ダラダラ呑み元日

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 田作(ごまめ)、数の子なんぞを相手にダラダラ呑む元日である。

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 冗談で「他人の宝くじが当たった」(笑)というフザけたエントリを書いたら、なんだか妙にアクセス数が増えている。なんだろ、と思ったら、どうやらチト名の知れたニコ生主が「宝くじ当たったツイート」をしたらしく、それが話題になっていて、私のブログのアクセス増加は、どういうわけかその「おこぼれアクセス」が増えているようなのである。

そのツイート

 一方、ニコ生主氏の宝くじ当たった騒動は、後から画像加工疑惑なども出てきて、真相はナゾである。

 いや、翻って私の場合、嘘は1ミリもついちゃアいないですよ。でも、自分の宝くじなんか当たってないんだよね。だって、主語もなしに「宝くじが当たったーッ!」って言っただけで、誰も「俺の宝くじが当たったーッ!」なんて、ただの一言も言ってないわけだからさ。ま、有り体(ありてい)に言って、嘘じゃないけど紛らわしい、というヤツですかね。要するにシャレ。

 夕方になったら妻方の親類と姑の家へ集まる予定である。

た、たっ、宝くじが当たった~ッ!

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 た、たっ、たっ、たた、宝くじが当たった~ッ!!

宝くじ2016

 ただ、この宝くじ、俺が買うはずだったけど、残念ながら買わなかったんだよな。俺には当たらなかった。本来俺のものだが、買った誰かに当たった。惜しかった。

去年今年(こぞことし)

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をさな子の()(かね)(かす)去年今年(こぞことし)   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha (季語は「去年今年(こぞことし)」、新年)

平成二十八年最初の痛恨は

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 この年明けの痛恨は次のことに尽きる。

 (すなわ)ち、いつも通り紅白を見て、「ゆく年くる年」を見て明けようと思っていた。

 だが、つい「ガキ使(つか)を見てしまい、出川と上島が尻に空気を注入して腕相撲をし、屁をこいた方が負けという狂気のような映像で爆笑しつつ年を明けてしまったことである。

 ともかく、近所の古刹「報土院」の撞鐘(かねつき)を拝んで、年越しとする。

年末だから

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 WordPressのテーマ集を眺めていたら、「Twenty Sixteen」というやつが出ていた。

 年末年始なので、というわけで、テーマをこれに替えて、デザインを一新。しかし、このテーマ、タグ・クラウドの形が気に入らんな……まあ、エエか。

台所を覗くと

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 もうすぐ姑が来る。最近の年末は、たいてい姑と一緒に紅白なんか見ながら「蟹ちり」を食うことにしているのだ。

 台所を覗くと、田作(ごまめ)に、数の子、紅白(なます)、妻がいろいろと奮闘中である。

The decoration meat bun

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 朝起きて、顔を洗って着替え、いつものようにリビングのカウンターに向かうと、妻が朝食を出してくれる。

 いつもはジュース、トースト、目玉焼き、コーヒー、牛乳など、だいたいそんなものだが、たまにはホットサンド、シリアル、ホットケーキなども出る。

 今日も欠伸(あくび)をしながらおはようと言ってスツールに腰をかける。妻は「今日はコレよ」と、「肉饅(にくまん)」を出してきた。前にも一度か二度はこんな朝食もあったが、珍しいことだ。

「いただきまーす!」
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 しかし、今日の肉饅は通常の肉饅ではなかった。肉饅の底面の平らな面が上になっており、普通はそこに丸い経木(きょうぎ)か紙が貼り付いているものだが、それがきれいにはがされていて、なめらかな白い肌になっている。その平らな面が白い生クリームで縁取られ、ショートケーキのようにデコレーションしてあって、赤や黄色のアラザンが振りかけてあり、真ん中辺に薄手のチョコレート片があしらってある。少しばかり金箔が飾られていて、なにやら美しいが、土台は温かな肉饅なのが変だ。

「ふへっ!?……ジュンコ、こ、これは……?」

「……?何、お父さん、これ、知らないの?最近『めざましTV』でやってて、すごく流行(はや)ってるのよ。」

「ははあ、流行りか。流行りならしょうがない。どれ……」

 てっきり、これはこういうお菓子風に作るための専用の肉饅で、中身は悪くしてもせいぜい餡饅(あんまん)だろう、と思ってかぶりついてみたのだが、

「ぐはっ!……かーちゃん、コレは、肉饅ではないか」

「……??肉饅ではないか、って、当たり前じゃない。そうよ。おかしい?」

「い、いや、……。おかしい、っていうか、うーん」

「お醤油つけるのよ、ほら。あと、練り辛子」

「ぬぅ」

 生クリームと醤油と中華オイスターソースの風味がよく利いたひき肉や(タケノコ)の具と練り辛子とチョコレートの珍奇きわまる味のハーモニーである。受け入れがたい。

 だがしかし、「これは流行っているんだ、人々が皆いいと言っているんだ、新聞だってテレビだって、有名な芸能人や評論家がこれはイイと言っているんだ、朝日の社説だって天声人語だってこれをきっと評価するのは間違いない、間違っていないんだ!!だから旨いものなのだ!飲み込め!受け入れろ!」と、無理やり賞味しているところで目が覚めた。

 ああ、中途半端に面白くもない夢だったなあ。

 平成二十七年大晦日、最後の夢が、デコレーション肉饅だったのは、なんの祟りであろうか。業の浅いこっちゃ(笑)。

 せめて明後日、初夢にはもう少し何か、富士とか鷹とか茄子とか、そういう夢を見たいものである。

クリスマス(聖誕節)に聖書繰らなかったな

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 私はキリスト教が嫌いだが、クリスマス(聖誕節)に聖書を読むということを毎年やる。

 恰好(カッコ)を付けているわけではない。嫌いなものでも、それをよく理解するということが必要だと思うからだ。生理が遠ざけよう遠ざけようとするものをムリヤリ読もうというのだから、自分なりに工夫がいる。

 こういう読書には、読む気になるような、読書の楽しみが得られるような、ちょっと持って回った工夫が必要だ。世間も私も心の浮つくクリスマスにそれをやる、というのも私の工夫の一つだ。

 また、次のような、ベースとなる工夫もある。私が若い頃から持っている聖書は日本聖書協会の「新旧約聖書 引照附」(ISBN-13: 978-4820210078)、この一点のみである。

 読んで面白いと思える聖書はこれだけだ。その特徴は「文語訳であること」、一点これあるのみである。キリスト教の、不自由でキッツい感じ、神との契約に責め立てられるキビしいマゾ感、高圧的で頭ごなしに怒鳴りつけてくるようなムリヤリ感、チョッピリ嘘をついただけで「お前は死刑」と言われるデジタル感、幅のなさ、狭量な感じ、これは、文語体で読まなければ官能あるいは肉の痛みとして脳裏に味わうことができないと思うのである。

 で、例年はクリスマスの夜更けに興味の湧いた個所を繰り返し読むということをするのだが、どうしたわけか、忙しかったことも有之(これあり)、今年はこれをしなかった。

 回教徒に心を寄せると同時に、キリスト教徒にもやはり心を寄せ、これを理解するようつとめなければならぬ。私はキリスト教が嫌いだが、嫌いなものも嫌わないようにしないといけない。受け付けぬものも飲み込まなければ立派な人にはなれぬ。子供が無理やりピーマンやニンジンやセロリを食うようなものであろうか。キリスト教に栄養価があるとは思えないが、それでも、それを飲み干さねばならぬ。

 精神衛生には悪いが、内容をよく把握し、研究することである。しかるをもって、毎年毎年、この苦行、とはいえ、表裏一体としての読書の楽しみを続けている。