読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」を読んでいる。

 収載書の二つ目、「芸術に関する101章 Préliminaires à l’esthétique 」(アラン Alain 著・斎藤正二訳)を読み終わった。

 原題は「美学入門 Préliminaires à l’esthétique 」であるが、訳者(斎藤正二)が原書の著述経緯から、訳書名を「芸術に関する101章」としたものだそうである。

 著者のアランはフランスの哲学者で、日本で言えば明治時代に活躍した。本書は101の掌章からなる芸術論である。一つ一つの章は短いので、肩を凝らせずに読むことができる。内容も正鵠(せいこく)を射る感じがする。翻訳であるから、難しい漢語なども出てこないが、しかし、恐らく書かれた当時の、誰でもが知っている時事などを、「説明するまでもあるまい」と言ったような筆致で織り込み済みにして書いていると思われる文脈があったり、扱っている題材が段落の中で急に変わって飛躍する箇所があったりして、そうしたところは(かい)(じゅう)で、読み(づら)い。

 本書でアランが一貫して説いているのは、芸術における技術(テクニカル)の重要性である。技術もなしに魂だけで何かを目指すというのは不遜だ、というような主張が随所にある。しかし、天才を否定するのではなく、「手を動かす天才」「仕事をする天才」を礼讃している。

 面白いのは、当時出現したばかりで、発展中であった「レコード」や「映画」や「ラジオ」について、決して受け入れようとせず、芸術としては最悪だ、というふうに()き下ろしていることだ。アランは明治元年(1868)の生まれで、円盤型のレコードが実用化されたのは明治20年(1887)、映画が発明されたのは明治27年(1893)、ラジオが登場したのは明治33年(1900)だから、アランの壮年期、レコードも映画もラジオもまだまだ拙劣であったことは仕方がないと思うが、アランはこれを攻撃してやまない。映画なぞボロクソもいいところで、白黒だからいけない、音がないからいけない、それらは永久の欠点だ、と決めつけている。……少し待てば、トーキーもカラーも出て来るのだが……。ただ、(うなず)ける点もある。それは、「レコードも映画もラジオも、俳優や演奏家が観客や聴衆と断絶している。劇場では観客の反応を感じながら演じることができた、拙劣な演技や演奏には、物が投げつけられたり口笛が鳴らされたりした。演じ手はそれによって学習し、より高くなった」という意味のことを説いている点だ。私は、受け取り手の状況など無視して一方的に流し込まれる情報の時代が100年以上も続いたことは、アランの説く通り、人類の悲劇であったと腹の底から思う。そのことを考えるとき、現在のネットを通じた発信者と受信者の双方向のやりとりを、アランは、果たして夢想していたかどうか、興味の尽きないところである。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第12巻「芸術に関する101章」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.114より

しかるに現代は、つまらない発明にあふれ、このことが大衆の趣味を堕落させ、いっぽう、識者に非難の声をあげさせているわけだ。しかし、いつの時代でもこのとおりであった、と私は思う。気違いどもが発明している間に、賢者たちは、せっせと模倣していたのだ。模倣者のうちでも、いちばん生気のある者が、おのれの気質を、おのれの絵筆の癖を、おのれの(のみ)づかいの癖を、おのれの風刺を、おのれのアクセントを、そのなかに盛りこんだのであった。

p.115より

 崇高な筆致(トレ)というものは、つねに、しごく平凡なものである。崇高な曲も同じである。多くの作者は、自力でそれを追求したかのような感をいだかしめる。しかも、ついにそれを発見しえた者は、他人の仕事からなにをえたかについては、けっして、語ることができない。ストラディヴァリウス(ここは、イタリアのクレモーナの楽器製造人アントニオ・ストラディヴァリウスをさしている。一六四四―一七三七年)は、新しいヴァイオリンの形を発明したのではない。ゴチックの大伽藍は、誰の発明によるものでもない。

p.115より

模倣し、模倣しぬくべきなのである。そして、模倣しながら発明すべきなのである。模倣することによって飛躍をうる芸術上の独創の秘密は、じつは、ここに隠されているのだ。それは、音楽家が、巨匠の書いた曲を弾くことによって、みずからの飛躍をうるのと、ちょうど同じである。

p.136より

ミケランジェロの彫った首一つを見ただけでも、もっとも驚嘆すべき独創というものが、きわめてありふれた事物に近いことを、悟らされるだろう。それは、まったく、凡庸と紙一重である。だが、才能のない職人と比べてみるならば、その差異は、はっきりしているのだ。

p.137より

今日の芸術家たちが、目先の新しいものとか、前人未到のものとかを、躍起になって追い求めているさまを見ると、私は、ふきだしたくなるのである。

p.142より

 『第九交響曲』のいおうとすることを、一ページか二ページの散文でわからせることができると仮定したならば、もはや、『第九交響曲』は存在しないであろう。音楽が風の音や雨の音を模写するとき、その音楽は、時間を浪費しているのだ。音楽が悲劇的情熱を叙述するとき、その音楽は、時間を浪費しているのだ。一言でいえば、ある芸術作品が芸術作品たりうるのは、それが、おのれ自身しか表現していない場合である。すなわち、それの表現しているものが、他のどんな言語にも移しかえられないという場合である。

p.184より

教養とは、最良のモデルを前にしての、絶えざる物真似であり、絶えざるサル真似である。

p.184より

ひとを説得する技術は、けっして、聴く者の意見を変えることにあるのではなくて、かえって、これに、理性らしい外観をじょうずに与えることにある。

p.190より

宮廷人であったゲーテは、お化け(オンブル)をばかにしたが、そのことによって、ゲーテ自身もまた、お化けであった。しかし、ゲーテは「永遠なもの」をも見た。「あらゆる人間は、その立場において、永遠である」と、彼はいった。芸術とは、物事をけっしてばかにしない、こうした記憶をいうのである。ファウストは、それ自身によって、永遠に存在する。

p.208より

だから、名将軍である以前に、まず、将軍であらねばならないのである。つまり、実際の敵軍を前にして、実際の軍隊を指揮しなければならないのである。

p.220より

 懐疑論者のなかでも、おそらくいちばんの変り者であるヒューム(デーヴィド・ヒューム。科学を信ぜず、ひたすら経験と観察とによって普遍的原理を探求しようとしたため、懐疑的実証主義と呼ばれる。1711-76年)は、直線が円と接することは不可能だということを、おもしろがって唱えたものである。――なんとなれば、この二つの線に共通な点が一つなければならない。ところで、円上のもっとも小さな点も、つねに円に属している。すなわち、曲がっているはずである。また、直線状のもっとも小さな点も、つねに直線である。ゆえに、この二つのものは、合致することができない。そう、ヒュームはいった。

 上記のことは、無論、「接線とは何か」を考え抜くことによって微分法に到達したライプニッツと、「速度とは何か」を考え抜くことによって微分法に到達したニュートンによって、同時に整理されてしまっている。本書中でも、上の引用の直後の部分に「ライプニッツはそれをはるかに超越した次元からこの()(ろん)の風景を眺めていた」という意味のことが述べられている。

P.246より

 私はミケランジェロの手紙を読んだ。あなたがたにも、一読をおすすめしたい。まるで、石工の仕事場にはいったような気がするだろう。このどえらい男が、一度も、美ということを念頭におかなかったのは、明らかである。彼は、一つの作品を手がけたかと思うと、すぐに、べつの作品へと移っていった。彼の心労の種子(たね)はといえば、大理石をどうやって手に入れるか、石切り職人や船頭や車引きに支払う金をどうやって手に入れるか、ということであった。彼は「すばらしい霊感がやってきてほしい」などとは、絶対にいわない。そのかわり、彼は「材料と時間とがほしい。新しい教皇が、前任者の計画を続けてくれればよいが、と思う」というのだ。長期にわたる、困難な仕事のことだけが問題なのであって、完璧な美しさに仕上げたいとか、感情を表現したいとかいったことは、どこにも書いていないのである。その語調は、あくせくと心を労し、気むずかしい主人を持ちつつ、稼業に精だして働く、辛抱強い男のそれである。自意識というものもなく、名声を欲する考えもない。私には、これほど、自分自身に対して身を潜めた、滅私の芸術家がいた、とは思われない。このような男にあっては天賦ということも、仕事がうまいという以外のものでは、絶対にありえなかったし、趣味の悪さということも腕の悪さにしかみえなかったのだ、とまでいいきることが必要であろう。バッハも、同じように、だめな音楽家のことを、「あいつは、自分の稼業に通じておらん」といったかもしれない。こうした見識は、天才に特有のものである。

p.298より

「指揮をとってる最中には、人間(オム)などという名詞は、どこかへ吹っ飛んでしまう、などといったひとは、かつていたためしがありませんでした。ところが、僕の中隊長は、僕にそういったのです。僕は、彼の部下の一人でした。僕は、一人の人間にすぎなかった。人間か! という言葉。人間以上に侮蔑されたものが、他にあったでしょうか。人間以上に()(とう)され、忘れられ、やすやすと消費されるものが、他にあったでしょうか。しかし、人間(オム)という言葉は、響きがいい。それは、すべての位階の上にある位階です。僕は、人間の名にふさわしい値うちをもっているでしょうか。いずれにしても、僕は、人間であることを選んだのです。」

p.303より

こうして、定型詩がもっとも美しいということ。定型詩のうちでも、韻が美しくさえあるならば、韻を踏んだ定型詩こそが、もっとも美しいということ。そのことを、私は理解するのである。

 日本の定型詩である歌や句が美しいということに通ずるものがあり、むしろ逆に古風だな、とも感じた。

言葉

 普通に訓読すれば「かて」であるが、本書中で一箇所、「やしない」とルビを振って()ませているところがある。手持ちの大修館諸橋新漢和にもその訓みはない。

 しかし、「やしない」とはゆかしい言葉であって、違和感もなく、意味も字義も通っているように思う。

下線太字は佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.215より

あらゆる武器に装飾がほどこされてあるということは、驚くべきことだ。このことは、おそらく、戦争に関するわれわれの思想が、やはり(やしない)を求めているということを、りっぱに(あか)しだてている。

かなつんぼ

 恥ずかしながら、この言葉を全く知らなかった。「ひどい聾」で、まったく聴こえないことをこう言うそうな。

p.296より

あまりにみごとすぎる言いかただね。それでは、世界(モンド)は、人間のうちにあるあの非人間的な部分、機械のように話したり行動したりする部分ということになってしまう。そして、その部分は、物体がそうであるように、人間に対してはかなつんぼだということになる。

 次は三つ目、「ロダンの言葉」(A.ロダン François-Auguste-René Rodin、高村光太郎訳、今泉篤男編)である。

 オーギュスト・ロダンは言わずと知れた彫刻の巨匠である。日本にも作品はあり、上野の西洋美術館前にある同鋳の「地獄の門」や「考える人」、「カレーの市民」を知らぬ人はあるまい。

今週のさえずり季題

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都市ガスにする

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 自宅の熱源を、プロパンガスから都市ガスに替えた。今日が工事終了日で、自宅前の道路の掘削が先週12月2日(水)、宅内の工事が今日9日(水)まる1日、実質合計2日で終わった。

 もともと、自宅新築時にプロパンガスを選択した理由は、災害時などに自宅内のみでガス管路が完結でき、抗堪性が高いのではないか、と思ったことが大きい。都市ガスの場合、地震その他で配管路が自宅外のどこかで破断すれば、補修が終わるまで熱が使えない、その点プロパンなら自宅内のみのことで済む、と当時は考えたのである。他に、判断要素として値段のことも当然あった。都市ガスは電気や水道と同じ「公共料金」として国がコントロールしており、値段が安定している。プロパンガスはそうではなく、扱い会社の裁量で値段が決まっており、値段は不安定で、高いとも安いとも言えない。だが、当時は都市ガスの配管が自宅近傍まで来ておらず、見積もってもらうと数十万にのぼる掘削工事の費用も負担しなければならないことも(わか)り、その償却にどれくらいの年月がかかるかなども計算した。そうしたことどもを交々(こもごも)判断の末、プロパンガスを選んだのである。

 ところが、20年近くもプロパンガスを使ってくる間、腹の立つことが非常に多かった。当初、地元の「フジオックス株式会社」というところに頼んでいたのだが、ある時家内がよそのお宅の光熱費などを聴き込んできたところ、私の家だけが異様に支払いが高価なのである。そこで、プロパンだったら他のガス屋さんだって選べるんだから、ということで、地元の別の会社、「堀川産業株式会社」というところで見積りを頼んでみた。そうしたら、フジオックスに比べて非常に安くなると言うではないか。

 ちょっと文句ぐらい言ってみようか、とフジオックスに相談してみたら、慌てたような様子で二人組の社員さんが来て、「値下げしますから止めないでください」と言う。

 値下げします、って、それだったら今まで値下げできるだけの値段を毎月毎月ずーっと払わせてきたんかいーッ、と逆に腹が立った。そこで、断固堀川産業に替えた。

 ところが、初めは安いな、と思っていたのだが、ある時ふと気が付くと、それほど使い方が変わっているわけでもないのに、なんだか高い。どうなってるんだろうと思って月々の伝票をめくり直してみたら、「単価」がまったく書かれていない。ガスの使用体積と請求料金だけが書かれている。

 おかしいじゃないかと言うことで、堀川産業に問い合わせてみたら、これがまた、玄関先におっさんの二人もやってきて、課長を名乗る男が「すんませんすんません。佐藤さん宅の場合、もう、宅内設備の支払いも終わってますから、お安くさせていただきますんで、これからも引き続きよろしくお願いします」などとまくしたて、実際、次の月から多少安くなった。

 なんというか、文句を言ったら安くなる、文句を言わずにおとなしくしていたらずーっと高い、しかも相変わらず伝票に単価の記載がない。ガスが安くなったのか高くなったのかもわからず、月々の支払いの内訳も不明である。しかも、宅内設備の買い取り終了後、その支払いが終わっていることもずっと私には黙ったまま、その分の料金を上乗せし続けていたわけである。

 どうも気に入らない。もっと透明な会社に替えてやる、と思い、これまた地元の「東彩ガス」というところに打診して見た。勿論二つ返事、「ハイ、承ります」という。ところが、

「ところで佐藤様、現在の御契約先は?」

「あ、堀川産業さんと言うところなのですが」

「は、……堀川産業さんですか!? ……申し訳ありません、堀川産業さんからのお乗り換えは、弊社ではちょっと承りかねますので……」

「えっ、できないって、なんでですか?」

「はい、そのう、ちょっとお受けいたしかねますのでして……」

 プロパンガス屋はヤクザ(まが)いだ、と聞いたことはあるが、なにやらエンドユーザに説明できない複雑な縄張りの取り決めがあるようなのである。

 そんなやり取りがあってからも、毎月の伝票を見ていると、ちょっとずつ、微妙~に、値段が上がっていく。腹が立つから会社を変えてしまいたいが、何か変な縄張りのために、それが自由にできないのだ。

 鬱勃と不満を(わだかま)らせていたところ、去る10月頃のある日、「御免下さい、東彩ガスと申します」と、玄関先に営業のお姉さんが来た。

「近所で都市ガスの工事をいたしますのであらかじめ御挨拶に参りました。多少騒音などがいたしますが、どうか悪しからずご容赦下さい」と、工事のお断りである。

「ああ、はいはい、工事ですね、どうぞどうぞ……。ところでお姉さん、あなたは都市ガスの営業はせんのですか」

「いえ、営業もいたしておりますよ、何か御用命でしょうか」

「それがね、ウチは堀川産業さんってところに頼んでるんですけどね、なんちゅうか、気分が悪いというか、腹の立つことが多いんですよね。ちょっとづつ値上げしたり、単価が伝票に書いてなかったり。……しかし、なんですね、東彩ガスさんは堀川さんからの乗り換えはお断りなんでしょ?」

「あ、いえ、ウチはプロパンも扱っておりますが、『堀川さんからウチのプロパンへの乗り換え』は承りかねるんですが、そうでなくて、『ウチの都市ガスへの乗り換え』は大丈夫、お引き受けできますよ」

 なんでそんなことになるのか、なんだかよくわからないが、プロパンガス会社の係長か主任風情の胸先三寸で値段が如何(いか)(よう)にも上げ下げできてしまうプロパンガスなど、もう()()りである。一意決心、都市ガスに乗り換えることにした。

 合わせて、リビングにガスコンセントを取り付けてもらうことにした。暖房をガスファンヒーターに替えるためである。

 これまで石油ファンヒーターを使っていたのだが、ファンヒーターの灯油が切れるとポンプで補給しなければならないし、これが朝の忙しい時に限って灯油切れ、ぞんざいに補給すると灯油をこぼして拭き掃除、ところが、こぼしたところの床のワックスは剥げるわ、臭いは残るわ、油ッ気はいつまでも抜けないわ。それにポリタンクに買い置きの灯油が無くなったらガソリンスタンドへ買いに行くか行商の燃料屋さんを呼び止めるかしなければならない。自動車の荷物室にポリタンクを積み込み、倒れたりしないように縛り付けるのもなかなかコツがいって面倒だし、さりとて行商の燃料屋さんはいつくるかわからない。これらのことが実にストレスである。さりとて、上のような面倒を幾分でも少なくしようとして宅内に大量に灯油を蓄えておくなどしては、災害時、殊に火災時に危険極まる。

 その点、ガスファンヒーターであれば、補充の必要もなく、エアコンの電気代に比べると相当安い。東日本大震災前は電気代が安かったのでエアコンで暖房していたが、今の電気代は当時のように安くない。

 私宅はツーバイフォーの戸建てなので、壁内への配管が難しく、工事の見積をしてもらうと壁外に配管が回りそうだったのだが、いざ工事に着手してみると、工事人のお兄さんは実に上手に台所の対面カウンターの壁内に配管を廻し、外からは全く見えないように、カウンターの電気コンセントの近くの具合のよい場所にガスコンセントをつけてくれた。

 ガステーブルや給湯器の部品交換もなんなく終わった。宅内の工事は今日一日で全部終わった。堀川産業との調整などは、東彩ガスが全部引き受けて済ませておいてくれた。

 都市ガスはカロリーが多少高いようで、ガステーブルの火力もなんだか少し強くなったように思える。ガスファンヒーターも実に暖かく、快適だ。

 掘削工事を含む工事費が気になったが、ガスファンヒーターやガスコンセント、ガスコードなどの代金諸々(もろもろ)も全部含めて、10万円ちょうど程度で済んだ。自宅新築時の見積では、近傍までの配管がなかったため数十万はかかる筈だったのだが、あれから20年足らずの間に近所のあちこちに配管が通り、そのためちょっと掘るだけでよく、安く済んだようだ。

 また、災害時、就中(なかんづく)地震の時のガス管路破断等の心配については、昔の硬性の金属ガス管とは違い、今は随所に強度が高くて(しな)かな樹脂管や()(とう)管が使われており、地震程度のことで破断したりガス漏れを起こすようなことはまずなく、災害時の顧慮もほぼ不要であるそうな。

読書

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 今日は最近には珍しく、漫画である。

 通勤電車の優先席窓のステッカー広告に、左の「能面女子の花子さん」というのが出ていて、(かね)て「なんじゃこりゃ」と興味を()かれていた。

 昨日Amazonの広告に出てきたので、「試し読み」機能で冒頭を少し読んで見たら意外に面白い。Amazonのポイントも溜まっていて、それを使えば買っても0円だったので、購入して既刊の6巻を全部読んだ。

 面白かった。

 主人公の能面女子こと泉花子は、家の伝統の事情で一日中能面を(かぶ)ったままという謎の女子高生である。しかし、成績優秀で優しく明るく器用で(しと)やか、顔は能面のために謎だが体はEカップの巨乳ナイスバディ、能面のために多くの人から敬遠されてはいるものの、一部の仲の良い友達にはとても愛されているという娘である。

 学園ラブコメディと言えるが、物語はどれもホンワリとしたあたたかいもので、読んで疲れない。

 連載そのものは4年も前から行われていて、それで単行本がやっと6巻ということだから、恐らく月刊誌連載なのであろう、と想像をつけたが、果たしてスタート時の掲載誌の「ITAN」(講談社)は隔月刊で、しかも一昨年既に休刊となっているようだ。今は同社の「BE-LOVE」誌とWeb連載「コミックDAYS」のみになっているそうである。

動画漫覧

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玉川勝太郎の石松金毘羅代参

 珍しい、三代目玉川勝太郎の石松金毘羅代参~石松三十国船道中。

 在りし日の勝太郎が木馬亭でかけた演目だ。

 これはこれで面白いが、やはり虎造節を聴きなれた者には、少々物足りないところもある。

本職料理人系

 本職の料理人が料理をする動画をよく見る。面白いし、見ていて腹が減る。

 Nara hirokazu 氏という本職の料理人が魚を(さば)いて刺身にしては、いい酒で一杯やる、という動画シリーズがある。

 これはグレを捌く動画だが、皮の湯引きと細造りで呑むところなんか、思わず生唾が湧いてしまう。

今週のさえずり季題

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