()(ごと)成増(なります)

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 最近の日本人、就中(なかんづく)若者の言葉が乱れている、これは(まご)うかたなき亡国の徴候(ちょうこう)、このままでは日本は滅ぶッ!……などと他人の言うこと書くことに文句をつけてブツブツ言うのは爺ぃの楽しみのようなもので、自分が若者だった頃から若者が嫌いだったという私のような変人、つまりは若い頃は若年寄などと言われ、最近は本当に爺ぃになってきて、名実ともに人生の目標、老害者に近づいてきた私にとっては、またとない趣味の悦楽である。こんなことを言うと本当の老人から「何を言うとる、お前なぞまだまだ青二才のヒヨッコぢゃ!」とお叱りを受けるだろう。

 言葉の意味や姿がフラフラと定まらないと意思の疎通に支障をきたすから、言葉には一定の安定が求められる。しかし反面、言葉は世につれ姿形を変え、人につれ味わいが変わり、状況につれその意味を変える。従って、話し、書き、聞き、読むには寛容もまた求められる。そのバランスが大事だな、などと感じる今日この頃の私である。

 さて、そんな私の最近の楽しみは「成増(なります)屋」を見つけることである。

 何?「丸坊主で不良の歌舞伎か?」……ちゃうちゃう。それは「成田(ナリタ)屋」。

 世の中にはいわゆる「商業丁寧語」というものがある。本来の正しい丁寧語ではない上に、日本語としてもおかしいが、ごく一般的な商行為やビジネス場面ではまあいいだろうということで許容されている丁寧語だ。

「こちら、497円のお買い上げにナリマシタので、お釣りのホウが3円のお返しとナリマス

「こちらのホウ、ハンバーグ定食にナリマス

 文字づらにするとものすごく変なのだが、実際に街のお店屋さんで20代くらいの若い店員がこういう言葉で接客していても、おそらく誰も何とも思わない。「そういうもの」だからである。むしろ、これくらいの言葉の量が返ってくるほうがまだ丁寧な店の部類に入る。店の格が下がってくると

「……ッシャイセ~……っす~……よんひゃ……あざっした~……」

……くらいの、呟きとも何かの呪文とも分からない、謎のため息のようなものしか吐かない深夜のコンビニのレジ係だっている。そういう店員が駄目だと言っているのではない。こういう人でも人前に出て、真夜中にもかかわらず少ないアルバイト代を稼ぎ、健気(けなげ)に生きている。まことに立派なことだとすら思う。

 それはそれとして、この語尾にくっついてくる変な「ナリマス」に対する、よくあるツッコミとしては、

「『ハンバーグ定食にナリマス』って、『なる』ってことは、私の注文したこの料理は、今はまだハンバーグ定食になっていないということでしょうか。では、一体、いつになったらハンバーグ定食になるのでしょうか。ハンバーグ定食になるまで、まだ食べたら駄目なんでしょうか。」

というのがある。こう茶化してツッコむことで、この「ナリマス」言葉の、日本語としての奇妙さは説明できていると思う。

 さておき、前者の「ナリマス」がやたらと目立つ店を、私は脳内で「成増屋」と呼んでいるのだ。

 これは(あざけ)ってそう呼んでいるのではなく、逆に、私くらいの貧乏人が出入りしてちょうどいい身の丈サイズの飲食店や物販店、コンビニなどである、という意味なのである。

 逆に、店員が若いくせに

「お客様、お待たせ致しました。ご注文のお料理、『オマール海老のムースを塗った(ひらめ)の蒸し焼き ラタトゥユのグラチネを添えて』でございます。」

……と、大きからず小さからずの声量で、立て板に水、まったく淀みもつかえもなくハッキリとこの難解で長大な料理の名前を言ってのけ、しかも「コチラ」だの「ホウ」だの「ナリマス」だの、無駄な合いの手をまったく入れないのだとしたら、もう、ごめんなさいと逃げ出したくなってしまうだろう。こういう店では支払いだって「コチラ、お釣りのホウ、300円のお返しにナリマス」だなんて言わない。

    店員「8万円お預かりいたします。4名様でお釣りが……」
     私「ああ、いや、お釣りはあなたが取っておいてください」
    店員「いえ、お客様そのような」
マネージャー「おや、お久しぶりでございます佐藤様。お楽しみいただけましたでしょうか」
     私「ああ、田中さん、お元気ですか。オーナーシェフの鈴木さんはますます腕を上げたようだね」
マネージャー「お褒めにあずかりまして恐縮でございます」

……などというやりとりになるはずである。あるいは、こういう店ではもはや現金で支払いなんかしないだろう。アメックスのブラックをさりげなく出すとかなんとか、もしくは金の話なんかせず、後日事務方がきちんと清算しているとか、そういう塩梅(あんばい)式になっているはずである。私如き貧乏人など、こんな店がお呼びである筈がない。

 最近は、だから、日本語が間違っていようがどうだろうが、もう、いちいち文句など言いたくもなくなってきた。成増屋を使うたび、逆に安堵を覚えるのである。

 店員さんはみんな変な日本語で一生懸命やっている。いとおしく誉めてやりたいくらいだ。

 私の知り合いの知能の高い人たちによると――私は馬鹿だが、私の知り合いには賢い人がたくさんいる――、日本語は駄目な言葉であるため、今後100年くらいで日本語は消滅し、全部英語に代わり、店員や社長、工員、管理人、その他もろもろあらゆる職業人は人工知能(AI)になって人間の仕事は滅び、その後200年で日本は中国になって消えるそうだから、もう、正しく美しい日本語なんて、(あきら)めるのが手っ取り早い。

汚い言い方だからよせ

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 明日は「ブラックフライデー」だそうな。

 「黒い金曜日」などとは、どうも飲み込みかねる言葉である。悪魔や怪物でも出てくるのか、30年前のニューヨーク証券取引所の月曜馬鹿パニックが今度は金曜日に品を変えて襲来してくるとでもいうのか。

 なんだっていいが、どれもすべて「アメリカ人の言い方捉え方」だし、「売り手から見た言い方」であって、我々凡百貧乏の消費者から見た言い方ではない。

 だから、こんな言葉は大嫌いだ。いちいち「欧米ではこう言っていますから」などといううるさい怒鳴りたてはやめてもらいたい。

阿房列車

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 引き続き内田百閒(ひゃっけん)の「阿房列車」、通勤列車の楽しみに、少しづつ読む。「特別阿房列車」「区間阿房列車」「鹿児島阿房列車」「東北本線阿房列車」と、半分ぐらいまで読み進み、この後、「奥羽本線阿房列車 前章・後章」「雪中新潟阿房列車」「春光山陽特別阿房列車」と続く。

 百閒大先生はその昔の阿房列車に悠然と、私は現代の(すし)詰め通勤列車に齷齪(あくせく)と、……というのもなんだか皮肉で、(かえ)って面白いと思う。

 古い本だから、結構知らない語彙(ごい)が多く、その都度(つど)書き()めておくなどしている。

 どの言葉も、何の気取りも(てら)いもなく、当然のように、かつ飄然(ひょうぜん)と使われており、これがまた、世の中の人が内田百閒を「大先生」と呼ぶ所以(ゆえん)なのであろう。

阿房列車に出てくる言葉
交趾(こうし)

 人のあだ名で、「交趾君」として出てくる。百閒大先生は、登場人物の名前を全部「ワシの中ではこう呼んでいる」風の、トボケたあだ名に変えて記しており、長い付き合いの教え子の相棒(実際には平山三郎と言う文筆家らしい)の名前は終始一貫「ヒマラヤ山系」で、しまいには面倒臭くなって「山系」と呼び捨てである。平山君だから「ヒマラヤ」とは、なんだか平山氏が可哀想になってしまうが、そこが尊大な百閒大先生と頭の上がらぬ教え子との味のある掛け合いに繋がっていて、いいのである。

 さてこの「交趾(こうし)」、言葉としてはいわゆる「仏印」、フランス統治時代のベトナム一帯のことで、戦前は「交趾国」「交趾」「交趾支那」などと言っていたようだ。

 百閒大先生の事だから、相手がベトナム人みたいな濃い顔をしているとか、戦時中に仏印方面へ出征していたとか、そんな理由で交趾君などとあだ名をつけていたのだろう。

諸彦(しょげん)

 これは「諸君」と同じ意味と考えてよい。それにしてもしかし、「(ひこ)」と書いて「ゲン」と読むとは、全く知らなかった。「彦」という漢字には「立派な男性」という意味があるので、なるほど、「諸彦」というのは大変尊敬した、しかも気取った言い方なのである。

曾遊(そうゆう)の地

 「曽遊」とも書く。これは読んで字のごとく、「(かつ)て遊んだ地」ということで、以前に行ったことがあるというほどの意味だ。

昧爽(まいそう)

 明け方の(ほの)暗い時分、黎明、薄明のあたりのことを言う。「昧旦(まいたん)」とも言う。

馬糞紙(ばふんし)

 これは、聞き覚えのある言葉ではあったが、現代では死語だ。改めて調べてみると、「藁を()いた厚紙」とあり、昔の段ボールの原料である。また、薄く漉くとこれが「藁半紙(わらばんし)」で、昔「ザラ(がみ)」「更紙(ざらし)」と呼んでいたものは全てこれであった。小学校のテストの問題なんかは、藁半紙と決まっていたもので、工作の材料などは勿論この「馬糞紙」である。

 しかしそれにしても、名付けるに事欠いて「馬糞紙」とは、なんとも下品だったなあ、とは思う。

Twitterのフォロー整理

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 Twitterのフォローを見ていたら、長期間ツイートしてない人や、鍵をかけてしまった人が多くあった。だいたい、平成24年(2012)頃に相互フォローになった人たちに集中している。

 私がフォローしているアカウントは2、300がところで、さして多い方ではない。全部見て、半年以上ツイートのないアカウントは全部削除してしまった。

勤労感謝の日

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天皇陛下万歳

 祝日「勤労感謝の日」である。

 戦前は「新嘗祭(にいなめさい)」と言ったもので、戦後はその意義・意味をも踏襲し、「勤労感謝の日」と改められたのである。

 言うまでもなく今日のこの日は「日本書紀」にその起こりを見ることができる日で、遠く飛鳥時代、皇極天皇の時代にまでさかのぼる。

 荒天で、朝から本降りだが、玄関先に国旗を掲揚する。

言葉

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蒙塵(もうじん)

 昨日から読んでいる内田百閒の「阿房列車」に出てきた言葉で、知らない言葉だった。

 Weblio辞書によれば、

「(宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意)変事に際し,天子が難を避けて宮城の外に逃れること。」 

……だそうである。

結滞(けったい)

 この言葉も同じく阿房列車から。

 コトバンクには、

結代とも書く。脈拍が不規則となったり,1拍動が欠けたりすること。期外収縮や心房細動による。

……とある。

索然(さくぜん)

 同じく「阿房列車」から。

 Goo辞書

心ひかれるものがなくて興ざめするさま。空虚なさま。

……とある。

春永(はるなが)

 同じく「阿房列車」。

 コトバンク

いつかひまな時。多く「はるながに」の形で副詞的に用いる。

……とある。たまたまだが、この「コトバンク」の用例も「阿房列車」からの引用で、借りたお金をそのうち返すから、というような意味で「(お金の返済は)いずれ春永にということになって」という、私には意味の分からなかったところがそのまま使われていた。

スティグマ

 メディアの記事の「子どもなし世帯」という言葉の書きっぷりに怒っている人のブログ記事で見つけた。聞いたことはある言葉だったが、意味は忘れてしまっていた。めったに聞かないもんな、こんな言葉。

 「烙印」というような意味と、「聖痕」というような意味の二つがあるようだ。

所謂(いわゆる)「釣り」とはいえど

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 非道なツイートを見かけて憤慨する。

 この男が言っているのは先日亡くなった声優の鶴ひろみさんのことである。

 まあ、所謂(いわゆる)「釣り」という奴だが、しかし、釣りにも限度ってものはあるよな……。

 日本は自由の国なのであるから、総理大臣を(けな)そうが、政権与党をバカにしようが、私達日本人全体に向けて「日本死ね」と叫ぼうが、はたまた逆に、左翼だアカだと野党をボロカスに愚弄しようが、不倫議員をガソリーヌだパコリーヌだとからかおうが、「朝日新聞死ね」と吐き捨てようが、いくらでも何でも、自由に言えばよろしい。

 この男が権力者と看做(みな)しているのであろう安倍総理に「有耶無耶(ウヤムヤ)では済まさんぞ、アベ」と挑みかかるのも、完全に許される。仮に「アベ、死んでしまえこの野郎」と吐き捨てたとしても、この男の小ささと総理大臣の大きさを考えれば、どうにか許容範囲には収まると私は思う。

 だが、不慮の病気で死んだ市井の人を「迷惑だ」「声優なぞ名も知れぬ売れない劇団員の片手間仕事だ」などと言い捨てて、それに引っ掛けての政権批判はなかろう。政権批判を鶴ひろみさんに引っ掛ける必要など全くない。政権批判だけ単独で言えばよろしい。

 私だって鶴ひろみさんと言う人の名前は知らなかったが、こんなふうには思わない。亡くなった記事を見て「お気の毒に」と思う。

 私もしょっちゅう政治家をバカにしたエントリを書いているし、それどころか「死んで詫びろ!」などと書いたこともあるが、もし彼ら彼女らが事故や病気で不慮の死を遂げれば、やっぱり同様に、「お気の毒に、可哀想に」と思うだろう。どうでもいい、とか、迷惑だ、などとは思わないし、仮に思ったとしても、これほど露悪的なツイートはしない。

 この澤谷と言う人は在日韓国人だという。私にも、昔、学校の同級生に在日韓国人の友達はいた。今は直接付き合っている在日韓国人の友達はいないが、間接的に知っている在日韓国人はいる。皆いい人だ。しかし、この男のような活動家が、プロフィールに在日韓国人の大看板を上げてこんなことを書いたりすると、善良な在日韓国人の友達や、一般の韓国人が結果として愚弄されてしまうことになる。これでは普通の在日韓国人にとって、迷惑以外の何物でもあるまい。

 十数年前、韓国の反日の状況があまりにも強く伝えられていた頃、私も韓国や韓国人を嫌っていたが、今はあまり嫌いではなくなった。むしろ仲良くなれないことを悲しんでいる。アジアの有力国である日・中・韓を分断してコントロールしようとする欧米白人の方が今は嫌いだ。

 なんにせよ、「他山の石」というか、こういうことを見て、自分の書くもの、言うことについて、書き方言い方に気を(つか)っていこうと思うのだった。

 ……「釣り」にこんなふうに気持ちをかき乱されるとは、まあ、私も、青ッちょろいと言えば、青ッちょろいわねえ。

読書

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 「日本ITストラテジスト協会オープンフォーラム2017」に参加した帰り、夜21時までやっている越谷市立図書館南部分室へ立ち寄り、内田百閒の「阿房(あほう)列車」をなんとなく借りる。