北海道で飲み食いしたもの

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はじめに

 急に、北海道で飲み食いしたいろいろなものを思い出した。

 私は昭和60年(1985)から平成5年(1993)まで、北海道の旭川で暮らした。

旭川の立地と気候

 旭川というところは北海道第二の都市である。札幌に次ぐ規模の街だ。ところが、このことは意外に知られておらず、帯広が北海道で二番目の都市だと思っている人も多い。

 旭川は多くの人が “北海道で飲み食いしたもの” の続きを読む

好悪に理屈などない

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 「俺を好きになれ!」と、拳骨を振り回しながら言われても、好きになどなるわけないし、「俺を好きになれ」と、なにやら鼻息ムフムフ、腰をうごめかしながら言われても、好きになどなるわけない。無論、「俺を好きになれ年収は¥$₣元」あるいは「俺は××大学卒業だから好きになれ」など、金や学歴を好きのパラメータにするなど論外というべきである。どれもこれもダメだ。

 好きとか嫌いとかいうものは、魂が相容れるかどうかであって、暴力も性欲も金も学歴もイデオロギーも、好き嫌いには無力だ。

 ピーマンが嫌いな子供に、ピーマンのビタミン含有量と繊維質の健康に及ぼす影響を説いたところで所詮食わないし、納豆が嫌いな野郎に納豆の効用や微生物の及ぼす健康と長寿への影響、統計上の有意な回帰式や相関係数を説明したところで、相手はやっぱり納豆は嫌いなままであろうことは知れきったことだ。

 数値ほど好悪の感情に無力なものもあるまい。

 自分が相手に受け入れられないとき、それは受け入れられないということであって、なぜ受け入れられないのかなど問うても無駄だ。栄養豊富なセロリが嫌いなあなたは間違っています、などと説得しようがどうしようが、奴は依然セロリが嫌いなのである。

 受け手の度量は小説やマンガのように広くはない。そこでジタバタもがくことは、自分自身の修行にはなり、ためにはなるが、相手に芯から底から受け入れられると期待することは無駄である。

 そしてまた、相手に好かれようとジタバタもがいて見せることは相手にとって迷惑である。彼にとって嬉しいことではないのだ。嫌いな奴が好かれよう好かれようとしているんだから、納豆の効能をくだくだしく説かれるようなものだ。「私はこんなにもあなたに好かれるに足る人物なんですよ」と、聞きたくもないゴタクを聞かされて辟易するのは、好き嫌いの激しい子供が人参やピーマンを無理やり食わされるようなものだ。如何にそれが身のためになろうが嫌なものは嫌というのが人情である。

 なのに、人間というものは、なんら好きになどなる理由のないどうしようもないハイカロリー食品を貪り食って酒を飲みタバコを吸い、ダメ相手と同棲したり結婚したりセックスして子供を産んだりするもので、それはもう、どうしようもないのである。

 人間がそんなものであるから、そんな人間から成る社会や国家が、暴力やら性欲やらカネやらなにやらで迷走するのは、もう、仕方がない。

 イスラムの連中は、やっぱりイスラエルもアメリカも嫌いだし、アメリカはやっぱりアジアもイスラムもなにもかもが「嫌い」なのである。

ルバイヤート集成

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 大して良い酒が飲めるほどの金持ちではないのにもかかわらず、あいかわらずだらしのない酒飲みの私だ。

 そのくせ一人前の格好だけはつけていたくて、花鳥の色につけ酒の味につけ、何か詩句論説講釈のたぐい、能書きの一つも(ひろ)げて見せてからでないとはじまらないというのだから、まず我ながら見栄坊もいい加減ではある。

 さて、だからと言うのではないが、文学というものの数ある中に、酒飲みが引用するといかにも賢そうに見えるという、そういうネタがあるということを開陳しておかねばなるまい。

 ネタ強度の点では、まずランボォだのヴェルレーヌだの、このあたりで能書きをタレておけばいいのではないか。なにしろ酔っぱらいそのもの、頭の中に脳味噌のかわりに酒粕でも詰めておくと多分ああいう詩が書けるようになるだろうというほどのものであるから、まずこれで知識人ぶることができるのは間違いはないだろう。

 西洋が嫌なら、東洋文学だ。「唐詩選」あたりから何か引っ張るというのもテだろう。「葡萄の美酒夜光の杯、酔ふて沙場に臥すとも君嗤ふこと莫れ…云々」、なんぞと微吟しつつ飲んでおれば、いっぱしの知識人に間違われること請け合いだ。

 そんなアホな引用のコツに凝る似非(えせ)知識人の私としては、ワケの分からない異文化の手触り、エキゾチシズムの香りで周りをケムに巻けるという点で、この詩人、アラビア・ペルシアの誇る四行詩の泰斗にして同時に極北、オマール・ハイヤームを挙げておくのがもっともピタリと来る。なにしろ、のべつ酔っ払って酒をほめると言う点では世界に並ぶものなしだ。

 オマール・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」は、現在簡単に入手可能なものとしては岩波の小川亮作訳がある。また、これは著作権切れで青空文庫にも収録されており、無料で読むこともできる。

 ただ惜しむらくは、この岩波の小川訳は口語体で、しかも味わいの上から韻文に遠いことだ。それが格調に制限を加えている。

 実は、そのように思わせる原因は、岩波文庫のあとがきにある(岩波のあとがきはまだ著作権が切れていないので、青空文庫では読めない。)。あとがきにはフィッツジェラルドの訳業のあらましと一緒に、我が国におけるルバイヤートの訳出のあらましが記されてあり、無視すべからざる翻訳として、矢野峰人という文学者によって大正時代から昭和初期にかけてなされた文語体の名訳がわずかにふたつだけ紹介されているのである。

 小川訳も、もちろん良い。だが、矢野訳のしびれるような訳は、どうしても捨てがたいのである。

【口語訳】

この壺も、おれと同じ、人を恋う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。

【文語訳】

この壺も人恋ひし嘆きの姿
黒髪に身を囚われの我のごと
見よ壺に手もありこれぞいつの日か
佳き人の肩にかかりし腕ならめ

(若干の解説をするなら、人は死んで土になる、王も賎民もいっしょくただ。こうして土になった人々は、何千年もしてから焼物師の手にかかって粘土としてこねられ、壺になる。だが、出来損ないとしてその壺は打ち砕かれることもある。焼物師よ、ちょっと待て待て、その壺は、昔々美女だったかも知れぬではないか、打ち砕くのをちょっと待ってやれよ…というような含みが前提としてある詩である。)

 文語訳のほうがやっぱりピシリと締まった格調の高さが感じられるのである。

 私は22、3歳のころだったか、岩波の小川訳にシビれ、だらだらと酒を飲む口実にしてきた。だが、そのあとがきにある2篇ほどの文語訳が心に残り、これを忘れたことがない。

 しかし、長らく文語訳のルバイヤートは絶版で、読むことはできなかった。

 そうして長い年月が打ち過ぎた。ところが、である。つい先日のことだが、インターネット時代というのはなんと便利なことだろう。暗唱していた文語訳の詩文をGoogleに入力してみたら、瞬時をわかたず、出るではないの、出版元が!

 10年ほど前、この文語訳のルバイヤートが国書刊行会から出ていたことがわかったのだ!。

 しかしそれにしても、1冊5千円は、た、高い。

 それで、今日は国会図書館へ行き、じっくりと読んできた。

 以下に、書き写してきた文語体のいくつかを摘記する。著作権はとうに切れているから、特に問題はない。


第三十四歌

生の秘義をばまなばんと
わがくちづくる坏の言ふ——
「世にあるかぎりただ呑めよ、
逝けばかへらぬ人の身ぞ。」

p.43
第三十九歌

如何にひさしくかれこれを
あげつらひまた追ふことぞ、
空しきものに泣かむより
酒に酔ふこそかしこけれ。

p.47
第四十三歌

げにこの酒ぞ相せめぐ
七十二宗うち論破(やぶ)り、
いのちの鉛たまゆらに
黄金に化する錬金師。

p.52
第四十八歌

河堤(つつみ)に薔薇の咲ける間に
老カイヤムと酒酌めよ、
かくて天使のおとなはば
ひるまず干せよ死の酒を。

p.56
第五十二歌

人のはらばひ生き死ぬる
上なる空は伏せし碗、
その大空も人のごと
非力のままにめぐれるを。

p.61
第五十七歌

わが行く道に罠あまた
もうけたまへる神なれば
よし酒ゆゑに堕ちんとも
不信とわれをとがむまじ。

p.63〜
第五十九歌〜

新月もまだ見えそめぬ
断食月(ラマザン)果つるゆふまぐれ、
土器(かはらけ)あまた居ならべる
かの陶人(すゑびと)の店訪ひぬ。

言ふも不思議やそのなかに
片言かたるものありて
こころせはしく問ふやうは——
「誰ぞ陶人は、陶物は?」

次なるもののかたるらく——
「われをば土器につくりてし
『彼』またわれを()となせば、
なぞ(あだ)ならむこの身かな。」

また次の言ふ——「悪童も
おのが愛器をこぼたねば、
なじかは神がみづからの
つくりしものをこぼつべき。」

()もいらへせず、ややありて
かたちみにくき(かめ)のいふ——
「かくわがすがたゆがめるは
陶人の手やふるひけむ?」

次なるは言ふ——「『(あるじ)』をば、
あしざまに言ひ、てきびしき
試煉をおづるものあれど、
『かれ』こそは()(をのこ)なれ」

次なる甕の嘆ずらく——
「乾きはてたる身なれども
なつかしの酒充たしなば
日を待たでよみがへるらむ。」

かくかたるとき、待かねし
新月のかげ見えしかば、
肩つきあひて甕のいふ——
「酒をはこべる軽子(かるこ)見よ。」

 なんというか、茫然自失するような訳だと思う。

カミカゼ搭乗員と同じ重さの命を持った、蟻のような地上の将兵たちは、ではどうであったのか

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 一瞬にして死を決する、あまりにも悲壮ないわゆる「カミカゼ」が、しかし誤解を恐れず書けば、後世の人びとから見たとき、切腹にも似た日本人好みの潔癖な死に様のようなものがそこに見えるため、一種の美学として長く民族の精神に残り続けていることは否めない。カミカゼについて書かれたものがいかに筆を極めて作戦の愚劣さを罵っていようと、である。

 航空特攻は、空を翔る航空機と、潔い死、また、たとえ学歴はなくとも素質優秀な者をすぐった航空機搭乗員が国のために死んでいったこと、あわせて大戦末期には素質・学歴ともに優秀な学徒も陸続と参加したという事実などがさらに組み合わされる。このため、陸軍・海軍を問わず、航空特攻は余計に一種の美しさや神聖さを感じさせ、人をシビれさせてしまうのだ。

 だから、特攻はまだ、マシだ。

 カミカゼ搭乗員と同じ重さの命を持った、蟻のような地上の将兵たちは、ではどうであったのか。

 言っては反発も強いと思われるけれども、そこをあえて書けば、搭乗員の苦痛に数倍する苦痛と、かつ、また、数倍する苦痛の期間とを耐え忍び、撃たれ、銃剣に刺され、五体四裂し、焼かれ、蛆に食われ、飢え、病死しつつ、肉弾をなげうって敵陣に踊り込んでいたのが、地上の将兵たちである。航空特攻のつらさの時間軸を、数百倍にも延長したもの、と理解すればよかろう。

 苦痛の期間が一瞬でなく、時間軸が長く伸びるため、その懊悩は余計に深い。航空搭乗員が哲学的に生死について悩んでおれたのは、衣食足りておればこそである。容易なことではないにもせよ、悩みぬいた挙句に死を決することも、あるいは可能だったろう。しかし、飢餓に悩まされた多くの太平洋の島嶼では、ただただ食べたい、そんな餓鬼のようなあさましい心ばえにまで将兵は突き落とされ、物理的な苦痛に長く苛まれてとても意義や精神や愛国といったところにまで昇華できない。それでも彼らは突撃し、さながら即身仏のごとく生きながらに餓死し、また玉砕した。

 私の手元に、「昭和戦争文学全集」の一冊、巻の五「海ゆかば」がたまたまある。

 古い出版なので、ISBNもない。

 当節流行の大ヒット小説「永遠の0」の第4章「ラバウル」で、井崎という登場人物が語るラバウルの搭乗員には、西澤廣義中尉や岩本徹三中尉と言った実在の人物が多く登場するが、その中に有名な坂井三郎中尉も出てくる。彼ももちろん実在の人物だ。

612183358812521 坂井中尉は戦後、苦労して印刷業を営みつつ、出版した「大空のサムライ」がベストセラーとなり、有名になった。私は子供の頃から坂井中尉のファンであったため、手元にこのような揮毫をいただいて大切にしまってある。

 坂井中尉が戦後に書き記した「ガダルカナル空戦記録」という手記がある。この手記は、前掲の「昭和戦争文学全集」に収載されている。この手記における坂井中尉の類まれな筆力が評価され、後の「大空のサムライ」の出版へとつながっていく。つまり、「大空のサムライ」のプロトタイプが、「ガダルカナル空戦記録」である。私は「大空のサムライ」の愛読者でもあるため、この全集の一冊を手元に保管しているのだ。

 さてこの一冊には、もちろん他の作品も多く収載されている。ここでは、「(遺稿)椰子の実は流れる-陣中日誌-」という手記を取り上げてみたい。

 なぜというに、この手記は、私が先に述べたような、航空特攻と地上の苦しい戦いとの好対照を、ある面から浮き彫りにしているように思え、心に訴えるものがあるからだ。一冊の本にこの好対照の二編、「ガダルカナル空戦記録」と「椰子の実は流れる」が一緒になっていることに、何かの意味を見出さずにおれない。

 この「椰子の実は流れる」は、浅野寛という陸軍大尉の手記である。浅野大尉はビアク島で戦死している。

 まだ飢える前、昭和19年5月末の大尉の手記は、次のようなものだ。

(佐藤注:平成6年日本法著作権消滅)

五月三十日 日暮れ

命令
「支隊は全力ヲ以ツテ本夜夜襲ヲ為ス」

雨は褌まで濡レ靴の中に足を浮かす
燃料はなし
採暖する何物もなし
夜襲を前にして一杯の温湯を欲す
語る友を求む
幡軍医大尉と静かに語る
静かなり、静かなり
何物も不要なり
残るは日誌と淑子に宛てたる葉書のみ
水筒の水を日誌を焼きてわかす
一葉ごとに目を通し
過去を振り返り
思いも新たに然して直ちに
煙にする
僅かに温まりし水にて
唯一つのミルクを味わう
葉書焼かんとす
幡大尉制止して曰く
「必ず出す時あらん
残すべし」と
幡大尉と語る
「過去において何が一番楽しかりしや」
と問う
「妻と共に在りし日なり」と
我も同意同感なり
連日の雨にて軍刀は錆を生ず
決意を籠めて手入れす
今更未練なし
敵撃滅の一念あるのみ
我に我々に国家に
此の苦痛を与えし敵は
寸断せずんばやまず

 悲壮であるにもせよ、この頃はまだ、大尉の詩は力強く、美しいと私は感じる。大尉にも、多少の文飾を施す余裕もあったのだろう。

 だが、この夜襲で大尉は生き延びる。数ヶ月経ったあとの手記は、次のように変わる。

(佐藤注:昭和十九年八月十二日~八月十八日の間の手記、同様に日本法著作権消滅)

 欲求が大なる時又は程度が高いときは困窮の程度がまだ低調でないと言える。すき焼きが食いたい。酒が飲みたい。ぜんざいが味わいたいという時は飯をまがりなりにも食っていたときの言葉であった。いよいよ芋だけ一ヵ月も食べると麦飯でよいから、みそ汁と共に腹いっぱい食べたいと希うようになった。塩分が欠乏して調味品が無くなると塩のひとなめをどれ程欲求することか想像外である。今は芋でよいから腹いっぱいたべて死にたいということになるのであろう。水が飲みたいうちはよい。空気が吸いたいとなると人間も終わりである。

 これが更に、次のようになる。

(佐藤注:平成6年日本法著作権消滅)

欲望

 洗い立ての糊の良くきいた浴衣を着て、夏の夕方を散歩したい。陸軍将校ノ軍服を着て、指揮刀と軍帽をかぶってみたい。セビロも良い。合い服を着たい。たんぜんもよい。火鉢の前にどっかりあぐらをかいてみたい。いずれにしても清潔な洗いたてのものをきたい。白いシーツの糊気のあるフトンでふっかりとねてみたい。明るいスタンドの下で机にもたれ熱い紅茶を喫しながら、「光」をフカして本を読みたい。やわらかな座布団の上にすわって、冬の夜勉強をするかたわらに妻がいる光景を再現したい。酢だこで酒がのみたい。酒といえばその添え物を数限りなく思う。

 数の子、焼き松茸、刺身、すき焼きはいう迄もないこと、鳥の刺身、茄子の紫色の酢みがかったのか、きゅうりの種のあるのに醤油をかけてお茶づけにしてみたい。朝ゆらゆら湯気のあがるみそ汁に熱いご飯をああたべたいよ。

 とんかつ、てき何でもよい。おすしもよい。握りがよい。冷たいビール、ああいいなあ。夏の夕方うち水をした時、清潔な浴衣で散歩する。あの気分、冬の夜熱い部屋が一家の団らん、秋の山、春の朝、梅匂う朝、桜咲く春の日中、いいではないか。

 妻と共の事は書くのを控えよう。自分が戦死した後で、第三者に見られるような事があったら、自分たちの一番貴重なものを他人に取られたような気がするから、唯今思い出すままに第三者のわからないように書きたい。和歌、白浜、名古屋、「名古屋ではウィスキーを妻がおごってくれた事があったっけ」正月の休暇中の大阪の映画、汽車旅行、新宿、二月に妻が上京したことがあった。この時、区隊長殿の特別の取り計らいにより、外泊を許可された国分寺の一日。四月に妻が上京、美しきアパートを借りる。風呂の帰りの散歩、食後の夕涼み、いつもの食事、晩酌、ボート遊び、市内見物、買い物、赤鉛筆買い、母と共に学校に面会に来たとき、帰郷の夜汽車、奈良駅、出発の日、大阪駅、──改札口──ホーム、ホームを一時の別離とした。

 このしばらく後から大尉の手記は途絶えてしまうのだが、大尉の戦死はさらに4ヵ月後の12月15日となっている。最初の手記から後のほうの手記への内容の変化をたどれば、戦死前に大尉の心情がどのように変化していったか、さまざまに想像できる。

 主計科の、しかも将校でさえこうであれば、歩兵や砲兵の、徴兵の兵隊がどんなにつらかったかは、いわずもがなであろう。

 地上の将兵の戦いの、ある側面が現れていると思う。

 私は、航空特攻と、学徒出陣だけが、美しい日本の将兵の死に様などではなかった、と言いたい。泥まぶれの、心さえ薄汚れてしまう地上戦も、すべて同じだったと思う。

自分の見送り

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 今日の私は、私を見送るためのセレモニーに出る以外、特に用がなかった。今の部署の最後の日だからだ。多くの人が時間を割いて私を励まし、見送ってくれた。まことにかたじけないことだった。

 昵懇の同僚二人が私を名残惜しんでくれ、「ちょっと今日、何か美味しいものを食べませんか、なにか、食べたいものってありますか?」と聞いてくれた。

 そこで、神田の名代の鮟鱇料理「いせ源」に行くことになった。

 鮟鱇のいろんな味と歯応えの身を、濃いめの出汁で煮て、積もる話を沢山した。菊正宗をたっぷり飲んで、鮟鱇雑炊をふうふう吹いて食べた。鮟鱇雑炊は、鮟鱇を煮たあとの出汁でめしをひと煮して、卵をとじ込み、葱を十分に散らして作るのだ。

 それから、先日同期生に教わった、秋葉原TX改札傍・トリム5Fの82エールハウスでビールやウィスキーを飲んだ。

 二人とも体を壊さないよう、これからも健康で仕事をしてほしい。

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名代・あんこう料理専門店「いせ源」・甘味処「竹むら」

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 このブログに、このような記事を書くことは非常に珍しいが、ちょっと楽しい飲み食いをしたので書きとめておきたい。

 秋葉原の駅を出て「中央通り」を南にゆくと、靖国通りに向かう途中に「万世橋」がある。ここから眺めると左手に萬世の通称「肉ビル」、右手に旧中央線の古色蒼然とした煉瓦造りの高架がある。

 「以前交通博物館のあったところの裏の一画」と言えば、ピンとくる方も多いと思う。

 秋葉原のカラフルなイルミネーションはすぐそこなのに、この万世橋の右手の、煉瓦造りの高架の一画だけ突然時代が遡ったように見えるのはなぜか。それは、あの一画だけ戦時中の空襲の被害をどうしたわけか免れ、戦前のままに街が残されたからである。しかし、米軍側の資料でも、どうしてあの一画を標的にしなかったのかはよくわからないという。

 さて、そんな万世橋と靖国通りに挟まれた秋葉原南西の一画、正確には神田・須田町と、同じく淡路町にまたがるところだが、「大人の人たち」は戦前への愛惜を込めてそのあたりを「連雀町」と呼ぶ。江戸時代、背負子を背負うための肩掛けに使う「連尺」を作る職人がここに住み着いていたので連雀町というようになったのだそうな。

 このあたりには、空襲の被害を免れたため、戦前の建物がゴロゴロと残っている。有名な蕎麦店の「神田・藪」や「まつや」も、この一画にある。

 その「神田・藪」にほど近く、あんこう料理の専門店があり、なんと創業180年(!)と言う老舗ぶりを誇っている。それが名代の「あんこう料理・いせ源」だ。この店は「知る人ぞ知る」名店で、他の料理もあるにはあるが、冬の「旬」になると「『あんこう料理』一本!」で勝負している。店舗は昭和5年築で、戦災を免れたため、東京都の「歴史的建造物」に指定され、保護・保存されている。

 一夕、この「いせ源」に行ってみた。

 あんこうは「七つ道具」と言って、身のあらゆるところがおいしく食べられることもよく知られる。グロテスクな姿態にもかかわらず、食味は繊細・淡白で、食べ飽きることがない。「肝」も俗に「アンキモ」と言われて、フォアグラに匹敵する珍味と言う人もいるほどだ。

 いせ源のあんこう鍋は、このあんこうの「いろいろなところ」を、秘伝の濃いめの割下で炊き上げて食する。仲居さんが何人もいてこまめに面倒を見てくれるから、私のような素人でも心配なかった。

 あんこうの「いろいろなところ」には、コリコリしたところやヌルヌルしたところ、ホクホクしたところや、プルプルしたところ、甘いところなどいろいろな身があり、とりわけ「アンキモ」のうまさと言ったら…!。菊正宗・上撰の熱燗が、それこそ「どこに入ったかわからぬ…」くらい、すいすい飲めてしまう美味しさである。

 あんこう鍋を堪能した後は、あんこうの身の「いろんな味」がじっくり溶け込んだ出汁にご飯を入れ、刻み葱をたっぷりと載せて、煮えばなに溶き卵をかけまわした「雑炊」がこたえらない。これも仲居さんがすばやい手際でこしらえてくれる。

 値段のほうは、あんこう鍋一人前3400円~と、「滅茶苦茶に高いわけではない」値段だ。むしろ、江戸時代から続く暖簾の、戦前から大切に保存されている店舗で、青森産の「本格のあんこう」を食って、和装の美しい仲居さんにお世話してもらってこの値段は、安い方と言えるだろう。

 さて、あんこう鍋で程よく飲んで酔った後、「甘味が欲しくなる」のもままあることだ。「酒後の甘味は体に毒」なぞと言うようだが、なに、言うヤツには言わせておけばよろしい(笑)。

 おあつらえ向きに、いせ源の向かいに、これも戦前からの老舗の甘味処「竹むら」がある。ここも戦災を免れ、都の歴史的建造物として保存指定を受けた、「なんともいえぬ風情の」店舗だ。

 「竹むら」では、最初に出される桜湯をゆっくりと味わい、それから迷わず「粟ぜんざい」をオーダーしよう。700円しない程度だ。ほかほかに蒸し上げた淡白な「粟飯」の上に、品よくこしあんをかけ回した味わいは、一緒に出される濃いめの煎茶ととけあって、「左党」のオッサンでも思わず膝を叩く美味しさだ。

 そして、土産に、老舗・竹むら自慢の「揚げ饅頭」。これは二つで450円。揚げ饅頭のふんわりとした軽い甘味は、家で待っている女子供を喜ばせること請け合いだ。

 いずれの店も、作家の故・池波正太郎が愛してやまなかったことでも有名である。秋葉原から歩いて5分、スグであるので、一度「ハードディスク代金をチト削って…」試してみては如何。

「ITストラテジスト試験」に合格

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 「泊まり込み仕事」の最中、とても嬉しいことがあった。

 「ITストラテジスト」の合格発表があり、合格したのだ。世間では「IT最難関」ともされている資格だ。

 この資格がまだ「システムアナリスト」という名前だった頃、一度受けて落ちたことがある。5年前のことだ。その後、少し忙しかったこともあり、受験できなかった。

 前の上司や、今一緒に仕事をしている相棒から刺激を受け、もう一度頑張ってみようかという気になり、勉強した。去年の春から、夏をはさんで秋までかかった。そのために、この数年間、毎年出ていた次女のピアノの発表会の連弾相手は、今回は見送った。

 通勤電車の中で、毎日立ったまま論文を書いた。本番では予想していなかった論文題が出題されたが、今までの長い経験で3200文字をほぼ満杯に埋めつくし、押しきることができた。

 これで、「日本ITストラテジスト協会」正会員への入会資格を得た。さっそく加入申請をして、幅を広げたいと思う。

 今年は懐かしい人々に会えて、再び友達になれたり、年の瀬に近くなってから良いことが沢山あった。正月の酒は、だから、旨いだろう。

「かわせみ河原」

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936725511jpg_awsaccesskeyid0zryp5x 5月1日(土)~2日(日)、去年の夏に行った「かわせみ河原」というところへ、知人のIさん御一家とキャンプに行った。

 実にいいところで、管理費を300円ほど払うほかは、お金はかからない。

 天気もよく、私たちは早発ちをして行ったので、場所も空いており、大変面白く遊ぶことが出来た。

 「かわせみ河原」は関越道花園ICの近くである。その花園ICのすぐ近くにいちご農園があり、今の季節はいちご狩りができる。

939254641jpg_awsaccesskeyid0zryp5x キャンプ場にテントを張ったあと、子供たちをつれ201005011401211ていちご狩りをした。1人1800円というと高いような気もしなくもないが、スペシャルコース60分、ドリンク飲み放題・いちご食べ放題・いちごパフェ作り放題で、オリジナルいちごジェラートがついていての値段なので、非常に満足感が高い。おすすめできる。

 キャンプ場に戻り、焼肉をするほか、燻製を作ったり、お好み焼きを焼いたり焼きそばを作ったりした。

 今の季節は暑くなく、夜は焚き火が良い。子供は遊びつかれて早々とテントで寝てしまい、大人は火のそばでウィスキーなんぞを試しつつ、夜更けまで語り合うなどした。

 安上がりで楽しいレジャーだった。

酒が旨いのも如何なものか

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 よく飲む。

 酒量を誇ってうれしい歳でもない。むしろ酒量を控えたり、「カミサンに酒を隠されちゃいましてね」などと言ってみたりするほうがチト滑稽なシブいめの自慢になるだろう。

 だが旨いものは仕方がない。

 こう虫の声が響くと、夜が長くなってくると、どうしようもないのだ。

 昔持っていた開高健の「シブい」というハードカバーの初版本には、「まれにウィスキーを冷蔵庫に冷やしておくと言う仁を見かけるが、あれは大変聡明なやりかただ」というようなことが書いてあったように記憶する。

 私も若かったから、当時それをそのままマネしたものだ。だが、あまり旨いと思わなかった。青二才だったから、水で薄くなったウィスキーじゃないとダメだったのだ。氷にぬるいウィスキーを注げば、氷が解けて中途半端な水割りみたいな味になる。そのほうが旨いと思っていたのだ。

 ひとりの頃は、分不相応に高い酒をマズい飲み方で飲むようなアホなことばかりしていた。味も分からぬクセに、恥ずかしい自分だったと思う。ワイルドターキーだのメーカーズマークだの、中曽根内閣からあと、税制が変わる前、1本1万円もするようなものを、怪しいスナックで不味い氷に注いでもらって、今思えば爆笑もののツラで呷っていた。

 今ドラえもんかSFか魔法か、なにか天変地異でもあって、当時の酒場に突如降り立つことが今の私に許されたなら、そして都合よく私の手にコルトかスミスアンドウェッソンでも握らせておいてもらえたなら、躊躇なく全装弾数を若い自分に撃ち込むだろう。

 自宅の冷蔵庫で冷えているのは、無論そんなエエカッコシイの酒ではない。近所の薬局兼スーパーで買いこんできたものだ。小遣いで買ったに決まってますよ、ええ。サントリーに決まってるでしょ、問うまでもなく。いや、普通角瓶か「富士」でしょ。・・・角瓶買うくらいの見栄はまだワタシにもありますよ。

 それにしても、なんでこんなに角瓶は旨いのだ。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.53

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 平日だが、帰宅するなりせっせと「エリーゼ」の練習である。

 6回ほど弾いたが、今日は昨日に比べてヒドい出来で、とても録音しようなどと言う気になれず。

 虫の声が変わり、夜が長い。涼しい。ウィスキーや焼酎がうまい。喋らずにいると気分がいい。