探されない

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 「死にたい」などと書くと物騒だし人様の迷惑でもあるから言いたくも書きたくもないし、思いたくもない。だが、「消えたい」とは思う。誰の迷惑にもならずスッと消えるのだ。

 そんなふうに消えられないものかと思うが、もし消えたら、私の妻は私を探さざるを得ない。たとえ本人が探したいと思っていなくても、社会的責任は私を探せと妻に命じるだろう。これは妻にとっては負担以外の何物でもない。

 だから、消えたい死にたいと願うのならば、探されることなく、妻をはじめ、両親兄弟、友人知己の記憶から完全に消えなければならない。

 そんなことは不可能だとわかっているから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。

 親不孝という見方がある。親は自分の勝手で子を作ったのであるから、子が死んだり行方不明になったりすれば、そりゃあ、葬式を出すなり探すなりしなくちゃならんだろう。だが、それが悲しく慟哭の極みであって、そんなことを親にさせるのは不孝である、親に損失を負わせることだという。いや、損失、て……。つまり我が子の痛み苦しみを悲しむのではなく、親の損失であるからそれはよせ、というのである。

 なんか、ねえ。

 キリスト教は自殺を禁じるが、そこには「人間は放っておいたらどんどん自殺する、だから死なないように脅しておかないと」という宗教的歯止めのあざとさが透けて見える。そりゃあ、教団にゼニカネを持ってくるのは死人ではなくて生きている人なんであるから、できるだけ多くの人に生きていてもらわないと坊さんも困るだろう。

時事色々

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そんなまさか、と目を疑ったが

 いやまさかそんな、と目を疑ったが、フランスの話ということで、ああ、なんだ、フランスか、それくらいのことはありそうだな、と思った。というか、フランスだったら納得してしまう、というのは、私の頭脳の中では、多分フランスはバカにされているんだろう。

いや、これはアカンでしょう

 だいぶ昔のニュースだが……。

 「ヨガる」て、いやらしい(苦笑)。

 ほんとに、媒体(メディア)に携わっている人たちでさえ、語彙がなくなっていってしまっている。そうでなけりゃ、こんなの電波に乗せて流すか?

えっ、もう(笑)

 ……。いやあ、ビックリした。血眼になってクラウド化したら、もう「脱クラウドがトレンド!」って……。

 まあ、そうしないと、コンピュータ屋さん商売あがったりになっちゃいますわねえ。

こんなんじゃもう、後進国

 健康保険制度なども日本の方が優れているし、マスクの効用なんて気分の問題で認めないし、だいたい、インフルエンザで6万人死ぬって何よ。大正時代の「スペイン風邪」じゃあるまいし、いまや特効薬もあるわけですよ。

今週のさえずり季題

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読書

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 60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第6巻を読んでいる。

 先月22日に第5巻を読み終わり、この第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」に来た。先週2月4日火曜日の帰り電車の中で「日本的性格」(長谷川如是閑(にょぜかん))を読み終わり、次の「大和古寺風物誌」を読み始めた。

日本的性格(長谷川如是閑(にょぜかん) 著)
気に入った箇所
平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「日本的性格」から引用。
他のblockquoteタグ同じ。
p.42より

 和歌が全国民の文学であったのは、上代の社会のことで、それが貴族社会の形式化によって、国民の手からとりあげられたのは、すでに平安朝時代からのことであった。しかし武門時代においても、歌はあらゆる階級の音律的言葉となっていて、その言葉を語り得ないものは武士としても不名誉とされた。

 けれども事実上、歌は近代の町人文化の形態たるにはあまりに貴族的形式に規定されてしまっていた。そこからまず連歌が生まれ、より自由な言語による歌の応酬が回復されたが、それがいわゆる連歌師のギルド的約束によって、複雑にして困難な形式となった時に、それを極端に簡単化した発句となった。連歌の初めの一句を独立させたのであった。そうしてそれはもっとも普及的の町人文学となったのだが、これもむろん、日本文明が全国民のそれでなければならないという伝統の回復であった。

 上の部分は俳句がどういう性格の文芸であるかということを、日本全体の性格と関連させてよく言い当てていると思う。

p.51より

 日本文化の外国的起原を高調する人々に対して、「純日本」を高調する人々がある。ことに民族宗教的の信仰や国民道徳の特殊性を指摘するものが多い。それらの人人((原文ママ))は、往々保守的傾向となり、外国文化の排斥に傾き、進歩主義者と対立することとなる。けれども、彼らの主張にも真理はある。というのは、日本人は、古代においても、近代においても、外国文化に対して非常に敏感で、ただちにそれを採用する進歩主義者であったと同時に、その反面に、自国の伝統的なるものを頑強に固執する一面をもっていたのである。国民的に、同じ時代において、その両面をもっているのみならず、個人的にも、右の両面を一人で備えているものも珍しくないのである。

 保守的なのに、新しいことをしたがる、という人は、自らそれと知らず多いように思うが、上引用のようなことなのかな、と感じる。

p.63より

かなり正しく、しかしやや詩的の表現で、日本人の性格や道徳を外国人に紹介した岡倉覚三は ‘The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.'(“The Awaking of japan”)といったが、我が国中世の武力闘争の支配した時代のサムライでさえ、冷静がその勇気であり、道徳であった。岡倉はその理由として ‘In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.’といったが、しかし我が国のサムライの冷静な一面は、大陸伝来の禅の教養によるというよりは、むしろ日本人固有の心理によるものというべきである。

 英文は有名な天心岡倉覚三の著書からの引用である。「The Awaking of japan」は「日本の目覚め」として岩波から出ている。

「The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.」というところは、「武士は彼の刀のように冷たく落ち着いていたが、それが火焔によって鍛えられたものであることを決して忘れなかった。」とでも訳せばよいのだろうか。また、「In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.」というところは、「封建時代、禅は彼に自己抑制を教え、礼儀正しさを勇気の証明にした。」とでもなろうか。

p.64より

すなわち、日本人は、国民としては歴史のもっとも重大な時期において、自制と自己反省の心理を失わなかったのである。

 武家専制の時代が始まっても武家そのものにそうした抑制の心理があった。北条氏は事実上政治上の独裁権を獲得したが、なお将軍家を奉じて、自ら陪臣の資格に止((表記ママ))まった。

p.85より

 御所の建築の単純、質素なのは、外国のように帝王の住居を城郭とする必要のない、わが国の皇室だったからであるが、それにしても皇室の威厳を象徴するためにも、今少し外観の壮麗を発揮する筈だが、上代にシナとの対抗上、やや大規模の宮殿の経営を行った例が二、三あるだけで、それも人民の課役が困難なため中止した場合が多い。

 引用の通り、皇室は、ことに京都御所など、質素なものである。

p.85より

 古来日本の文学には、シナや西洋のそれに見るように、自然を現実に鑑賞する態度に欠けている。今日の文学においても、自然描写において卓越しているものは、はなはだ多くない。国民文学としての歌においても、『万葉』以来、自然描写がもっとも短所であった。自然に対しても、日本人は抒情的に感覚する。

 この部分は「エッ、果たしてそうかなあ」と少し反対が胸に湧くが、続いて

同じくp.85より

上代の大和朝廷の貴族が憧憬した吉野山の風景の如き、抒情詩の背景としても、何ら現実的の鑑賞は現われていない。『万葉』にある吉野山の歌は、ことごとく概念的の記述に始終している。

 富士山に対する山部赤人の有名な歌でも、自然描写でも何でもなく、ただ概念的に、古来語られている富士を語って、「語り継ぎ、云ひ継ぎ行かむ」といっているに過ぎない。「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」という反歌には、いかにも日本人の自然に対する態度の素樸さが見えていて、写実的のその態度も面白いが、しかしこれも実際見た現実ではなく、いわゆる「歌人はいながらにして名所を知る」というような格言を生ずることが、日本人の自然に対する感覚の不充分をいい現わしているのである。

 と言われてしまうと、そうかも知れないな、と思う。

「山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく」(柿本人麻呂)

「み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)

……というような歌も、自然を読んでいるようでいて、よく読むと自然を写し取ってはいない。読み込まれているのは自然に対する主観であり、読み手の観念である。

言葉

連袂(れんべい)

 「れんけつ」だと思ったら、「(たもと)」の音読みは「べい」だそうである。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.4(著者略歴)より

三十九年三宅雪嶺らと連袂退社し、「日本及び日本人」に拠る。

 文字(づら)は「袂を(つら)ねる」とあるわけだから、意味は分かるが、読みは知らなかった。

膠柱(こうちゅう)的」

p.8より

 国民の場合も個人の場合も、時代の必要に応じて、種種なる性質が要求されるもので、したがって性格の涵養は、決して膠柱的ではあり得ない。

 これは、故事成語である。

 「膠柱」、つまり「膠」と「柱」であるが、それだけではサッパリわからない。この「柱」とは、「琴柱(ことじ)」、つまり琴の音程を調節する、白くて三角形の、琴の弦の下に並んでいるアレのことである。

 琴の音程は、この琴柱をその都度自在にずらして調えるが、これを立てたままでは弦が伸びて傷んでしまう。だから演奏しないときは外す。演奏するときは改めて琴柱を立て、試し弾きしながら音程を調える。これにはけっこう手間がかかるというので、琴柱を「膠」、つまり接着剤で琴に固定してしまった人がいた。

 ところがこれでは、微妙な琴の調整ができず、別の曲を弾くことができないばかりか、琴は温度や湿度、経年変化で音程もその日その日で違ってくるから、まるで使えない楽器になってしまう。

 この故事を「琴柱(ことじ)(にかわ)す」と言い、史記・(りん)相如(しょうじょ)伝が出典というが、手元に書籍がなく、確かめてはいない。

 史記・藺相如伝というと、一般によく知られている成語の出典には、「完璧」の故事、「刎頸の交わり」の故事などがあろうか。

 ともかく、「膠柱的」というのは、自在に調整もできず、融通がきかない、固着的なことを言う。

「那堪空閣妾。未慰相思情」

p.22より

その時代の漢詩文を集めた『文華秀麗集』には、大伴氏の女性の作があり、『経国集』にも嵯峨天皇の王女有智子内親王の詩が載っている。それには「那堪空閣妾。未慰相思情」というような句もある。女性教養の自由であったのは、臣下の女性のみではなかったらしい。

 この句について、手元に調べる便(よすが)がなく、訓み下しがわからないのだが、多分、

(なん)()れ空閣に()へん (いま)相思(そうし)の情を(なぐさ)まず」

……ではないかと思うのだが、違うかもしれない。

()ち得る」

 「贏」の音読みは「エイ」「ヨウ」、訓読みは「あまり」等であるが、「贏ち得る」と書いて「かちえる」だそうである。

p.22より

女性が日本文学の創始者たる栄冠を贏ち得たのは当然であろう。

 訓み方は分かったが、なんで「勝ち得る」と書かず「贏ち得る」と書くのか、理由はちょっとよくわからない。

(かがみ)を将来に(のこ)す」

 また実に難しい。「鑒」は音読みにカン・ケン、訓読みで「かんがみる」「かがみ」だそうな。「貽」の音読みは「イ」「タイ」、訓読みは「のこす」「おくる」だそうである。

p.33より

シナ流の歴史観によって「鑒を将来に貽す」(『続日本後紀(しょくにほんこうき)』)とか「善悪を甄ち、以て懲勧に備ふ」(『三代実録』)とかいうことを序文にいっていたりするが、内容はかならずしも事実を道徳で歪めているわけではない。

「善悪を(わか)ち、(もっ)懲勧(ちょうかん)(そな)ふ」

 「甄」の音読みは「ケン・シン・セン・ケイ・カイ」、訓読みは「すえる」「つくる」「みわける」とある。

 ところが、「甄ち」というのがわからない。「(みわけ)る」という()みがあるところから、多分「(わか)ち」ではないかと思う。

(すく)ない」

 これで「すくない」と読む。この文字からは、普通は「(あざ)やか」という訓読みが真っ先に思い浮かぶ。そうすると、あざやかなもの、ということで、そこから「新鮮」のように「若い」という意味が出てくる。そこから更に、「若い」は「すくない」に通じ、「鮮」の一字で「若死に」の意味までも持つのだそうである。

p.39より

おそらく西洋の近代国家でも、その文明がわが徳川時代のそれのように、下から盛り上がって出来たもので、しかもピラミッド型に下の方が広がったものであるという例は鮮ないと思う。

 思うに、「朝鮮」という国号は、「朝」には国とか王権とかいう意味があり、それに「鮮」ということは、「若々しい国」、あるいはそこから、特有の謙譲をもって「中国に比べるとまだおさない国」というようなことなのかも知れない。

粗笨(そほん)

 荒っぽい、雑、というような意味である。

 「粗」は「あらい」であることは論を待たないが、「(ほん)」は、竹が太く、荒いことで、そこから広がって、「おろか」「うすのろ」などのネガティブな意味を持たせられている。

  •  (ウィクショナリー日本版)

「スペキュレーション」

 投機、思惑などのことであるが、文脈では「思い切った推測」のような意味で使われている。

p.94より

 かくの如く古代中世の歴史には珍しい信仰状態がどうしてわが国に成立したかについては、いささかスペキュレーションに傾くが、おそらくわが国固有の民俗信仰そのものが、わが国民形態成立の人類学的研究に現われている諸民族の混和という事実に伴うところの信仰の混和から成立したものであったからではないかと考えられる。

(うった)える」 

 なんと、これで「うったえる」である。

p.108より

ただ文学はその表現が議論ではなく具体的であるから、われわれに間接に愬えるので、読む者が何とかそれを再現して見なければならぬ。

大和古寺風物誌(亀井勝一郎 著)

 亀井勝一郎は筋金入りの共産主義者だったと思うのだが、こんなにも上代の日本と皇室に対する讃頌(さんしょう)の念、日本書紀への通底が深かったのだとは知らなかった。

 まだ読んでいる途中だが、そんじょそこらの薄っぺらな左翼とはわけが違う、と思った。

言葉

上宮(じょうぐう)太子(たいし)

 聖徳太子のことである。

 最近、学校では聖徳太子の幼名である「(うまや)(どの)皇子(みこ)」として歴史を教えているらしいが、どうも気にくわない。

 昔から聖徳太子は「聖徳太子」として呼びならわされてきているが、これは、聖徳太子の生前の名前ではなく、諡号(おくりな)、すなわち、故人の生前の徳を称えて死後に送られた名だからである。諡号は尊重されるべきものであるから、よって、故人を敬い、死後は諡号で呼ばねばならぬ。

 もしそれがかなわぬ時は、死ぬ直前の名で呼ぶことである。「厩戸皇子」の名は幼名で、推古天皇の摂政として政務をお取りあそばされていた頃の聖徳太子は「上宮太子」と呼ばれていたのである。

 この作品中では聖徳太子のことは一貫して「上宮太子」と記されている。

歔欷(きょき)

 すすり泣き、むせび泣くことである。

平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「大和古寺風物誌」から引用。
下線太字は佐藤俊夫による。
p.146より

高貴なる血統に宿った凄惨な悲劇を、御一族は身をもって担い、倒れたのであるが、この重圧からの呻吟と歔欷の声は、わが国史に末長く余韻して尽きない。

前巻「現代人のための結婚論」にあった愛の相互性とオタクについて

 ふと、前に読んだ世界教養全集第5巻収録の「現代人のための結婚論」(H.A.ボウマン)の中の、「愛の相互性」というところで思い当たったことがある。

平凡社世界教養全集第5巻「現代人のための結婚論」から引用。

p.438から

 そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。

 
 ここで思い当たったのが、所謂(いわゆる)オタクのマニアックと相互性についてである。

 つまり、こうだ。

 1対1の愛については相互性があるといえよう。「私は彼女を好きになった」という場合、彼女は私を好きであったり嫌いであったり、そのどちらでもなかったり、あるいはそれらの中間であったりする。

 しかし、「私は湯飲みを愛する」などと言っても、湯飲みから何ほどのものが返って来るでもなく、これは「相互性のない愛」であるとは言える。

 だが、工業製品の消費者としての感想は、巡り巡って作り手に届き、ひょっとすると新製品のデザインに反映されるかもしれない。だが、それは相互性と言ってよいほどのレスポンシビリティではないだろう。

 同様に、アイドルのファンの熱狂はアイドルを擁するテレビ局やプロダクションの経営に反映され、アイドルの立ち居振る舞いに影響を及ぼすかもしれない。しかし、その影響はごくわずかであって、これも相互性と呼べるようなものではなく、一方的な熱狂に過ぎない。

 「漫画の売れ行き」や「アニメの人気ぶり」なども、似たり寄ったりだろう。つまり、1対1ではなく、漫画の出版社と一読者の熱狂とは、10万対1くらいの反映のされにくさの相互性しか持っていない。

 だから、オタクの愛は愛ではない、と言えないだろうか。そしてまた逆に、相互性のない、愛とは言えない自称の愛を「オタクの愛」と言い、また相互性のない愛を愛として認めている者を「オタク」と定義づけることはできまいか。

SOBA満月~早春

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 読みかけの本を一冊持って、行きつけの蕎麦処「SOBA満月」へ一杯やりにいく。

 今日は蕎麦前に、牛蒡(ごぼう)と海老のかき揚げで、新潟の銘酒「吉乃川」のぬる燗を二合。

 この店は本当に揚げ物も上手で、このかき揚げだけでなく、野菜や穴子の天婦羅も本当においしい。天婦羅の盛り合わせもあり、これは旨いだけでなく、二人で食べても丁度良いくらいのボリュームがある。天婦羅の種物(たねもの)蕎麦には海老と野菜の2種類が、冷たいのと汁掛けのそれぞれにあり、どちらも旨い。

 ゆっくりとのんでから、生粉打ち・十割の「もり」を手繰る。いい香り、舌触り、喉越し、申し分なし。

 いい気分で帰路を拾った。

 今日は青空の広がる良い天気ではあるが、まだまだ寒い。だが、ご近所の植栽の梅はもう満開になっている。

 その梅の枝に、今年初めて目白が花蜜を啜りに来ているのを見た。梅の香り、尺を引く目白の声。今年の立春は去る2月4日、旧暦正月十一日である。既に暦は春ともなれば、さもありなん、というところか。

自宅の修繕

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 築17年ともなると自宅が傷んできた。派手な雨漏りなんてのはさすがにないが、内装に雨染みの出ているところもある。

 業者さんに下見に来てもらった。

 来週の土曜日に見積もりを持ってくると言っている。

今週のさえずり季題

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水引(みずひき)とコンビニの思い出

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 もうかれこれ20年ほどは前になろうか。

 私の身内に(くや)み事があり、職場の人から丁重に香華燈明(こうげとうみょう)の施しを頂いた。

 そのお返し供養の品物を選びあぐねているうち、今日お礼をしないと、その人と私の業務予定の関係でお礼が更に遅くなってしまう、ということになってしまった。

 やむなく、近所のコンビニの贈答品を選ぶことにした。通勤の途上、朝早くそのコンビニに立ち寄った。朝5時半、店番のお兄ちゃんしかいなかった。

 先方が好みそうな菓子の詰め合わせの箱を選んだ。

「すみません、不祝儀(ふしゅうぎ)でして、水引(みずひき)をお願いできますか。」

と頼んだ。ところが、お兄ちゃん、

「……えっ……。ふしゅ……う?み、みずひ……?」

などと言って絶句している。ああ、店で働いていても、そりゃあ、若い人だから、わからぬ言葉もあるだろう、若い人をバカにするような大人ではいけない、と、手ぶりを交えて慌てて言い直した。

「ああ、ごめんなさい。えーっと……お葬式に使うので、水引の紙をかけてほしいんです」

「……みず、……?」

 怪訝(けげん)な表情を浮かべていて、なかなか伝わらない。しかし、やがてお兄さんは大きく(うなず)き、

「ああ、(わか)りました、ノシのことですねっ!」

合点(がてん)して見せた。

 えええっ、葬式に熨斗(のし)!?……と反応に窮する私を尻目に、お兄さんはレジの下の収納から紅白水引の熨斗付きを出した。

 私は慌てた。困った。話が通じていない。香典返しや供養に、紅白のめでたい熨斗付きの菓子など出せるものではない。そういう地方・地域もあるのかもしれないが、大多数ではないと思う。

「あっ、ちょっと、ちょっと、待ってください。お悔みごとなんで、紅白じゃ駄目です。えーっと、ほら、似たようなデザインで、白黒の紙が、どこか近くにしまってあると思いますが……」

お兄さん、少し考える風である。

「えーっと、白黒、……。あ、ワカッタ、白黒の、アレですねッ!」

お兄さんは紅白金水引(きんみずひき)熨斗紙(のしがみ)を持ってレジ場を出、素早くコピー機のところへ行った。慣れた手つきでピッピッとコピー機を操作して、熨斗紙を白黒でコピーすると、それをレジのところに持ち帰ってきて、菓子の箱にかけようとした。

 さすがに、紅白水引、右上に熨斗付きの、更にそれを白黒コピーしたというわけのわからない紙を不祝儀にかぶせて持って行ったら、如何に素朗(そろう)かつ明朗の職場といえど、私は永久に笑いものになってしまうだろう。

「ちょ、ちょっと待ってください、待ってください。……もう、結構です、結構です、もういいです。……かけ紙はもういいです、最初の包装紙のままで構いませんので」

 私は通勤途上でもあり、お兄さんにゴチャゴチャと世間のことを教えている時間はなかった。だから、もう、無理を頼まず、普通の包装紙のまま菓子箱を持っていくことにしたのである。

 お兄さんは、(なんだよこの客。注文通り紙かけてやろうとしてるのに、わけのわかんねぇゴタクを並べやがって)とでも言いたそうな不快・不満の色を満面に浮かべ、無口になってレジを打った。

 お兄さんのせいでも、私のせいでもない。お兄さんはそんなことを誰からも教わらなかったのだろうし、私は若い人がそんなことを知らない、ということに想像も思いも至らなかったのだ。悪い人は誰も登場していない。お互いに善人なのである。

 その日の昼、職場の人へ、「これはお供養です、こんなもので不躾(ぶしつけ)ですが、どうぞお納めください」とその菓子箱を渡し、それはそれで済んだ。相手も闊達(かったつ)な人で、水引もなにも、気にはしていないようだったので、ほっとした。

 夕刻。仕事を終えての帰宅途中、私はもう一度そのコンビニに立ち寄ることにした。夕方の時間なら、店に話のわかる大人や店員がいて、その人に今朝の一件を話せば、アルバイトの店員さんに熨斗や水引や祝儀や不祝儀や、そういうことを教えておいてくれるだろうと思ったのだ。

 ものの分かりそうな、店長らしい40歳代に見える人がレジをやっていたので、私はチューインガムやペットボトルの茶を買い、そのついでをよそおって、今朝の一件を話した。

「かくかくしかじか……そういうようなわけで、不祝儀の水引がわかってもらえなかったんですよ」

 ところが、その、ものの分かっていそうな店長らしき人物は、私にこう言い放った。

「……お客さん、『白黒の熨斗(ノシ)』のことですよね。……何がいかんのですか。コピーで十分でしょう」

 もう、無駄だと悟った。この人たちには、不祝儀の水引は、「白黒の熨斗」にしか見えていないのだ。上下や、右上の「マークみたいな変なやつ」がついていようがいまいが、まるでどうでもいいのだ。

 私も愚かだったと思う。職場の人へ渡す故人の供養を、通勤途上のコンビニで買って持っていこうなどという、面倒臭がりの不見識がこんなことになったのだ。コンビニの店員や店長の世間のなさを責める資格は、私にはない。

 しかし、それから2年ほどで、そのコンビニは潰れた。こういうことは、店の経営の他の部分にもさまざまに表れていたのだろうと思う。