微鏡」を僭称(せんしょう)して(はばか)らぬものが、複数のレンズを組み合わせてなお40~50倍の倍率を得るのがせいぜいであったのに、レーウェンフックが磨き抜いた極小レンズは、(のぞ)くのに特別のコツは要したものの、なんと200倍を超える倍率を達成していた。単一のレンズだけで、である。他を遥かに圧倒し去っていた。

 彼は世界中で自分だけが手にすることのできた、自分だけのレンズで、おもしろおかしくあちらこちらを覗きまわった。昆虫の手足、調味料、酒、フケ、鼻くそ、歯くそ、花粉、池の水、雨水、ウンコ、腐った食い物……あらゆるもの、なんでもである。

 しまいにはセンズリをこいて、自分の精液まで見た。

 その結果は、()して知るべし、彼の名を永久に科学史にとどめることとなった。

 ただ、彼は、自分では学者であるなどとはまったく思っていない、単に世界で自分だけが手にすることのできた最高峰のレンズであちこちを(のぞ)きまわることを楽しみにしているアマチュアに過ぎなかったから、自分がどれほどのことを達成したのかもよくはわかっていなかったらしい。

 そんな自由な、自分だけが達成しえた高みにほほえましく満足しているレーウェンフックであったが、これほどの至高の業績は、やはり彼の信じるキリスト教の神が放っておかなかったものであろうか。

 どうも、デルフトの街には大変な人物が、自分ではそれと知らずに在野のままに埋もれているらしい。……そういう声望が先であったか、それとも、彼がみずから言上げをするのが先であったか。……それには諸説があるようだ。

 私が参照している底本では、レーウェンフックは微生物を発見したあまりの驚きのために、これは当時の学問の聖地、本場英国の学会へなんとしても報告せねばならぬ、と自ら手紙を書いた、ということになっている。当時オランダは発展中の国であるとは言っても、学問の本場はやはりイギリスである。かのニュートンもいる、イギリス王立協会こそ学問の中心なのだ。

 オランダ語の日常文章で、時候の挨拶からはじまって結びまで、長々とその手紙はしたためられてあったという。

 現代と強引な比較をしてみよう。現代、学術論文を英語で書かぬような学究は誰にも相手にされない。同じように、レーウェンフックが生きていた当時は、学術と言うものは「ラテン語」で書き表さねば、それは学問としての値打ちを認められなかった。今の英語のようなものだ。

 それを、天真爛漫、正直なアマチュアのレーウェンフックは、オランダ語の手紙で本場英国、王立協会に報告したのであった。

 だが、純朴なレーウェンフックは、嘘は決して書かなかった。そのゆえに、英国王立学会の人々はその手紙を認めたばかりか、貴重なものとして累積・整理し、後には「レーウェンフック全集」としてまとめ、またデルフトの彼のもとへ学者を派遣すらしている。

 彼は細菌の発見者、また精子の発見者として後年名を残したが、そのすべては彼が唯一知っている母国の言葉、オランダ語で長々と述べられていた。

 レーウェンフックは誠実の人であったから、観察記録に憶測を混入することがなかった。見たまま、実験したままを重んじた。それは、若い頃の丁稚奉公で鍛え上げられた頑迷さでもあった。

 知らず身に着けた実証主義的な観察手法のゆえに、ついには王立協会員として貴顕の地位を得た。飽くことなく自慢の顕微鏡であちこちを覗いては、きわめて精密な報告をオランダ語の手紙で学会に上げ続けた。

 同い年の画家のフェルメールの遺産管財人をつとめたことが公的な記録に残っているという。その経緯までははっきりわからないらしいが、同じ街に生まれた同い年の、また当時から有名な二人であったから、なんらかのつながりはあったものと言われている。フェルメールが描いた有名な作品、「天文学者」「地理学者」の二つは、レーウェンフックがモデルなのではないか、と言われているのはこのようなことに由来するらしい。

 余談、フェルメールの「天文学者」は、絵の中でガウンのような「キモノ」を着ていることが見て取れる。これは、当時のオランダの大流行だったそうである。ヨーロッパで唯一日本と国交を持つオランダでは、「謎の国・日本」の珍品として着物がもてはやされたらしい。金持ちとスノッブな知識人は競って「キモノ」を着用に及んだそうで、この絵にもそれが描かれているのだ。独自に最先端の学問に到達しえたレーウェンフックも、もしかすると、そんな珍品を身に着けたものかも知れない。

 ともあれ、……。

 レーウェンフックは長命し、91歳まで生きた。死ぬまでその旺盛な「オタク的アマチュア精神」は衰えることがなく、また、まやかしの学問への批判精神は極めて軒昂かつ頑固で、ライデン大学の学究たちをやっつけること、痛快そのものであったそうである。

よしッ!……次はッ!

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 次は、自宅の便器をインターネットに接続するッ!!!

……と考えて荒い鼻息をついたが、1秒でやめた。

 だって、品がないし、変なものを便所に取り付けると妻におこられるもん。

 しかし、ヘルスケアのためには、ちょっとありえるよな。「iToilet」。

  •  温度
  •  重さ・量・密度
  •  色合い
  •  におい
  •  座っていた時間
  •  音量

……これらをツイッターに全自動投稿。甘えるんじゃねえ、パーミッションは恥も外聞もなく、全部パブリック。忍辱の精神なくして健康なしッ!!

 重量センサー、かなあ、ネックは。耐水性で、度重なる洗浄に耐え、コンマ1グラム単位の精密度、傾きに左右されないことも必要だ。

 においセンサーは、まあ、なんとかなるだろ、市場をあされば。



日本ITストラテジスト協会関東支部平成27年4月月例会

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 今日は日本ITストラテジスト協会関東支部の月例会に参加した。1、2、3月と忙しく参加できていなかったので、久しぶりだ。

 オープンフォーラムと全国大会の実施要領検討。オープンフォーラムの検討では、テーマが「人材育成」関連に決まりつつあること、また15周年にふさわしいビッグ感のある基調講演を企画すべし、と言ったことが提起された。思いがけず社会人大学院などのアカデミックな内容になりそうである。

 騒動で一躍有名になった大塚家具の大塚久美子氏に基調講演を頼んでみたら、などという案も飛び出し、面白い検討であった。

 関東支部恒例のTED。「県境の紛争」に関するお話、交際費に関するお話、お二方それぞれ、笑いをとりつつ、興味深い話をされた。

 テーマ別ディスカッションは「ビジネス・ITギャップを埋めていくために」というテーマで講師をお招きしてお話を伺った。ワークショップで脳漿を絞ったことであった。

 懇親会は水道橋の「塚田農場」、談論風発して深更、口角泡を飛ばした。

 今月もまことに勉強になった。

有線キーボード

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 明日は日本ITストラテジスト協会関東支部の月例会がある。このところ仕事や用事でなかなか行けなかったが、明日は大丈夫なので、参加することにしている。

 ところで、私の職場では私物のIT機器は禁止であるが、ITストラテジスト協会は外の集まりなので、いつもは私物のタブレットを持って行っている。メモをとったりするのに便利だ。セキュリティなど気にしなくて良い程度の内容なら、Google Docsやkeepを使えば、わざわざ送信する手間もいらない。

 いつもはそのタブレットにBluetoothのキーボードを組み合わせて使っている。まことに便利で言う事はないのだが、一点、難がある。

 Bluetoothは現在主流の2GHzのWiFiと干渉しやすいのである。このため、時々キーリピートがかかったような状態になり、十数秒ほど入力不能になる場合があるのだ。自宅で使う分には落ち着いて待っていれば復帰するので大して気にならないが、大事なメモなどとっているときには書き落とす原因になるので具合が悪い。

 そこで、USBの有線キーボードを買っておくことにした。鞄に入るような小型のものが良い。

 こんなものは千円台からいくらでも品揃えがあるだろ、と多寡をくくって近くの「PCデポ」へ行ったのだが、なかった。小型のUSBキーボードは1種類しか扱いがなく、しかも2,200円で、そしてその1種類は品切れなのであった。

 最近売れ行きが悪いのか、PCデポは妙に品揃えが少なくなったなあ。

 しかしこうなるとどうしても有線キーボードがほしくなるのである。たしか「あきばおー」で同じやつが千円以下であったはず、と秋葉原へ急行。

 勿論あった。しかも680円の叩き売り。買い。

 しかし、この叩き売りにはカラクリがある。なんと、ケーブル長が3メートルもある特製のヤツなのだ。これは売れ残ってたたき売りにもなるだろう、そりゃ。

 まあ、ケーブルなんざ、ナイロンタイで短くまとめておけばよかろう。

 今、さっそくそのキーボードをタブレットに繋いで入力してみているのだが、ぬぅ、こ、これは……。

 キーピッチが狭すぎて、使いづらい。かなり慣れないと軽快にタッチタイプというわけにはいかない。

WordPress入門

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 WordPressの情報サイトにある「はじめてのWordPress」、更にその中の「計画を立ててみよう」という項目は、非常に良い。けだし名文である。

「なぜこのサイトを始めたのか?」という質問を思い出してほしい。というのも、君が共有するに値する有益でタイムリーな情報をもっているからであり、君が自分に興味のある主題について語りたがっているからであり、もしかしたら、ただ語ると面白いと思っているからだ。なぜ? みんなそうしているじゃないか!

 いいね。ぐっとくる。

段落の行頭の字下げ

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 日本語の文章は段落の行頭を一文字下げるが、ウェブやIT業界の人はなぜかこれを嫌い、「そういうのはムダ」「文字列のセマンティクスに関係のないことはスタイルで表現すべき」などと言って、これをやめさせようとする。

 「ためにする議論」の代表であると思う。コンピュータ屋のおせっかいであり、余計なお世話である。

 今この文章にしてからが、WordPressの余計な機能により行頭の字下げを無視されている。

心霊ソースコード

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 デジタルと霊魂とのシームレスな融合、ということを考えてみた。

 かつて写真は、画期的な技術的ブレイクスルー、人類の文明を劇的に前進させるハイパーメディアであったはずである。

 しかし、当時の科学技術の粋を集めた写真技術にすら、いにしえの神秘主義は待て(しば)しというものがなく、「心霊写真」という一大ジャンルがいまだ絶えることなく人々を惑わせている。

 写真に霊魂が写るのならば、デジタルデータにも霊魂の作用があってしかるべきである。

 すなわち、「心霊mp3」「心霊csv」「心霊プレゼン」「心霊ソースコード」「心霊web」「心霊html」「心霊パケット」「心霊名前解決」などがそれである。

 写真に霊が写るというのならば、通るはずのないコンパイルに心霊の作用したソースコードが通るとか、解決されるはずのないfqdnがなぜかIPアドレスになる、などということもあってよい。

ITと原爆

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 あるIT業界の人と話していて、ふとした話の流れで、私が「アメリカ人はこんな時にスプートニク・ショックを起こして、半ばパニックになったのにねえ」と言ったことがある。

 そうしたら、その人は「えっ、スプートニク・ショック、て、何ですか?」と言うのであった。

 私は驚くと同時に、業界の人にしてこれを知らぬとは、なるほど、そういう時代か、とも思った。私より若い人だったのをいいことに、「話してあげますから、ぜひ覚えてお帰りになるといいですよ、あなたも多少なりともインターネットにつながって口過ぎにしている方なのですから」と、小一時間ほども費やして一席をぶった。

 インターネットは黒船来寇からできている、と言ったら、「それは言いすぎだって」と皆笑うだろう。だが、私は真面目だ。「来航」と書かずに「来寇」と書くのも、私には気持ちがあってのことだ。

 インターネットはスプートニク・ショックを原因にして成り立ったのである。

 ニューヨークでもワシントンでも、アメリカの国土の好きな場所に、そして好きなときに、自分たちは安全なまま、「ツァーリ・ボム」、すなわち史上最強最悪の威力を持った水爆を叩き込む能力があるということを、ソ連は地球を周回する人類史上初の人工衛星スプートニクとその発信する電波信号によって証明した。

 アメリカ人はパニックに陥った。

 ただ、これだけのことならパニックにはならない。アメリカ人には拭い難い罪の意識があった。

 自分たちが戦争終結のための真摯な努力であり輝かしい人類の叡智であると強弁してやまぬ広島・長崎の惨劇と虐殺が、今度は自分たちの頭上に鉄槌のごとく振り下ろされるのだということを想像したから、パニックに陥ったのである。「今度は俺達の番だ…」というわけだ。

 スプートニク・ショックを原因としてアメリカ人が作り上げた、核戦争に備えるための疎結合ネットワークこそ、インターネットの前身のARPA Netであることは今更くだくだしくは書くまい。

 広島・長崎の惨劇はなぜ引き起こされたか。「天皇制と日本軍部の暴走のためだ」なぞいう屈折した論理は、私以外の日本人がほぼ全員言っているので、私がここであらためてわざわざ言うことはなかろう。だが、その馬鹿げた論理も、そのような教育によって注入され、思い込まされたものなのであるから、これを罪あるものということはできない。

 日本にとっての戦争の世紀の幕開けは、黒船来寇であった。黒船は開国というよりも明治の建軍につながり、それは日清・日露の役につながり、更に大陸経営、満州国、対ソ、と途切れることなくつながっていく。そして大東亜戦争につながり、広島に、長崎につながる。

 インターネットでビッグデータでウェブでクラウドでウハウハのバリバリだー、と言っているIT業界の人は、その活躍する環境、メシのたねの背景が、広島と長崎の、無辜の市民の惨劇に直接つながるのだということをよく心得ておいたほうがいい。

 こう書いてくると、「長崎型原子爆弾 “Fat Man”」、すなわちプルトニウム爆縮型原爆の最も重要な技術である、いわゆる「爆縮レンズ」を、その類稀なる数学的センスによって考案したのが、かのフォン・ノイマン、つまり我々が日々その恩恵に浴している「ノイマン型コンピュータ」の提唱者であるということも、なにやら因縁めいていよう。そして、親日であるとされていたかのアインシュタイン博士が、原爆開発へのゴーサインを後押し進言したことも、決して忘れてはなるまい。アインシュタインの相対性理論が、地球を周回するGPS衛星の時間をずらしていることを説明づけ、それによってカーナビの精度を上げると同時に無人機攻撃の精度を上げて人を殺している、と書くと、多少とがり過ぎているだろうか。

秋葉原ヨドバシとiPhone

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 秋葉原ヨドバシ1階のスマートフォン売り場、その中でも特にカバーや充電器類などのアクセサリー売り場を見て歩くと、スマホのシェアが機種ごとの面積比となって露骨なくらいに現れていることが見て取れる。ヨドバシという大きな企業の市場調査の結果を立体図として体感し、かつまた拝借できるので、私はよくここを訪れる。

 秋葉原ヨドバシオープンから5、6年このかた、それは間接的に、学ぶべきプログラミングの属性にさえも多大なる示唆を与えていて興味深い。スマホのシェアとプログラミングは、一見無関係なようでいて、実はかなり強く関係している。

 フィーチャーフォンのアクセサリやフィルム、カバーを満艦飾に陳列してあったこの売り場が、突如としてスマートフォン関係8割という占有率になった頃のことを思い出す。5年くらい前だろうか。それと見るや、予感のとおり私の手元にも、Android、Javaテクノロジ周辺、Eclipse、IA以外アーキテクチャと言った関連物の調査の仕事が舞い込んだものだ。おかげで、予感にしたがって多少の準備もしていた私は、少しばかり上司の覚えもめでたくなったものだった。当時手がけていた研究の一環として、私もみずから幾つかのプログラムを書き、私物の電話もAndroidに変えるなどした。

 今、このスマートフォンのケースやカバー類の売り場の、ざっと6割以上はiPhone用で埋め尽くされている。タブレットのアクセサリも同じで、iPadが過半である。Android勢で元気なのはSONYのXperiaシリーズ、タブレットで台湾ASUSがNexus 7メーカーとして頑張っている程度のもので、あとはジリ貧だ。Androidの売り場はどんどん狭くなっている。

 これまでどおりであるなら、さっさとiPhone流のObjective Cのプログラミングを体験するなり身につけるなりすればいいようなものだが、私は日本語の参考書で自由に楽しくプログラムを書きたいと思っている変なおっさんであり、こうしたiPhoneの天下を苦々しく感じている一人でもある。なかなかどうして、Apple派になれるものではない。「野球は巨人、お笑いは吉本、戦争はアメリカ、電話はiPhone」て、なんでもかんでもそんな、一番モノばっかりって、なんっか、腹立つじゃないですか(笑)。

(この文章は、当時Facebookのストーリーに書いたものです。(そのストーリー))