お菜で飲む至福

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 朝、某銘柄買いの注文出したつもりになっていて、どうもなにか間違ったらしく、約定できておらず気分を腐らせる。ま、銘柄なんざ世の中に何百とある、1回2回の売買くらい、また何度でも取り戻せるさ。

 飽食、偏食を経てついに奇食、嫌食とでも表現するしかない段階に立ち至っている日本であるが、そんな日本にも、昔の貧しい時代には「三度の飯より博打が好き」などという表現も通用した。楽しみの少ない時代、三度三度ご飯を食べる、ということを人々がどれくらい楽しみにしていたかのあらわれと言える。

 久々に日本酒にする。よくできたもので、お菜が味噌田楽に大根の煮たの。

 壊れちまった……というか、壊れかけの人の仕事が頭上から降ってくる。まあ、仕方がないが、つくづく、こんな時ほど自分の壊れにくさがイヤになることはない。俺もいろいろと投げ出して逃げたろうか、とも思うが、こういう時に限って虫歯一本痛くもならない。頭がおかしくなって墜落スイッチを押したパイロットの話なぞ、病気とはいえまったく同情などできぬ。

おかか胡瓜の作り方

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 おかか胡瓜は、要するに胡瓜と削り節と醤油を適当に味わえばいいのであるが、かくも単純きわまる下司味にも、旨い作り方と言うのは、やはり、ある。

 最も簡略なものは胡瓜を筒切りにし、これに鰹節を乗せ、醤油をかけ回すものだ。

 だがしかし、まったく同じ材料を使って、同じ切り方をしても次のようにすると美味である。

  •  胡瓜の皮はごく薄く剥く。
  •  食べやすい長さに筒切りにする。
  •  切った胡瓜の全部の面を醤油で濡らす。
  •  袋を開封せぬ削り節をよくもみほぐし、鰹節粉に近いものにしてこれを小皿にとる。
  •  醤油で濡れた胡瓜をもみほぐした削り節の上に転がし、全面にまぶす。
  •  気に入った皿に趣味良く盛り付け、酒と一緒に喰う。
  • ……というのが、おかか胡瓜を旨く喰うやりかただ。間違ってもこれを飯と一緒に喰ってはならぬ。濡れすぎているからだ。飯はこのあと、生姜などと一緒にドライにかきこむのがよい。

    レーウェンフック伝

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     私はオランダの誇る科学者、レーウェンフックをとても尊敬している。

     微生物の発見者として名高いレーウェンフックの名は、正しくは「アントニー・ファン・レーウェンフック Antonie van Leeuwenhoek」という。今から400年近く前にオランダのデルフトで生まれた。ちなみに、同じ年、同じデルフトの街に、「真珠の耳飾の少女」で有名な画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。

     レーウェンフックが生まれた1632年は日本でいうと江戸幕府がはじまったばかり、三代徳川家光の頃である。ヨーロッパでは清教徒がアメリカ大陸へ逃げ出しつつあった頃であろうか。

     また、レーウェンフックが生まれたオランダは、この頃鎖国をはじめた日本と、ヨーロッパでは唯一付き合いのあった国ということも覚えておかねばならない。

     オランダも世界の国々と同じく、都市に住む者が人と成るには、多くが「丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)」をしたものであった。レーウェンフックも16歳の頃、アムステルダムの布屋の丁稚(でっち)になった。

     この丁稚奉公が彼の大学であった。

     釣りが足りない布の質がどうだ、値段が高い負けろ、あるいは商売と関係のない雑談、怒鳴りつける主人、意地悪な先輩の手代や同僚後輩、仲買人、オッサン、オバハン、当時目覚ましく躍進中のオランダ、その首都アムステルダムの、そういうやかましい誰彼を相手に彼もその時代の人と同じく苦労と修行をした。

     21歳の頃、何があったのかは今となってはわからないが、日本でいう「のれん分け」というようなことでもあったろうか、彼はアムステルダムの布屋をやめ、デルフトに戻って自分の店を持った。結婚し、子供ももうけた。当時のことだから、死別も含め、バツイチ、バツ2、くらいのことにもなったらしい。

     後年世界的有名人になったとはいえ、この頃のレーウェンフックはまだ、ただの丁稚上がりの布屋に過ぎなかったから、記録はあまりないようだ。どうも布屋も畳んだらしく、市民会館の門番の親父(おやじ)になったという。

     ただ、洋の東西を問わず、後世の人間にとってありがたいことには、なぜかこの頃彼は「レンズ」にとりつかれてしまったのだ。

     この頃の「レンズ」というのは、どうやら特別なものであったようだ。今でいうと「IT機器」とか「ネットワーク」のように、なにやら知れぬ未知の世界への魅力を開くものであったのだ。惑星の表面、はるか宇宙の珍しい恒星、翻って生物、昆虫、こういう大から小にいたるあらゆるものをつまびらかにするレンズは、当時もっとも斬新で、魅力に富んだ、興奮を(しん)()するものであった。

     要するにマニア、である。もっと言えば、「オタク」かもしれない。いい年こいて、女房子供もいるのに、部屋にこもってはレンズばかり磨いている変なオッサン。彼の女房子供が、「ウチのお父さん、どうしちゃったんだろ……?」と、不安な面差しでそっと覗いているのが目に浮かぶようではないか。

     彼は質のよいガラスを炎で溶かしては、手指に火傷(やけど)()(ぶく)れをこしらえて「あちちち!」などと悲鳴を上げつつ、せっせとレンズを磨き、しかも一つでは飽き足らず、来る日も来る日も、これではダメだ、もっと見えるのを、とばかり、憑かれたようにレンズを磨いた。

     当時のレンズは、ガラス塊を砥石で削り、次第に目を細かくして、最後には布に磨き粉をつけて磨き、さらに磨きに磨くことを繰り返して作ったものだという。手技で磨き抜いて作ったのである。

     近所の細工師や鍛冶屋のもとへも通ったのであろう、磨き抜いたレンズを真鍮の枠に()め込む技術も身につけ、精巧な螺子(ネジ)や、調節機構を作る技も会得した。

     レンズを小さくすればするほど屈折率が強くなり、見(づら)くなる反面、微小なものを信じられないほど大きく見ることができるのを体得した彼は、またしても、これでは駄目だ、もっと小さく、もっと小さく……と、小さく小さくレンズを磨き減らしていった。そして、それをごく上等の枠金にはめ込んだ。

     ついにそのレンズは、直径わずか2ミリほどの、ガラスビーズのような、極端な曲面と精妙な細かさを持ったものとなった。

     単なるトンボ玉とか、ガラスビーズではない。レンズとして機能しなければならない。その曲面が、手技によってどれほどの精密度を持っていたか、想像するにあまりある。

     本業は布屋で、また門番である彼だ。つまりアマチュアだ。だが、当時既に世の中にあった「顕微鏡」を僭称(せんしょう)して(はばか)らぬものが、複数のレンズを組み合わせてなお40~50倍の倍率を得るのがせいぜいであったのに、レーウェンフックが磨き抜いた極小レンズは、(のぞ)くのに特別のコツは要したものの、なんと200倍を超える倍率を達成していた。単一のレンズだけで、である。他を遥かに圧倒し去っていた。

     彼は世界中で自分だけが手にすることのできた、自分だけのレンズで、おもしろおかしくあちらこちらを覗きまわった。昆虫の手足、調味料、酒、フケ、鼻くそ、歯くそ、花粉、池の水、雨水、ウンコ、腐った食い物……あらゆるもの、なんでもである。

     しまいにはセンズリをこいて、自分の精液まで見た。

     その結果は、()して知るべし、彼の名を永久に科学史にとどめることとなった。

     ただ、彼は、自分では学者であるなどとはまったく思っていない、単に世界で自分だけが手にすることのできた最高峰のレンズであちこちを(のぞ)きまわることを楽しみにしているアマチュアに過ぎなかったから、自分がどれほどのことを達成したのかもよくはわかっていなかったらしい。

     そんな自由な、自分だけが達成しえた高みにほほえましく満足しているレーウェンフックであったが、これほどの至高の業績は、やはり彼の信じるキリスト教の神が放っておかなかったものであろうか。

     どうも、デルフトの街には大変な人物が、自分ではそれと知らずに在野のままに埋もれているらしい。……そういう声望が先であったか、それとも、彼がみずから言上げをするのが先であったか。……それには諸説があるようだ。

     私が参照している底本では、レーウェンフックは微生物を発見したあまりの驚きのために、これは当時の学問の聖地、本場英国の学会へなんとしても報告せねばならぬ、と自ら手紙を書いた、ということになっている。当時オランダは発展中の国であるとは言っても、学問の本場はやはりイギリスである。かのニュートンもいる、イギリス王立協会こそ学問の中心なのだ。

     オランダ語の日常文章で、時候の挨拶からはじまって結びまで、長々とその手紙はしたためられてあったという。

     現代と強引な比較をしてみよう。現代、学術論文を英語で書かぬような学究は誰にも相手にされない。同じように、レーウェンフックが生きていた当時は、学術と言うものは「ラテン語」で書き表さねば、それは学問としての値打ちを認められなかった。今の英語のようなものだ。

     それを、天真爛漫、正直なアマチュアのレーウェンフックは、オランダ語の手紙で本場英国、王立協会に報告したのであった。

     だが、純朴なレーウェンフックは、嘘は決して書かなかった。そのゆえに、英国王立学会の人々はその手紙を認めたばかりか、貴重なものとして累積・整理し、後には「レーウェンフック全集」としてまとめ、またデルフトの彼のもとへ学者を派遣すらしている。

     彼は細菌の発見者、また精子の発見者として後年名を残したが、そのすべては彼が唯一知っている母国の言葉、オランダ語で長々と述べられていた。

     レーウェンフックは誠実の人であったから、観察記録に憶測を混入することがなかった。見たまま、実験したままを重んじた。それは、若い頃の丁稚奉公で鍛え上げられた頑迷さでもあった。

     知らず身に着けた実証主義的な観察手法のゆえに、ついには王立協会員として貴顕の地位を得た。飽くことなく自慢の顕微鏡であちこちを覗いては、きわめて精密な報告をオランダ語の手紙で学会に上げ続けた。

     同い年の画家のフェルメールの遺産管財人をつとめたことが公的な記録に残っているという。その経緯までははっきりわからないらしいが、同じ街に生まれた同い年の、また当時から有名な二人であったから、なんらかのつながりはあったものと言われている。フェルメールが描いた有名な作品、「天文学者」「地理学者」の二つは、レーウェンフックがモデルなのではないか、と言われているのはこのようなことに由来するらしい。

     余談、フェルメールの「天文学者」は、絵の中でガウンのような「キモノ」を着ていることが見て取れる。これは、当時のオランダの大流行だったそうである。ヨーロッパで唯一日本と国交を持つオランダでは、「謎の国・日本」の珍品として着物がもてはやされたらしい。金持ちとスノッブな知識人は競って「キモノ」を着用に及んだそうで、この絵にもそれが描かれているのだ。独自に最先端の学問に到達しえたレーウェンフックも、もしかすると、そんな珍品を身に着けたものかも知れない。

     ともあれ、……。

     レーウェンフックは長命し、91歳まで生きた。死ぬまでその旺盛な「オタク的アマチュア精神」は衰えることがなく、また、まやかしの学問への批判精神は極めて軒昂かつ頑固で、ライデン大学の学究たちをやっつけること、痛快そのものであったそうである。

    休暇

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     朝風呂、庭の手入れ、午睡、目覚めて飲酒、と来ては、もうこれ以上何を望もうかと言うほどのもの。なんて幸福な男なんだ俺ァ。

     明日は昭和の日であるな。昨日はそれにちなんで昭和天皇陵に参拝もしたことである。

    ルーブル美術館展図録

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    IMG_2675 帰宅したら、注文しておいたルーブル美術館展の図録が届いている。良い時代だ、展覧会に行く前に図録を注文しておいて、勉強しておくことができるのだから、面白さ倍増である。

     姑から新鮮な葉山椒が届いている。いつのまにか姑の家の庭に生えるようになったもので、毎春分けてくれるのだ。これとちりめんじゃこを煎りあわせたもので飲む酒はたまらない。

    梅酒がうまかったり

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     午後イチから酔っ払ってヘベレケになっていたら、ウィスキーがなくなってしまった。

     ウィスキーから梅酒に代える。妻が2年ほど漬けた秘蔵のやつ。こ、これはウマイ。

    焼き海苔の炭櫃

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     神田、上野、池之端、並木、どこの「籔」へ行っても酒の肴に「焼き海苔」を頼めば、下に熾火の入った炭櫃でホカホカ、パリッ!……と乾いたやつを出してくれるが、アレを家でできないものかな、……なぞと思っていたら、売ってるじゃないの!

    http://www.edoshikki.com/?pid=18646176

     ……だが、そ、それにしても、…。8千円以上というのは、た、高いなァ(苦笑)。

    蕎麦屋でダラダラ

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     近所の蕎麦屋で蕎麦を頼まず、親子丼とビールを投げやりに頼み、店の隅のどうでもいいテレビを見ながらまず卵と鶏肉を肴にビールを飲んで、残った飯をおもむろに掻き込んで(シメ)る、というB級の昼下がりも非常に捨てがたいのだが、やっぱり名店「やぶ」あたりに来た日は、飲み料は菊正宗、肴は焼き海苔と決まったものだ。

    DSC_0120 目玉が飛び出すほど高い、というわけではないにもせよ、半畳ばかりの切り海苔に700円は割高だ。だが、選りすぐりの浅草海苔の歯応えと香りが消えないよう、火種の入った炭櫃で供するものに、これまた関東風の塩辛い上等の醤油をつけて味わうのは、やめられない趣味である。ちょっぴり添えられるおろし山葵もたまらない。

    リーガル・ハイ

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     くぅーっ、ウィスキーはなぜかくもうまいのか、……なぞとほざいて毎日毎日酔い痴れていたら、NHKドラマ「マッサン」の大ヒットで誰も彼もウィスキーブームになってしまい、しかも皆いい酒飲んでいるのでなにやら不釈然である。

     であるにもかかわらず、日曜が暮れていくとなるともう、酔わずにはおれぬ。

     妻がレンタルビデオで「リーガル・ハイ」を借りてきたので、続けて見て大笑いする。いやもう、半沢直樹で名声不動の堺雅人であるが、怪優ぶりがこんな何年も前から炸裂しているとは知らなんだ。