食い物差別

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 まことに単純極まる話であるが、犬が駄目なら豚も牛も駄目であり、魚も貝も鯨もすべて駄目である。では狂信的菜食主義者(ヴィーガン)にでもなればよいのかと言うとさにあらず、山川草木はおろか、細菌などに至るまで、全てにかけがえのない愛おしい命があることに論を()るる余地などない。

 結局これらは命がどうとか知能がどうとかではなく、「私にとって気持ちが悪い」という好き嫌いの問題、通じやすい言葉で書くなら「エゴ」の問題でしかない。

 エゴ。差別意識である。野菜を喰らう者は魚を喰らう者を(さげす)み、魚を喰らう者は獣を喰らう者を蔑む。獣を喰らう者は獣を喰らう者の中でまた、牛を喰らう者は豚を喰らう者を、豚を喰らう者は犬を喰らう者を蔑む。

 人間は醜い差別によって社会を維持しようとする。いがみあい、蔑み合う。呵々(かか)大笑(たいしょう)、未来永劫(えいごう)()むことはあるまい。

未来と言うよりも現代は素晴らしい

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 ツイッターのタイムラインで、こんなビデオが流れてきた。

 本当に、私は驚くべき時代に生きている。

 私は以前から、翻訳・通訳に携わる人たちが知的な職業であることに疑いをいれる余地はないかのようになんとなく考えてきた。

 しかし、最近なかなか精度の良いポケット翻訳機などが発売され、テレビで明石家さんまが宣伝しているのを見るにつけ、なにやら風向きが変わってきたな、と感じるようになってきていた。

 そのぼんやりとした感じが、前掲のビデオを見て鮮明になり始めた。

 遠からず、翻訳者・通訳者までもが機械的な作業に携わっているだけであるとされ、いずれAIに駆逐されてしまうという幻影が垣間見えるのだ。語学に通暁した者は、もはやAIに学習させるための教師や、翻訳ロジックを記述する仕事でもするより他はなくなるかも知れない。

 そして数十年を経ると、AIは語学に関して「Bootstrap(ブートストラップ)」し、自らによって自らを立ち上げ、遂に人手を要しなくなるだろう。AIそれ自身によってロジックも高度に仕上がっていく。

 キリスト教徒の所説によれば、その昔、バベルの塔を積み上げて自ら神たらんとした人間たちは神の怒りに触れ、人々の言葉は相通ずることなきようバラバラにされたという。塔の建設はそのため中断し、言葉の通じなくなった人たちは世界中に分かれてしまい、話すことができなくなったのだ。旧約聖書には「(この)(ゆゑ)(その)()はバベル(淆亂(みだれ))と呼ばる」とある。つまり、人ぞ知る「バベルの塔」の名は、塔の建設が中断した後で名づけられた格好だ。

 全地(ぜんち)(ひとつ)言語(ことば)(ひとつ)(おん)のみなりき

 (こゝ)人衆(ひとびと)東に移りてシナルの地に平野を得て其處(そこ)居住(すめ)

 彼等(かれら)(たがひ)(いひ)けるは去來(いざ)甎石(かはら)を作り(これ)()(やか)んと遂に石の(かはり)甎石(かはら)()灰沙(しっくひ)(かはり)石漆(ちゃん)を獲たり

 又(いひ)けるは去來(いざ)(まち)と塔とを建て(その)塔の(いただき)を天にいたらしめん(かく)して我等(われら)名を(あげ)全地(ぜんち)表面(おもて)に散ることを(まぬか)れんと

 ヱホバ降臨(くだ)りて(かの)人衆(ひとびと)(たつ)(まち)と塔とを()たまへり

 ヱホバ(いひ)たまひけるは()(たみ)(ひとつ)にして(みな)(ひとつ)言語(ことば)(もち)ふ今(すで)(これ)()し始めたり(され)(すべ)(その)(なさ)んと圖維(はか)る事は禁止(とど)め得られざるべし

 去來(いざ)我等(われら)(くだ)彼處(かしこ)にて彼等(かれら)言語(ことば)(みだ)(たがひ)言語(ことば)を通ずることを得ざらしめんと

 ヱホバ(つひ)彼等(かれら)彼處(かしこ)より全地(ぜんち)の表面に(ちら)したまひければ彼等(まち)(たつ)ることを(やめ)たり

 (この)(ゆゑ)(その)名はバベル(淆亂(みだれ))と呼ばる()はヱホバ彼處(かしこ)に全地の言語(ことば)(みだ)したまひしに(より)てなり彼處(かしこ)よりヱホバ彼等(かれら)を全地の(おもて)(ちら)したまへり

 いかにもキリスト教らしいおとぎ話ではあるが、これを奉ずる白人たちはAIやクラウドにより再び一つの言葉を手に入れようとしている。彼ら白人は彼ら自ら信ずるところを否定して前に進む。キリスト教徒にとってキリスト教は、もはや雰囲気を愛でるための詩以下でしかない。

蝙蝠(かわほり)

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ゆっくりと歩こう

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 梅雨だ。

 まことに梅雨らしい梅雨で、長引いているように感じられる。しかし、実は長引いているわけではなく、気象庁の統計によれば関東甲信越の梅雨明けは平年7月21日頃とあるから、ごくごく普通の季節の流れとは言える。

 (そぞ)ろ歩きで帰宅する。

 今夜のようにまた低気圧が近づいてくると、雨の匂いがする。子供の頃からこの匂いを感じると、「あ、雨が降る」と言ったりして、この匂いにあまり感じない人に「へえ、よくわかるね」と驚かれたこともある。

 しかし、それが雨や水の匂いだとは思いの外、先日、ふと興味を持ってネットで検索してみたら、前線が通過して気圧が急に下がる時、下水道から空気が吸い出されて臭いがするものなのだそうだ。水ではなく、硫化水素まじりの悪臭だったわけである。実際、よく振り返ってみると、この匂いは街なかで感じるもので、田舎や山ではしない。

 そういうことを思い知らされるような夜は、漫ろ歩くに限る。

 雨の匂いのする中、もし今、齷齪(あくせく)と歩けば、汗まみれの忙しい様子になって恰好(かっこう)がつかない。乾いた肌と湿った(ひろ)やかな気持ちで、木槿(むくげ)凌霄花(のうぜんかずら)芙蓉(ふよう)の咲いたベッドタウンの路地をしのび歩こう。

暴力団、やくざや半グレ

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 妻子がつけっぱなしにしたテレビを見るでもなし聴くでもなしに眺めていると、お笑い芸人が詐欺師グループの宴会などに出演した件、いわゆる「宮迫 闇営業」の話ばっかりやっている。

 しかしそれにしても、テレビはもうかれこれひと月ぐらい、先月からずっとこの話ばっかりしてないか?

 もちろん、いわゆる半グレ、あるいは犯罪人集団、やくざ、暴力団など、そんなものが跳梁跋扈するような世の中では困る。社会への影響力も大きい有名芸能人が大手を振って犯罪人と付き合うようではいけないことは当然だ。

 しかし、所詮は芸能人である、と言えばそれもそうではなかろうか。こんな話をいつまでも公共の電波に乗せて引っ張り続けるというのはいかがなものかと思う。40~50年前の昔なんて、興業なんてものは多かれ少なかれ「地元の親分さん」なんてものが仕切っていたもので、芸能人とやくざなんて一緒くた、下手すりゃやくざ兼業みたいな芸能人、映画俳優とどっちが本業だかわからないような親分だっていたわけである。安藤昇とかね。

 芸人と犯罪人との関係なんぞ、しかるべく吉本興業なりそれぞれの芸能事務所なりでキチッと処分してだな、公器は他にもっと論ずるべき大事なことを論ずるべきだ。

 テレビはこんなニュースをがなり立てることで、何かをごまかそうとたくらんでいるように思う。

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 盆である。

 「ウソ()くんじゃねえ、盆は来月だ!」などと噛みつかれそうだが、嘘は吐いていない。

 その辺の理屈は、このブログの2年前のエントリでまとめて書いておいた。

  •  (このブログ、平成29年(2017)08月13日(日)08時34分)

 夏は盆がたくさんあるのである。無論、言うまでもないが、真の盆は一つだけだ。しかし、前掲の記事に書いたように、明治の改暦以来(このかた)、混乱してしまったわけだ。

 前掲のエントリには一昨年の日付が書いてある。新暦は変わらないが、旧暦は毎年ずれる。

 そこで、今年の盆について、下に整理しておきたい。

各盆 日付 旧暦
盆(新暦旧盆・旧盆) 7月15日(月) 六月十三日
地蔵盆(新暦旧地蔵盆・旧地蔵盆) 7月24日(水) 六月廿二日
盆(月遅れ盆) 8月15日(木) 七月十五日
盆(旧暦盆) 8月15日(木) 七月十五日
地蔵盆 8月24日(土) 七月廿四日
旧暦地蔵盆 8月24日(土) 七月廿四日

 例年だと、旧暦七月は新暦9月頃になることが多いのだが、今年はたまたま、旧暦七月と新暦8月の日付が一致しており、月遅れ盆と旧暦盆の日付、地蔵盆と旧暦地蔵盆の8月の日付も偶然同じである。

海の日

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天皇陛下万歳

 祝日「海の日」である。玄関先に国旗を掲げ、拝礼する。

 我が国は四面環海で、海なくしては文物も人も往来しない。

 そのことを暗示してか、日本書紀では、神武天皇の祖母の豊玉姫(とよたまひめ)海祇(わだつみ)の娘で、火火出見尊(ほほでみのみこと)と結婚し、はるばる海の国から日本にやってきて、神武天皇の父の葺不合尊(ふきあえずのみこと)を生んだのだ、ということになっている。何分神代(かみよ)の昔のことであるから、多分に詩的であって、おとぎ話のようでもある。

 さておき、日本を囲む海は広い。遠くアラビア、アメリカ、ヨーロッパにまで海はつながる。そのことを一日、記念しよう。

一杯

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 カチワリ氷をたくさん欠き削ってボールアイスを作り、オン・ザ・ロックでウィスキーを呑む。いつもの酒。

 肴に煎り大豆と世界教養全集の倉田百三。

読書

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 平凡社の世界教養全集第2巻を読み終わった。

 今、収載の最後、フランスのモラリスト文学者、サント・ブーヴの「覚書と随想」を全部読み終わったところである。

 作品は当時のフランスの人物批評などが過半を占めるため、それら人物の作品や時代の空気を知らなければ殆ど意味不明である。勿論、私も登場する人物については、ごくわずかな人数と、その作品をひとつ知っているかどうか、という状況であった。

 この作品は、ちと口幅ったいかもしれないが、不肖・この私にして知らない言葉や漢字がたくさん出てきた。もちろん海外文学であるから、原著に難しい漢字が書かれているわけではないに決まっており、これは翻訳者の癖なのだろう。翻訳者は権守操一(明治41年(1908)~昭和47年(1972))というフランス文学者である。

言葉
齷齪(あくせく)

 「齷齪」。難しい漢字である。これで、「あくせく」だそうな。

誄辞(るいじ)

 「誄辞」。難しい漢字である。()みは「るいじ」で、これは「弔辞」「弔詞」とだいたい同じような意味である。「誄詞(るいし)」という言葉もあるそうだ。

 「誄」という漢字は、音読は「るい」だが訓読は「しのびごと」だそうである。

 貴人、国王とか皇帝とか、そういう地位の人の死へのおくやみに使う敬意の言葉である。

淬を入れる

 訓み方がさっぱりわからなかった。知らない言葉である。

 「淬」は音読みで「サイ」だそうだが、動詞として「ぐ」を送ると、これで「(にら)ぐ」と訓読するそうである。

 意味は鋼鉄に()きを入れることだそうで、そんなに難しい意味はないようだ。鍛冶屋で「ジュ~ッ!」とやる、アレである。

 この「淬を入れる」の前後のコンテキストは、

(平凡社世界教養全集第2巻(昭和37年(1962))「覚書と随想」(サント・ブーヴ)p.495より引用)

(前略)彼の精神は、さながら、淬を入れた鋼鉄に似ているが、しかし、その淬は少々強すぎるようだ。というのは、出来上がった剣は、何かを突き刺す度ごとに折れてしまうので、彼は、再び、剣を造り直さなければならないからだ。

 思うに、音読してみて「ニラを入れる」「そのニラは少々強すぎるようだ」と訓むのはなんだか変だし、さりとて、「サイを入れる」「そのサイは少々強すぎるようだ」というのもおかしいように思う。「ニラギを入れる」「そのニラギは少々強すぎるようだ」と訓むと近いような感じだが、あまり聞きなれない。

 ここは「(やき)を入れる」「その(やき)は少々強すぎるようだ」というふうに訓むのが自然であるように思う。……「(やき)」という訓みは、どこにも書かれてはいないのだけれども。

面紗(めんしゃ)

 「面紗(めんしゃ)」。洋装、特にウェディングドレス等の女の、あるいはイスラムの女の、顔を隠すヴェールのことである。


 さて、次は同じく平凡社世界教養全集第3巻、「愛と認識との出発/無心と言うこと/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」である。前2巻は西洋哲学~フランス思想であったが、一転して倉田百三・鈴木大拙・芥川龍之介・三木清・亀井勝一郎と、日本の著者揃いである。