私が最も嫌い、蔑むものは

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 私が最も嫌い、蔑むものは、フリーターだプータローだなどと称して、勤労をせぬ輩である。
 いかにも脳の足りなさそうな輩がやれモラトリアムだやれ自分探しだなどと聞いた風なことをぬかして、何もせずすましているのも大嫌いである。こうした輩は、ナリはいっぱしの大人のように見えるが、頭の中は子供以下である。
 働け。勤労せよ。己を虚しゅうして務めよ。モラトリアムなどと称して意味のない捨て時間を過ごすより、勤労は多くのものを汝からとり、それを汝以外の者に与えるであろう。家族に与えるところ大なるものがある男は、社会にも与えるところ大である。

ハゲと虐待

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 「ハゲた人のハゲの隠し方を笑ってはならぬ。『時間の経過』というものに思いを致すべきである。あの珍妙なるバーコードは時間の経過によって作られていったものなのである。その人の年齢のことを言っているのではない。バーコードやトグロ頭は今日少し、明日少し、と、少しづつ少しづつ隠して行っているうちにあのようになったものなのだ。おそらく、はじめは分け目の幅が少し広くなった程度でもあったろう。そこに少し、分け目をずらして頭髪をかぶせたものかも知れぬ。誰が『よし、明日から俺はバーコード頭にしよう』と、あんなヘンな頭を目標にするものか。」

 ・・・という意味の論をどこかで読んだ。誰か有名な人の書いたものであったと思う。

 一方、ここに、児童の虐待に気づいてすぐさまその処置を取る教員が大変少ない、という新聞記事がある。

 家庭における児童・幼児の虐待が果たして教師の与るところか否かということはさておく。問題は時間、である。昨日までツルっとしてピカッとしていた健康な小児が、今日突然ギプスをはめて頭に包帯を巻き松葉杖で登校して来て、それを見て驚いた教師が「いったいどうした、何があった!?」と聞くや「・・・お父さんに殴られました」とボソッと答えれば、そりゃ誰だってしかるべき公的機関なり警察なりに通報し、児童を保護するに決まっている。これだけ世間がやいやい言っていることでもある。

 しかし事態は単純ではない。そこには時間の経過がある。

 ある日、子供は、腕か肩か、体のどこかに小さな青あざか、タンコブのひとつもこしらえてくるのかも知れない。人あって「そのコブはどうしたの?」と聞いたとして、「ご飯をこぼしてお父さんに叩かれました」と子供が答えたとして、さて誰がこれを不自然な虐待などと思うものか。今日のあざは明日のやけど、明日のやけどは来年の骨折、と、次第次第に事態は進むのだ、一足飛びにではなく。

 子供を育てる親として、時間に弄ばれぬ精神力を持したい。そうした精神力は、実に住環境によって保たれうるところが大きいと信ずる。

答えてはいけない

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 答えてはいけない問い、応えてはいけない期待、というものが世の中にはある。

南向き

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 いわく、南東の角地。
 住宅を得る際、これほどよく言われることもあるまい。南向きこそ王道。朝日こそが希望の明日、東はあがむべきものナリ!!
 で、だ。
 私の家は真北向きである。
 で、私はどう思っているかというと・・・

北向きは大正解だった!!

 と思っているのだった。
 実のところ、土地を購入する際、それほど正解だとは思っていなかった。「俺だって、金さえあれば、カネさえ、金さえあれば、南東の角地ぐらい買ったわい!!」と思いさえもした。しかし、ヤミクモに南向きを求めることは愚かでさえあることを家を建ててから知った。
 なぜか。
 玄関ってのは、玄関そのものがある。玄関というものは、意外と日当たりよく作ることができないのだ。ガラスを多くすれば防犯上の顧慮が生じるからである。そんな玄関がデンと家の正面のかなりの部分を占領するがために、南向きの家は家の南側を存分に日に当てることはできなくなるのである。
 一方、私の家。北向きであるということは、反対側はとりもなおさず、全面南向きである、ということだ。私の家のリビングは、家の裏側のほぼすべての面を使って作ってある。全面南向き。 これはすばらしいことだ。
 庭は家の裏にあるが、さんさんと日が降り注ぐ気分のよい庭である。バルコニーはリビングに接する窓にあるが、すべて南向きであり、洗濯物が実によく乾く。
 はじめは情けなくさえ思った北向き。だが、今は北向きバンザイ!!とすら思うほどである。
 無論、建築家N氏が北向きの特長を生かした設計を行ってくれたことが大きいことは言うまでもない。

煙草の記事で

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 煙草の記事でトラックバックをつけさせていただいたところ、丁重にコメントを頂いた。
  ↓
“おばさん” さんから頂いたコメント
 禁煙が振り出しに戻ったと言っていらっしゃる。でも、大丈夫だそうですよ。振り出しに戻ったときに「あ~ぁ、振り出しだ。もうむだだな、やーめたっ!」と、思わないことが禁煙の秘訣です。・・・と、保険屋さんの禁煙にかんするチラシに書いてありました。

煙草

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 家を建てる前頃、煙草をやめた。先おととしのことだ。

 約15年間喫った。やめる直前には一日に100本──喫煙に寛容な職場でもあったため──もの煙草を灰にしていた。

 本当に、いい時にやめたと思う。私が煙草をやめたあたりから、喫煙に寛容であった職場の方針が変わり、喫煙者に厳しくなった。しかし、私が煙草をやめたのはそれが理由ではない。単に小遣いが欲しかっただけだ。当時は本代にも事欠いていた。

 なんとかやめることができた。私の主人は私なのだ。

 やめてから、非常に自由になった。禁煙の場所など、つらくもなんともなくなった。また、最初から煙草をやらない人とは違って、そばでプカプカやられたところで別に屁でもない。昨日おとといまで一日に100本も喫っていたわけなんであるから、「もっとどんどん喫ってくれ」とでも言いたいほどである。喫煙場所・禁煙場所、そのどちらもが私にとって非常に自由な場所に変わった。

 煙草を喫っている間、小遣いに不自由していたが──そりゃそうだ、一日に5箱も空にしていたのだ。月に直せば3万円以上。月々、万札3枚に火をつけて灰にしていたわけだ──小遣いに余裕ができた。

 私は体のために煙草をやめたのではない。小遣いが欲しいという不純な理由である。

 やめて2年ほどの間、煙草を喫う夢をよく見た。リアルそのものだった。夢の中の煙草は、これまでに味わったこともないほど旨い。「ああ、なんてウマい煙草だ」と思うと同時に「これでせっかくの禁煙もオジャンだな」と自嘲気味の後悔が苦く胸をつき、それがまた逆に、夢の中の煙草を旨いものにする。目を覚ませば禁煙が破られておらず、ほっとする。

 最近はそんな旨い煙草の夢も見ることがなくなった。

 私の中では煙草は、青春の日々から自分の子供が生まれて育つまでにいたる日々を彩った、なつかしくさえあるたしなみごとになった。また煙草を喫うかもしれない、という不安も、今は既に去った。おそらく生涯煙草を喫うことはないんだろう。

 ……そう思うとすこし残念ですらある。今、私の小物入れの中に、ダビドフの細巻きとローランドのブライヤーパイプとシンクレアのネイビーカットと、JTの「小粋」という刻みの銘柄と、キャメルの両切りがひっそりと眠っている。なぜか、一日に100本も喫っていたキャビンマイルドはその中にはない。

禁煙をしていらっしゃる方のブログ(有名)
やさしい一日

価値のない質問

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 ここに、仕事は身過ぎ世過ぎの業か、社会と人とがかかわっていく上での理想を追求するための業か、どちらか、という問いがある。
 以前はこうした問いを真剣に考え、答えを出そうとした。
 しかし、最近は違う。
 こうした問いを作る者に不快を覚えるようになった。すなわち、これは答える価値のない問いである。
 無理に迫られれば、「どちらでもなく、かつ両方である」と答えることになる。問答は次のように続く。
「あえてどちらかを選べ」
「両方なのでどちらも選べない」
「それは両方等分、50%ということか?」
「否。どちらも選べず、どちらでもなく、かつ両方であるので、何割づつということはできない。この問いは、『自動車と黄色はどちらが正義か?』というわけのわからない問いと同じである。性質の違うものをどちらか選べと言うような問いに答えることはできない。」
 一体、こういう馬鹿げた質問を考えるのはどこの誰であろうと今は思う。
 これが何か、試験のようなものに対する答えである場合もある。言おう、そのようなアホな質問に答えなければならないような試験であれば、落ちたほうがマシである。

住宅ローンの足しに

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 ひとつ、住宅ローンの足しにでもしてやろうと、資格を取った。




 情報処理技術の開発者側の試験としては、一番簡単なヤツである。一番簡単とはいうものの、メシのタネにまではならずとも、一応メシの足しにはなる。この資格に手当てをつけてくれる企業も多い。
 この試験の受験者の平均年齢は24歳であるそうな。ワタシは今37歳。なんだか、試験場では気恥ずかしくもあった。が、居並ぶ若造どもの自己実現意欲なんぞ、「払うぞ住宅ローン!!」という、自己実現とは異質なモチベーションで燃え上がっているワタシの気迫の比ではないのであった。で、スンナリ合格。
 今をときめく「年金未納3兄弟」の一人、中川経済産業大臣の認証であるのはご愛嬌。ちょっとイヤだけど(笑)。

遂に金利ゼロも可能とかいう

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 遂に金利ゼロも可能とか言う、突拍子もないローンが出てますねぇ。
  ↓
東京スター銀行・預金連動型住宅ローン
 ・・・そもそも、この東京スター銀行なる銀行、名前も聞いたことないんですけどね、私は。

一度、借家ででも一戸建てに住んで見ると良い。

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 私は、自分の家を建てて本当に良かったと思っている。途中いろんなことを思ったにせよ・・・。
 で、たまたまのことなんであるが、私は持ち家を建てる前、一戸建ての借家に住んでいた。
 今改めて思い返すと、このことは非常に良かった。最初からそれが目的ではなかったのではあるが、一戸建てで暮らしてみることで、住宅に関するいろんな希望や自分のイメージを育てることが出来ていたのだ。
 細かな話だが、例えば今、我が家の収納は我が家族に実にピッタリで、どこも不足なく、かつ多すぎもせず、なおかつ、将来にわたって不足することはなさそうなくらいの余裕がある。収納というものは、多すぎればいいというものでもなく、「こんなに空き戸棚ばっかりあるんなら、部屋をもうすこし広げればよかった、ソファーの一つも置けたのに・・・」なんてことにもなるから、多すぎず、かつ不足はまったくなく、かつ余裕がある、という、一見矛盾しそうな要件を満たしているのが理想なのだ。
 なぜこんなに丁度良く作ることが出来たのか。一戸建ての借家に住んでいた頃、子供たちも生まれ、自分のさまざまな持ち物の量もある程度落ちついてきており、将来の持ち物の量も想像がつくようになっていた。マイホームを取得するに当たり、私は--お読みの方には『そんなメンドウなこと本当にやったの!?』と思われるかもしれないが--自分の現在の持ち物の容積を、余すところなくすべて測定したのだ。これは想像するよりも大変だった。巻尺を片手に収納の大きさやダンボール箱・戸棚・タンス・衣装箱、はてはアイロンやパソコンのプリンター、トースターの大きさまで測りまわり、やり始めてしまってからあまりの手数の多さに天を仰ぎ、それでも諦めずにすべて計ったら2日もかかって、腰が痛くなって困った。
 しかし、その実測した数字から将来にわたって必要な収納容積を具体的に推定することができた。その容積を設計時に建築家に具体的に示すことができ、結果、きちんとおさまりの良い収納を得る事ができたのだ。これは、一人一人、家族家族によって数字は違うことであろうから、すべて自分で測定・推定してみることをお勧めする。そこらへんの経緯は、「佐藤の自宅建築誌・計画編 二つ目の提案」ではかなりサラリと述べてあり、細かくは書いていない。
 これがもし、私が当時賃貸マンションやアパートに住んでおれば、少々事情が違ったろう。私はその借家に住まう前は賃貸アパートやマンションに住んでいたからわかる。収納の少なさがゆえに、無意識に自分の持ち物が増えるのをセーブしてしまうのだ。多くの方から聞くことがある不満が収納についてであるのは、おそらくこうした事情によるのであろう。
 収納一つとってもこうなのである。寝起き、階段、洗面所、フロ、料理、買い物、ご近所や町内会のお付き合い、自治会役員の忙しさ、庭の手入れ、こういったすべてのことについて自分に合うものや自分が知らなかった自分の好みを、一戸建ての借家で数年暮らすことで把握できたのは僥倖という他はない。
 これから建てようという方は、2~3年がところ、一戸建ての借家ででも暮らして見てはどうか。自分のビジョンがハッキリする。