浮浪者にも命がある、が……。

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 台風19号は各地に被害を残して過ぎていった。

 被害に遭われた方には、心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い生活の再建をお祈りする。

 さておき、天災の後、いろいろと政治的な(くすぶ)りが残るのもいつものことだ。今度の台風19号でも、他人の危難に際して何等(なんら)()すところのなかった者であればあるほど、ネット上でぐずぐず政府や行政の落ち度を(あげつら)って()まぬ。

 浮浪者――これも「ホームレス」「浮浪者」等と言うのは差別的な感じがするから、今や「野宿者」等と言うようである――の多い東京都台東区では、非難してきた浮浪者2人の受け入れを(ことわ)ったというので、これが槍玉に挙げられている。

 これがまた、

「人権をなんだと思ってるんだ、浮浪者なんか死んでもいいってのか!?行政のクソが!政府もダメだ!!だから安倍は駄目なんだ、安倍ガー!!」

……というふうな人々と、

「お前ら本当の浮浪者を知らんから平気でそんなこと言えるんだ!!そんなこと言うんだったら半日でも1日でも浮浪者の隣で起居生活飲食してみろ!自分の家に勝手に浮浪者でも難民でも受け入れて助けてやればいいだろ、できるもんだったらやってみろや馬鹿野郎!!」

……というような人々の間で論争になってしまっている。印象的には、今のところ、どうやら後者の方が分が悪いようだ。

 なんだか、ヨーロッパで起こっている難民の受け入れと同種同根の何かすら透けて見えるように思う。

 浮浪者にも命があり、人権、生存権がある。いや、浮浪者のみならず、例えばたまたま来日旅行中で日本に国税を収めているわけではない外国人や難民であろうと、日本国内に位置する人間は、人間である限り、日本国からその誇り高い人権擁護の精神と政府の権威をもって、寛容な庇護が与えられて然るべき筈のものである、と言ってこれは誰しも二致はあるまい。

 台風で死にそうだ、命の危険が迫っている、助けて下さい、と庇護を求めている者には、救いの手が差し伸べられなくてはならぬ。

 だが実際、そんなこと、簡単ではないのだ。区役所に言われても困るというのが、区役所の言い分だろう。

 実際、もし自分がやむなく避難所で起居していて、自分の隣に、イカれた、臭く、疥癬(かいせん)()みで、奇声を発し、寝ころんだまま小便を垂れ、女の体を触り、眼を離した(すき)に他人の財布から紙幣を抜き取るようなトラブル浮浪者なんぞに来られたらたまったもんではない。

 そりゃまあ、浮浪者にもいろんな人がいて、上述のようないろいろ複合したひどい人物ばかりでもなかろうが、正直なところ付き合いかねる人種が多いのも、これは正直なところ、肯定せざるを得ないというのが事実ではあるまいか。

 ところが、世の中、「そういう人でも私は平気であり、受け入れる」という博愛の方も、実際にいるのである。そういう方は、災害の時だけではなく、普段から天与の使命感に燃え、活動家として浮浪者の人権を守るべく、額に汗して一生懸命頑張っているのである。立派である。今回も、そうした立派な人たちが早くから浮浪者の野宿床を見て回り、見捨てられつつある弱い立場の浮浪者を助けようとしたのである。

 古くはイエス・キリストが、薄汚れ、迫害され、弱く、飢えた人々に寄り添い、病気の人の()れ物の(うみ)を洗い清めてやり、「神は(なんじ)に祝福を垂れ給う」と言ったのである。

 (ひるがえ)って、普段そういう篤志(とくし)活動をしているわけでもなく、(いわん)やみんな大好きキリスト教の、教祖(イエス・キリスト)のような高潔無垢の至高者でもない、知らず知らずとは言え資本主義の仕組みに平気で乗っかり、「俺の金は自分で稼いだ俺のもの、誰にも分けてやるもんか」と無意識のうちに緩慢()(わず)かずつ人を殺していっている如き、無関係の有象無象(うぞうむぞう)が、事情も知らずに「台東区役所死ね」みたいなことを言うのは、これは違うと思う。

 だから、台東区役所の言い分のみならず、他の自治体や政府の、浮浪者の人権をどうするのか、そこら辺の見解が出てくるのを待ってみようではないか。事情をよく聞いてみようではないか。

 ともかく、今回の浮浪者二人は、どうやら台風が過ぎ去った後で新聞のインタビューに答えているようではあるから――いや、本当にその本人なのかはなんだか怪しいようだが――命は助かったものと見える。死ななくて本当に良かったと思う。命のある、生きている人間なのだから。彼らには、例え不幸でも、都市の片隅で生きていける自由と権利がある。その程度の冗長性を都市が持っていても、それはそれでいいのではないか。冗長性が(もたら)強靭性(レジリエンス)、というような展開だって、ないとは言えぬ。

(かた)月見

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 うっかりしていて、十三夜が過ぎてしまった。

 天文学上の「望」は今夜だが、月見、なかんづく「(のち)の月」、俗に「栗名月」は去る10月11日の金曜日、旧暦九月十三日であった。

 忘れていた。

 昔の人は仲秋の名月だけを楽しんで後の月を見ないのを「(かた)月見」と言い、縁起が悪いとしたものだそうだ。

 確か金曜日の夜は台風が近づいていて、良い天気とは言えなかったがチラホラ月が見え隠れしていたのではなかったかと思う。だが、接近する巨大台風19号に気を取られ、とてものことに月を見ようかという気はしなかった。

体育の日

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天皇陛下万歳

体育の日 祝日「体育の日」である。自宅の軒先に国旗を掲げ、拝礼する。

 体育の日は、言わずと知れた昭和39年(1964)10月10日の東京オリンピック開催を記念して定められた祝日である。当時畏くも天覧の下開会式が挙行され、戦後20年目の節目とそれに至る復興の道のりへの思いを国民誰しもが噛み締めたのである。

 尚、今日は「最後の体育の日」である。体育の日は来年から「スポーツの日」と名称が変更される。この改正法案は昨年6月に国会で可決成立して公布されており、令和2年(2020)1月1日施行の運びである。

ナメられる

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 自分自身の経験だが、オッサンになると誰も相手になんかしてくれなくなる。ティッシュ配りのネェちゃんニィちゃんも、ティッシュをくれなくなる。つまり時間が解決する、ってこったなァ。

 実際、道も聞かれなくなるよ、ジジィになると。

騒ぎにもしなけりゃ興味も持たない

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 変な芸術展がいまだに騒ぎになっているようだ。

 一見、私には合わない。合わないから興味もないし、見ない。

 取り上げ、騒ぎにし、問題化すればするほどこれは注目を集める。

 だから、相手にもせず、注目もせず、取り上げもせず、平静、平然、無興味、無視、これが最も望ましい態度だと思う。「これをどう思いますか?」と聞かれたら、「知りません。興味もありません。見たこともありません。これからも見ないでしょう。」ということだと思う。

広告出したらアクセス減った

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 このブログ、もともと広告を出していた。Google Adsenseを使っていたが、いつぞやからか、少し仕組みが変わったようなのを放置していて、広告が出なくなってしまっていた。

 先日、改めてGoogleのテキストをよく読み、広告を出し直したのだが、なんだかよくわからないが、出し直した瞬間から日々のアクセスが三分の一くらいになってしまった。

 う~ん……。アッチコッチに広告貼り過ぎたかなあ。

 ちょっと広告入れるところを減らしてみようと思う。

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Black Beard Projects

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 Youtuberには「クラフト系」「古物リストア系」とでも言っていいようなカテゴリが存在し、見飽きない。ファンも多いようだ。

 その中でも、私はこの「Black Beard Projects」という人の動画が好きだ。

 何国人の何者なのか、サッパリわからないが、左の動画では和式の菜切り包丁を生の鋼材から削り出し、凝った柄をつけて切れ味を誇っている。この人のいつもの見せ場で、自分のコ汚ェ腕毛を剃って見せて、そのあとで野菜を削ぎ切りにするのはチトいただけないが……(笑)。

 ああ、私にも、こんなことに一日中没頭できるようなガレージがあればなァ、などと思う。

 いや、実は、よく似たガレージはある。PCと開発環境である。今日び(きょうび)、昔のように高価なIDEとコンパイラ一式を私費購入しなくても、オープンソースだけであらゆるプログラムを作成できる。

 だがしかし、正直なところ、これに倦み飽いてもいる。
 

時事雑片

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薄々、けっこういい加減な国柄だとは思っていたが

 なかなか良い記事。

 そう。恐怖独裁軍事国家、というのとは違うんだよな。冗長で、意外にバカな感じの国なのさ。プーチン氏も処世で生き残っていっているだけで、恐ろしい人物でもないように思う。

手ぶりさえ。これもポリコレ?

 極端国家アメリカじゃ、手ぶりさえも駄目なのだという。

 よくもまあ、次から次へとこんなろくでもないことで血眼になれるよなァ、あそこの国は。……いやまぁ、そりゃ、俺には何の関係もありませんけどね。

痴漢と言うのは本当は馬鹿な男のことを言うが

 男の嫉妬、っちう奴じゃな。

 男の嫉妬。醜いねェ。単純極まる馬鹿である。

 ところで、「痴漢」というのは体を触るなどする性犯罪者のことだが、本当の単語の意味は、「(たわ)(おとこ)」、つまりバカ者のことである。

 嫉妬深い男というのは、「痴漢」と言っていいと思う。

払った税金を自分のお金と思うか、自分の敵にゆすり取られたお金と思うか

 私の嫌いな朝日新聞だが、この記事はいい記事だと思う。

 自分のお金を預ってもらって、自分のために使ってもらっていると思っているか、つまり払った税金を自分のお金だと感じるか。それとも、ゆえなくして敵であるところの権力者にむしり取られ、あるいはゆすり取られて悪用されていると思っているか、つまり自分のお金ではなくなってしまっていると感じるか。この二つのうちどちらかというと、私たちは後者に感じやすいのだろう。

 私などはどちらかというと「預けているだけ」「預けて使い方をアッチに任せているだけ」という感じを持っている。だが、政治や行政への不満を表明して見せることで自分の知性を見せびらかしたいような人は、そういうふうにとらえることは「私はバカです」と自分で言うような感じがして我慢ならないのだろう。一頃の大学生なんか全員マルクス主義に凝り固まった共産主義者だったから、日本のある一定の階層の人たちはおしなべて保守政党をこき下ろしていて、そうしなければ自分の知性が低下し、逆に保守政党をこき下ろせばこき下ろすほど自分の知性が表明されると思っていると見て間違いない。その矛先は時に警察官や市役所や公立学校の先生にも向けられる。曰く「税金泥棒」というわけだ。

 しかし、そういう「知性を自認している連中」も、自分たちのやっていることはいい加減なものだ。こうした人々のほとんどは経済行為に従事していると言ってよいと思うが、その経済行為なんてものは、所詮、「できるだけ価値の低いものをできるだけ価値の高いものであるかのごとく欺瞞して売り、儲ける」という詐欺行為でしかない。詐欺師が泥棒をこき下ろすなんざ、目糞鼻糞どころか、ザーメンとマン汁、略してザー・マンである。いや、これは誉めてるんですよ。ザー・マンにはどことなく愛の背景がありますからね。

 だから知性なんて糞喰らえ、……といつもの方向に持っていってもいいが、まあ、今日はよそう。