しかし聞くところ、最近の街のカラオケの機械はなんでも入ってて、これもあるそうな。……だって、軍歌関係とか、猥歌、雑謡、なんでもあるもんな。今までカラオケで見たことがないのって、浪曲ぐらいだなあ。
いっぺん、「石松三十石船道中」をやってみたいものだが、アレ、30分ぐらいかかるんだよな。
☆ 参考:パヴァロッティ師匠のアレ
オッサンは生きている。
酒はブラックニッカ・クリア、BGMは浪花節の名曲「唄入り観音経」、肴は玉葱刻んだ奴に醤油をかけまわす。
……至福っちゅうのは、私にとってはこういう事であるのだ。安上りに生まれついて、本当に良かったと思う。
善行の正しいありかたが奈辺にあるか、できるだけゲスっぽく考える。
日本人のトラッドな宗教観からすると、古来の自然信仰道に神道と仏教がほどよく入り混じった考え方になる。しかもなお、日本人の場合、仏教にも大乗と小乗がほどよく入り混じり、善行の発露のしかたに影響している。なおかつ近代はキリスト教の裁きの日を恐れる気持ちなどまで流入して、一種独特の考え方になっていると言える。
善行による結果の取得先が自か他かで多少議論はあるだろうが、シンプルに書けば「よりよい来世を得るため、他に善行を施し、自に徳を積む」ということでだいたい合っているだろう。
よりよい来世が得られるかどうかというのは、一種の確率である。六道輪廻転生などと言えば、確率×確率×確率……、つまり確率の6乗ということで、一種の確率過程で屁理屈をこねて遊べるかもしれない。善行のマルコフ過程、などと専門用語をちりばめると、私もいかにも頭が良い人に見え、実力以上の尊敬が得られることは疑いない。
話を戻す。まず、最初の「来世なるものが存在するか否か」というのが確率で言えるのであるが、これは言い出すとハナから話にならぬから、とりあえずアッチへうっちゃる。
次に、「よい来世」というのが何かということの定義である。指標を持ち出して言える定義はなかなかないので、不本意ながらゼニカネで言ってみる。ここがまあ下司な話で、「金持ちに生まれ変わる」というのを仮に「良い来世」とするわけだ。
では、「金持ちとはなんですか」という、金持ちの定義ということになる。
こんなものは相対的なもので、100万持ってるから金持ちとか1億持ってるから金持ちとかいう絶対量では言う事はできない。所詮、「人より金を持っている」という比較論でしかない。ちなみに仏教用語ではこうした相対論を「戯論」といい、逆に絶対論でいう事を「金剛論」という。宗教家が金持ちをさげすんで見せるのはそういうところにも原因がある。ま、多くの宗教家はお金が大好きですけどね。
また脱線した。
ここで、いわゆる「意識の高い層」の考え方を借りようではないか。世界の人口は今、ざっと72億人と言われている。彼らによるとそのうち1%が世界の富を独占する富裕な人々であるという。昔の共産主義者めいた憎悪を込めると、「悪しき連中」だ(笑)。なんにせよ、彼らゼニカネ独占貴族を除けた、それ以外の99%、71億人は貧乏人と言ってしまおう。アナタもワタシもドイツもフランスも、いや違った、ドイツもコイツも貧乏人、である。
カネとか富裕とか貧困とかいうこと「だけ」でいえば、よりよい来世が得られる確率は、その1%にもぐり込める確率である。つまり、0.01である、ということになる。
これを期待値ということで考えると、自分が善行に使えるリソースにこの確率を乗ずれば、使ってもよい量が出る。
具体的にしてみよう。今、誰かのために喜捨をする、それに使ってもよい捨てガネが100万円ある、そして、期待するのが自分の来世だとする。そうすると、
100万円 × 0.01 = 1万円
まあ、1万円ほど喜捨をしておくのがせいぜいのいいところ、だ。
多分であるが、捨ててもよいカネが100万円もある、という人などあまりいない。例えば私あたりの凡百の貧乏人は、募金箱に入れているのは5円だの1円だの、そういうあさましい額でしかない。独身の頃、5万円ほど寄付したことがあったが、これはもう、一世一代の多額であった。
逆にいうと、募金箱に喜捨する額を0.01で割れば、その人がその人自身の「金持ちに生まれ変わる来世」のために捨ててよいと考えている額が推定できるということになる。
5円 ÷ 0.01 = 500円
我ながら、まったくしみったれている。情けなくなるほどだ。
某富豪は、自分の来世のためと言うわけではなかろうが、大震災の時には100億と言う途方もない金員を寄付した。しかし彼のことだ、そこには単純な浪花節やら人類愛、郷土愛なんかではなく、期待値や確率に基づく冷厳な計算がなかったとは言えぬ、いや、なかったとは言えないどころではない、ひょっとするとそればかりだったかも知れない。
どういう確率を寄付できる総額に乗じたのか、恐れ入ってしまうのはここである。
私ごとき、500円ほどの額を動かすことで金持ちに生まれ変わりたいなぞ、虫が良すぎると怒鳴りつけられるだろう。
してみれば、金持ちとしての来世を確率(イコール「運」(笑))で願う者のめでたさには一警をとなえざるを得ない。
これには逆がある。
「今と変わらぬ暮らし、凡百の貧乏人」に生まれ変わる率が0.99なら、期待値で考えれば、さっきの500円のうち、495円まではつぎ込んでよいのである。
つまり、はやく言えば生まれ変わって金持ちになることに現世のリソースをかけるなどムダなのだ。今と変わらぬ不易のほうへ費やす方がよっぽど賢い。
なんにせよ、金持ちになりたいなどと、下司な来世など願わぬのが賢にして明というべきであろう。
いつぞや、「ゴールデンウィーク」という言葉の起こりを聞いて、ゴールデンウィークをゴールデンウィークと呼ぶことに抵抗を覚えるようになった。
ゴールデンウィークというのを休日が続いて黄金のように楽しいと言うような意味にとらえてしまう人が多いようだが、実はそうではない。テレビが各家庭に普及していなかった昭和30~40年代、庶民の娯楽は夕時の寄席や休日の映画であった。「ゴールデンウィーク」なる言葉は、その映画業界から出てきたものだそうだ。つまり、映画業界が連休の家族連れでザクザクと書き入れどきになるという意味の「ゴールデンウィーク」である。
これは、映画業界、すなわち「あっち」にとってのゴールデンであって、「こっち」にとってのゴールデンではない。
そこからすると、「ゴールデンタイム」というのはテレビ業界にとってのものであって、こちらにとってのものではない。楽しい番組が目白押しの家庭団欒の輝ける中心時間、ということではないのである。テレビ会社のヨダレ塗りたくり系視聴率猟場といったほうがよかろう。「あっち」にとってのゴールデンだ。
子供を育てていると、夜の19時ごろから21時ごろと言うのは、正しく食事をしたり、勉強をしたり、後片付けをして風呂に入ったりするという極めて重要な時間であるということを日々認識させられる。この時間帯をどのように過ごすかが育児の鍵であると言い切っても差し支えあるまい。
この時間帯、私自身はできる限りテレビを見ないようにし、勉強したりピアノの稽古に励んだり、活模範を展示しようと努めてはいるのだが、子供たちにとってはそんなことはまったく関係がない。この大切な時間にポカンと口を開いてだらだらテレビを見て過ごし、寝るのが23時にもなってしまっている。それを徹底矯正できない自分の指導力のなさもよく考えると父として恥ずかしい限りだ。だがしかし、テレビにはそれくらい人を毒する魔力があるのだ。
テレビ屋は、自分たちがどれくらい毒のある手段を持ち、その毒がどれほどの影響力を揮っているかをわきまえるべきだ。もっと慎重自虐に仕事を運ぶべきなのだ。テレビ屋は自分たちでは「『ゆとり教育』はけしからん、バカな文部官僚のくだらん思い付きによって日本はバカになっている」などと好き勝手な言説を垂れ流し、すべてを行政と政府と官僚のせいにしているが、そのくせ自分たちのやっていることは全部デタラメだ。もっと反省するべきだ。
政府も、「サマータイム」などという毛唐流のおかしな習慣の導入などにムダな時間を使っていないで、この「ゴールデンタイム」と称する腐ったテレビ屋の習俗を法律で禁止してはどうか。そのほうがよっぽど日本の国力は増進するだろう。
低俗でつい見てしまいたくなるような番組は、すべて朝の4時30分から6時ごろに集中させればよい。国民はみな早寝早起きとなり、ラッシュアワーの緩和などにつながって住宅の問題が軽減されるし、適正な睡眠によってデブが減り、生活習慣病が減少して医療費などの問題解決に幾分か寄与するだろう。
かわりに、夜の19~21時ごろには、「皇室アルバム」とか「浪曲アワー」、「100歳万歳」「日めくり万葉集」などの、その内容に比して不当な評価をあてられている番組を一斉集中させるのがよろしい。
仕事が終わった夜のひととき、静謐誠実なおん人柄の天皇陛下のお姿をテレビにて拝し奉れば心気鎮まって自ずと至心起こり、また浪花節の渋声に心を浸せば、人情と武士道が綯い交ぜになって胸に迫り、あるいは100歳の寿を誇る老人の魂をその姿から感じ取れば、高齢化問題に性急な断を求めようとする不孝の罪心を恥じる気持ちが湧くであろうし、他方、夕のひとときを万葉の精神に触れて過ごせば、古の直なる言の葉は都会に荒びきった愚かな迷いの心を開放するに違いない。
ここに一億の魂が洗われて、沈滞する日本の命運は一挙に挽回されるのであるッ。
二代目廣澤虎造の浪曲、また、古くは講談のネタでも有名な「石松三十石船道中」というのがある。 「食いねェ食いねェ、寿司を食いねェ、酒を飲みねェ、もっとコッチい寄んねェ」というアレだ。
この語り出しに、「親分には内証だが途中で買ってきた小さな酒樽 縁の欠けた湯呑へ注いで飲む 大阪本町橋の名物『押し寿司』を脇へ置いて 寿司を食べ 酒を飲んでいるうちに 船が水に流されて河のなかばへ出る・・・」というくだりがある。
唐突だが、この「寿司を食べ、酒を飲む」という行為が、どういう感覚のものなのかを想像してみた。
当時のこと、刺激のある飲料なんてものは、ない。現代なら、ビールだのジュースだのソーダだのコーヒーだの、なんでもある。しかし、当時、飲み物と言えば水、湯、茶、酒であったろう。つまり、酒がもっとも刺激的な飲み物であったはずである。
一方、食べ物の寿司。これは、当時のファーストフードの最先端であり、今で言えばハンバーガーぐらいにもあたろうか。
そして、物語の主人公のやくざ、石松。これは、「イキな小粋な、そして愛すべき馬鹿の石松」であって、マンガ雑誌「ヤングマガジン」に出てくるような、一部の人にはかっこ良いとしてあがめられる如き、先端ヤンキーであったかも知れぬ。
つまり、こうである。
「カッコイイ先端ヤンキーが、バドワイザーかマックシェイクを持って船に乗り、ハンバーガーをパクついている光景」
・・・コレが、石松三十石船道中の理解の仕方なのではアルマイカ、と。