SOBA満月

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 このところ天候が不安定である。今日は晴乃至(ないし)曇だったが、明日の関東は所により雪が降るという。

 まだまだ寒い。しかし、通勤時、皇居外濠の桜の芽が色づき、ぷっくりと膨らんで芽吹きそうになっているのを見ると、間もなく春かな、と思う。靖国神社の梅など、気の早いものはちらほらと咲いている。

 今日も自宅近くの蕎麦店、「SOBA満月」へ、読みかけの本を一冊持って一杯やりに行く。ここ最近、大の気に入りの蕎麦店である。

 この店は本当に美味しい。酒はいいものを選んであり、肴もシンプルで飽きのこないものがいろいろある。

 今日の蕎麦前は新潟の銘酒「吉乃川」をぬる燗で二合、肴に「穴子の天婦羅」を頼んだ。この店の天婦羅は先代が揚げていて、年季が入っている。

 対馬~長崎の穴子で、身がしっかりしているのに固くなく、旨い。

 天(つゆ)に漬けてしまう前に、塩を少しつけて食べる。穴子の身の滑らかさと脂、香り、揚がり方も申し分なし。生姜おろしと天汁を交々(こもごも)つけて、やおら吉乃川のぬる燗を(あお)れば、至福と言うほかはない。付け合わせのししとうも(いろど)り鮮やかで、良いアクセントである。

 蕎麦は今日も「生粉打ち」十割の「もり」にする。繊細に打ってあり、香り、歯応え、味、喉ごし、どれをとっても申し分なく、優しい味の蕎麦(つゆ)によく合う。

 この店独特の濃い蕎麦湯をゆっくりと飲むと、本当に満足する。

薬喰(くすりぐい)~SOBA満月~読書

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 薬喰(くすりぐい)」で一句詠んだりなぞしていると、何やら今晩、肉でも食ってみようかという気にもなる。

 薬喰と言えば無論、冬の牡丹(ぼたん)鍋に紅葉(もみじ)鍋、桜鍋あたりの肉料理のことである。その昔、肉は表向き禁忌で、喰うなら隠れて喰うべきものだったそうだが、山鯨(やまくじら)だの(かしわ)だのと言う隠語も公然として、もはや人目を(はばか)るということ自体が形式でしかなかったようである。

 だが維新後、明治大帝におかせられては「ひとつ(ちん)が文明開化の手本を」とて肉をお召し上がりになり、これを契機に肉食が大いに普及した。日本はそんな時代から、まだ百数十年かそこらしか経っていない。

 ともかく、薬喰は冬の季語とて、今日も寒い。高校3年生は今日センター試験であるという。このところ毎年のことだが、センター試験と言えば東京周辺は雪と決まったもので、今日も雪交じりの冷たい(みぞれ)が降った。

 読みかけの古書、平凡社の世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」を携えて、行き付けの蕎麦店・南越谷駅傍「SOBA満月」へ足を運ぶ。

 今日の蕎麦前は、新メニューの「白子ぽん酢」に新潟の銘酒「吉乃川」をぬる燗で2合。「白子ぽん酢」は昨日から始めたばかりの肴メニューなのだという。この店で魚介の生ものは珍しい。新鮮でみずみずしくクリーミーで、紅葉おろしと(あさつき)の、なんと合うこと。付け合わせに和布(わかめ)と胡瓜の飾り切りが入り、さっぱりする。

 読書しつつ酒を飲み、飲み終わったら蕎麦にする。今日は寒いから、「卵とじ蕎麦」にする。

 熱々のかけ蕎麦に、フワフワのとじ卵がたっぷりかかり、三つ葉と葱のアクセントがおいしい。ふうふう吹きながら手繰り込み、半分ほど食べて、やおら七味唐辛子を効かせると、寒さなどどこへやら、芯からホカホカと温まってくる。

 飲み喰いしつつ、本を読む。

 「現代人のための結婚論」は、結婚ということそのものについては勿論のこと、結婚後の夫婦の日常生活についても多く言及している。それが、夫婦間だけではない、職場の人間関係などにも大いに参考になる、強く共感を覚える示唆を沢山(たくさん)含んでいて、意外に納得感の強い読書となっている。私にとってこの評論は、同じ巻の他の評論に比べて、最も共感が強く、理解もしやすい。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」から引用。
他のblockquoteタグ同じ。

p.438から

 そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。

p.457から

成熟した人間は服従をとおして真の自由を見つけ出す。ところが未成熟な人間は不服従によって自由をかち取ろうとする。

p.461から

成熟した人間はその行動をコントロールする。

 これはわかりきったことだ。だが、たいへん重要なことだ。自分をコントロールするとは、手っ取り早く言えば、将来のために現在の苦痛や不満を我慢するということだ。自分の現在の欲望や衝動だけを行動の原理とする人間は成人になっていないわけだ。子どもというものは現在の欲望をコントロールすることができないからだ。多くの学生結婚はこうした未成熟の結果であることが稀ではない。彼らは待つことができなかったのだ。自分をコントロールするとは、「待つ」ことができるということだ。

 つまり、自分をコントロールする人間の行動は、苦痛とか快楽とかいったものではなく、むしろいろんな原則に基づいて決定されるわけだ。若い人はしばしば、成人になれば何でもかってにできるのだと考えたがる。言いかえれば、自分の行動を制限するものがいっさいなくなること、それが成人になることだと考える。けれどもそんなふうに考えることは、彼がまだ成人になっていない、未熟であることの証明でしかない。成人とは成人の行動原則を自分に課する人間のことだ。たとえば、子供は他人の思想や行動のプライヴァシイ(私的な性質)をいっさい認めようとしない。だが成熟した成人は他人のこのプライヴァシイを充分認める。

p.474から

とにかく、なぜある人間が現在あるような人間であるのか、このことをもし私たちが理解するならば、たといそのような彼を変えることができなくても、私たちと彼との関係をいくらかでも気持よいものにさせることになるだろう。つまり私たちは彼の行動を変えさせることはできない。しかし私たちは彼の行動について私たちの解釈を改めることはできる。そしてこの事自体、意義のあることなのだ。

 上の部分、実に、職場での人間関係においても適用可能な示唆に富む。

p.477から

 忠告(アドバイス)もむずかしいものだ。相手が忠告を求めていないときに忠告するのは、無用であるどころか、有害かもしれない。それに忠告は命令ではない。だがしばしば、私たちは忠告と命令とをとっちがえる。命令だったら、相手がそれを守ってくれるか否かを見守る必要がある。だが忠告は、相手がこれを受け入れようが受け入れまいが、本当はこっちの知ったことではないのだ。世の中には何かをさせようとこちらから働きかければかけるほど、しりごみする人がいる。劣等感がそうさせるのだろう。こういう人に対しては、こちらが相手にしてやる、あるいは相手を助けてやるよりも、相手をしてこちらの手伝いをさせるように仕むけることだ。相手がこっちのために何かを自発的にするように仕むければ、やがて劣等感という心のシコリはほぐれるだろう。

 この部分も夫婦間ではなく、職場における上下関係などにおいても適用可能な示唆に富む。

p.477から

夫婦は大いに話し合い議論し合った方がいいという意見がある。だが、本当はそういうことはむずかしい。なぜなら、議論というものは表面上は理性と論理の上に立っているように見えるが、じつは感情(エモーション)の上に立っている場合が多いからだ。

P.478から

議論のきっかけが相手の行動や考え方に対する反駁であるとすれば、へたな議論をしないためには、この反駁や反論を中途でやめるというか、「反論はできるのだが、今はしたくないのだよ」という態度を示すことがいい。反対論をしばらく括弧の中にくるみこんでしまう態度、それが「寛容」といわれるものだ。

 上の箇所も前の箇所と同じく。

p.479から

 相手につまらぬことで干渉しないことだ。

 さらにまた、もし諸君が小さなつまらない事がらで相手と意見が一致している、そして一致していることをお互いに気持よく認め合うことができれば、大きな事がらで意見が一致しなくても、諸君は平静にまた効果的に相手を動かすことができる。反対に、諸君が日常の小さなつまらないことでいつも妻と意見を異にしているとすれば、重大な問題で、意見を一致させることはたいへんむずかしくなる。

 上の箇所も前の箇所と同じく。

言葉
暁天(ぎょうてん)の星

 勿論、読んで字の如く、明け方の星のことであるから、「数が少ないこと」を言う。

引用元前記と同じ。下線太字は佐藤俊夫による。

外から与えられるものを素直に受け取って、そのままそれを実行するような従順な、あるいは個性のない人間なんて、いまどき、暁天の星ほどにもおるまい。

正月飲酒天国

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 正月もはや三日、古い言い方で「猪日(ちょじつ)」と言う。元旦は「鶏日(けいじつ)」、二日は「狗日(くじつ)」とそれぞれ言うが、これは中国の古い呼び方である。

 さておき、私は酒呑みなので、正月の間中、ずぅ~っと重箱の中のものを食べているが、お節料理はどれもすべて大好物なので、まったく食べ飽きないのだ。

 御重の中のものたるや、全部、酒に合う物ばっかりでできていないだろうか。ごまめ(田作り)や煮〆(にしめ)、数の子なんて、酒のためにあるようなものではなかろうか。……金団(きんとん)や黒豆は甘いが、甘いなりにこれがまた酒に合うのである。

 煮物は日が経てば経つほど、なにやら味わいが増して旨くなり、こたえられない。

 最近は呑まない若い人も増えた。呑む人でも「まずはビール」だと思うが、御重にはやっぱり日本酒が合う。

一杯

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 今日の酒肴は、「海鼠(なまこ)の柚子果肉和えぽん酢」。最寄りの魚屋に海鼠があったので、柚子と一緒に買ってこしらえてみた。

 季節の歯応え。シコシコ、コリコリ、ヌルヌル、海の香りと柚子の香り馥郁(ふくいく)。おいしい。

(ふゆ)(うら)らか

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 昨日は旧暦十一月三日で、日中は(ふゆ)(うら)らかに良く晴れていた。

 久しぶりに神田「まつや」へ蕎麦を手繰(たぐ)りに行った。

 入れ込みで少し寒い入り口傍の席に座を占め、蕎麦前に酒をぬる燗で一本、肴に焼海苔。

 向かいに座った頑固者らしい不愛想な男が身欠き(にしん)の煮たのを健啖していて、まことに「まつや」らしい一景と感じられた。

 「花まき」の熱いのをふうふう吹きながら手繰った。

 心地よい海苔の香りが立ち上る。蕎麦の喉越し、蕎麦汁の加減、どこをとっても申し分なし。

 程よく(ほと)びた海苔を味わいながら、そう言えばそろそろ新海苔の季節だな、とも思うが、まだ少し早い。名店「まつや」といえども、まさかに11月から新海苔など出すまい。

 海苔は春に収穫されるが、新海苔は冬寒いうちから「初物」を珍重して早々と出るのだ。暮の贈答用に選ばれるということもある。

 宵の口には針のように細く、キリッと尖った三日月が陽とともに沈んでいった。脇にクッキリと宵の明星を従えていく。

 冬らしくなった。明日はもう十二月、師走である。

 今朝は今週の「さえずり派」の季題を出題した。「さえずり派」はTwitterの俳句ハッシュタグ「#saezuriha」で詠む素人俳句だが、名の知られた俳人の方もいる。季題当番は適当に回る。当番は先週の土曜、平坂謙次さん @hedekupauda から回ってきていたのだ。

 「短日」で出題した。実際、とうに秋も終わり、夜長と言うより短日の実感が濃い。(うべな)うべけんや、研ぎすまされた針のような三日月も落日を追いかけようというものである。

一杯

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 よく()れた大ぶりの柚子(ゆず)が出回るようになったので、柚子味噌(ゆずみそ)を焼いて一杯。

 今日は本格的に素焼(すやき)焜炉(こんろ)に炭なんか(おこ)して、こんがりと香ばしく焼く。

 酒はいつもの酒を三合。

 旨い。