精神力を称揚することの危険

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 去る8月11日にギリシャ船と中国船が尖閣周辺で衝突し、中国船が遭難したのだが、その時の海上保安庁の現場の対応が非常に人道的で、無私・博愛であった。このことを取り上げる向きもあるようだ。

 海保の行動は整斉粛々たるもので、さすがは、と思う。これは賞賛されるべきものだ。

 ただ、気になるのは、このニューズウィークの記事のほうである。この記事が「精神」「精神」と、海保の精神性を強調して称揚していることだ。

 精神力を発揮する側の者、サービス・プロバイダのほうでこれを言うのは許されるし、必要だと思う。しかし、サービス・ユーザのほうでこれを求め、(あまつさ)え称揚するというのは如何なものか。

 「ひょっとして佐藤さん、間違って逆を言ってない?」と思われるかもしれない。いいえ、逆ではありません。

 それは、次の例でもって端的に尽くす。すなわち、先の大戦末期、兵は「精神力」を求められた。物質に劣るとも精神において必勝である、などということを強要され、玉砕・特攻等を()いられ、多くが(たお)れた。このことである。

 海保は単なる海上サービスとは違う。海上の警察権力たる海上保安庁は、「力」を保持し、これを提供する。つまり「フォース・プロバイダ」なのだ。フォース・ユーザがこれに精神力を求めれば、すぐに際限がなくなり、ろくな装備も持たせず、ろくな制度や枠組み、法律も整備せず、「精神力さえあれば任務は遂行できる」「行って美しく死んで来い」などということがまかり通ることにつながる。

 したがって、この遠藤誉氏の記事を読む際には注意が必要だ。

 精神力などという形のないものでは、尖閣問題において政府がしでかした一連の不始末の、尻拭い、後始末はできない。必要なものは具体的な外交、法律などの枠組み、金銭、物質、人員、これである。