jetpackというプラグインを導入し、WordPressからFacebookにポストさせようとするのだが、どうもサッパリうまくいかず、ついにあきらめてしまう。
pingサーバ設定
pingサーバを沢山登録した。
WordPressデザイン
親ドメインの「https://satotoshio.net/」をデザインして遊んでみよう。
WordPress入門
WordPressの情報サイトにある「はじめてのWordPress」、更にその中の「計画を立ててみよう」という項目は、非常に良い。けだし名文である。
「なぜこのサイトを始めたのか?」という質問を思い出してほしい。というのも、君が共有するに値する有益でタイムリーな情報をもっているからであり、君が自分に興味のある主題について語りたがっているからであり、もしかしたら、ただ語ると面白いと思っているからだ。なぜ? みんなそうしているじゃないか!
いいね。ぐっとくる。
段落の行頭の字下げ
日本語の文章は段落の行頭を一文字下げるが、ウェブやIT業界の人はなぜかこれを嫌い、「そういうのはムダ」「文字列のセマンティクスに関係のないことはスタイルで表現すべき」などと言って、これをやめさせようとする。
「ためにする議論」の代表であると思う。コンピュータ屋のおせっかいであり、余計なお世話である。
今この文章にしてからが、WordPressの余計な機能により行頭の字下げを無視されている。
ドメインとって、新しくブログを立ててみた。
OCNのブログサービス「ブログ人」が廃止されてしまってだいぶ経った。しばらくは推奨された「gooブログ」を使ってみていたが、どうも気に入らなかった。
意を決して、ドメインを取得し、WordPressでブログを立ててみた。
前の「オッサンとバイエル、ピアノ等」は、wgetで丸ごとローカルにとっておいたのを、別のディレクトリにそのまま置いた。
「旧・オッサンとバイエル、ピアノ等」
http://www.satotoshio.net/oldblog/
後日追記
上記「旧・オッサンとバイエル、ピアノ等」は、併存しておくと検索エンジン対策上いろいろと不都合があるように感じたので、消去しました。
下品版 クリスマスの思い出
子供の頃──中学生の頃だったか、小学生の頃だったか、あいまいになってしまって思い出せない──クリスマスのその日だったか、何日か前だったか。
名曲、
”Jingle bells, jingle bells,Jingle all the way!”、ミ、ミ、ミ~、ミ、ミ、ミ~、ミ、ソ、ドーレミ~
……という節回しで、かの山上たつひこ氏が名著「がきデカ」に伏字もなしに堂々と発表した不朽の替え歌、
「♪チンコのべーる、ちんこのべーる、ちんころおーざうぇぇ~♬」
……というアレを、ゲラゲラ笑いながら怒鳴るように歌っていたら、教室の向うのほうで女の子が泣き出した、ということがあった。
「おいこら、なんでアイツが泣くねん、ワシが何を歌おうが、そんなもん、勝手やんけ!?」
そう口に出したら、その女の子はますます泣きつのり、誰か他の女の子が「ああ、ホンマに、アホの男子は、何もかもだいなしやアホっ!」みたいな視線でコッチをチラチラ睨みながら、その子を慰めていたものだ。
当時は本当に、替え歌歌ったくらいでなんで泣くんじゃ、女はアホとちゃうか、と思っていたが、今はその女の子が泣いたわけがよくわかる。
その女の子の名前も、今、思い出そうとしてもどうしても思い出せないし、何年生くらいのときだったのかもよく思い出せない。
セルバンテスの苦労控
先日、スペインの修道院の床下で遺骨が発見されたと伝わるセルバンテス。抱腹絶倒の傑作「ドン・キホーテ」の作者で、400年前の人だ。
晩成型の作家で、その不運や苦労に満ちた人生を私は尊敬している。
彼の来歴を見てみると、後世これほど有名な作家であるにもかかわらず、とてものことに順調な作家人生を送った人物とは言い難い。
貧乏人の家庭に生まれたセルバンテスは、無学の人とはいうものの、幼少から読み書きを身に付けていた。少年時代は道端に落ちている紙くずであろうと文字が書いてあればそれを拾って読んだといい、その頃から晩年の文才の片鱗が見えていた。
だがしかし、彼も時代の子であり、文筆の道へは進まなかった。兵隊になり、戦いの日々に身を投ずる。時あたかも無敵スペインの絶頂期である。かの「レパントの海戦」でもセルバンテスは戦った。
レパントの海戦は、コンスタンチノープル陥落以来200年もの間、オスマン帝国率いる回教徒に苦杯を舐めさせられ続けていたキリスト教圏の初めての大勝利であった。
勝ち戦の中にいたにもかかわらず、セルバンテスは撃たれて
隻腕となってからも数年戦い続けたが、帰国の途中で回教徒に捕まってしまう。当時の捕虜は、身代金と交換されるのが常であったが、持っていた感状のせいで大物とみなされ、大金獲得の切り札として交渉の後の方に回されてしまったのだ。結局、5年もの間捕虜として苦難の日々を送る。仲間を糾合して4度も脱獄を企てたが、ことごとく失敗。その都度辛い仕打ちがあったろうことは容易に想像できる。
ようやく身請けされて帰国した彼を待っていたのは、祖国の冷遇であった。感状を持つ英雄であるはずなのに、与えられた役職は無敵艦隊の食料徴発係である。無骨な来歴で、しかも傷痍軍人であるセルバンテスに、貧しい人々から軍用食料を要領よく徴発するような仕事など向くはずがない。帳尻が合わず、しょっちゅう上司に呼び出されては怒られる日々。それではというので豊かな教会から食料を徴発したところ、キリスト教徒に
ところが、しばらくするうち、スペイン無敵艦隊は、「アルマダの海戦」でイギリス海軍に撃破され、なんと消滅してしまう。すなわちセルバンテスの勤務先が消滅してしまったということで、彼は路頭に放り出され、無職になってしまったのである。
セルバンテスは仕方なしに仕事を探し、今度は徴税吏になった。
セルバンテスの不運の最底辺はこのあたりだろう。彼は税金を取り立てて回り、それを国に納める前、安全を期して一時銀行に預けた。ところがその銀行が、破綻してしまったのである。無論取り立てた大事な税金は消滅。セルバンテスはその債務をすべて個人的に負うことになってしまったのだ。勿論払えるはずもなく、当時の法では「破産者は刑務所送り」である。
放り込まれた刑務所の中で、彼は失意と不遇の中にあって、なんでこんな目に俺が…、と泣けもせずに泣きつつ、「ドン・キホーテ」の物語を構想した。
セルバンテスという人がぶっ飛んでいるな、と私が思うのは、こんな不運のどん底にあって構想した物語が「ギャグ漫画」のようなものであることだ。400年も前に書かれた「ドン・キホーテ」は、現代の私たちが読んでも思わず爆笑せずにはおられないドタバタの連続であり、徳川家康がようやく天下統一を成し遂げた時代の小説とはとても思えないほどの傑作だ。赤貧洗うが如し、隻腕の傷痍軍人で、しかも50歳を過ぎて疲れ切った男が、不運により放り込まれた刑務所の中であの物語を考えたのだ。
刑務所出所後、数年かかって物語を完成させた時、セルバンテスは既に58歳になっていた。400年前の寿命を考慮すると、これは現代の70歳にも80歳にもあたるだろう。
なんとか文学的な名は得たものの、ところがまだ苦労は続く。「ドン・キホーテ」は発売直後から空前の大ヒットになり、英訳・仏訳もすぐに出るという異例の出世作となったが、そんなに急激な大ヒットになると思っていなかったので、版権を売り渡してしまっていたのだ。ために、貧乏にはまったく変化がなかった。
しかも、煩わしい悩みが続く。セルバンテスはこの頃、妻、老姉、老姉の不義の娘、妹、自分の不義の娘、という奇怪極まる5人の女達と暮らしていた。せっかく作家としてなんとか名を得、執筆に集中しようにも、この女どものためにそうはいかなかったのだ。彼女らは、男を騙して婚約しては難癖をつけ婚約不履行にし、それを盾に慰謝料をせびるというようなことを繰り返して儲けているという、ふしだらで
セルバンテスが死んだのはこの10年後、69歳だった。当時の記録にも、三位一体会の修道院に埋葬された、と記されてあるそうだ。日本で言えば、合葬の無縁仏にでも当たろうか。それが、このほど遺骨が見つかったとされるマドリードの修道院である。
古川緑波
古川緑波(ロッパ)と言えば、戦前から戦後にかけて活躍したお笑い芸人である。
20年ほど前のお笑い界勢力図で例えて、「今のビートたけしがエノケンこと榎本健一なら、さしずめタモリが古川ロッパと言えようか」ということを聞いたことがある。
さてその古川緑波、もともとは映画評論などを書いていた編集者で、ために文筆をよくし、随筆などが多く残っているということをつい先週知った。日記書きであることもよく知られ、その膨大な量の日記は第一級の庶民史資料でもあるという。今でいう「ブロガー」にあたろうか。
食いしん坊で、食べ物のことをよく書いており、雑誌の連載にそれが残る。
昭和36年に亡くなっているので、既に死後54年ほど経ち、日本法では著作権消滅のため、青空文庫等でその文筆の多くを読むことができる。
平易かついきいきとした文体で、読みやすい。
やさぐれ寸聞
俗に、ヤサグレ、という言葉がある。これは本来は「家出」のことで、昔の不良若者の隠語だ。この本来の意味でなら、オダサクとか野坂昭如描くところのむしろ戦後の闇市あたりの情景に、ヒンブルだのバラケツだのテンプラだのルンペンだのという死語と共に散りばめられているのが似つかわしい。
「おい、そこのセイガク。お前何してる。どこへ行く」
「……。いや、別に」
「何だ、ヤサグレかい。近頃めずらしくもねえ」
先に声をかけたバラケツは声を落とすと次郎の胸ぐらをぐいと掴み、「デケエ面すんじゃねえぞ兄ちゃんよ」と凄みのヒンブルである。
……などという昭和近代小説の一場面の会話によく
だが、最近は「やさ」とか「ぐれ」という語感からか、気分が悪くムシャクシャしたりフクれたり、正確に言えば「デカダンス」に似たような状況や、時には「アンニュイ」のような気分、なげやりでやる気のないようなことを言うのにもつかわれることが多くなったようだ。
今本来の「家出」の意味で「お前なんだ、やさぐれたのか?」などと言ってもまず通じないことは疑いない。
ちなみに、なぜ家出をヤサグレというのかというと、「やさ」とは家のこと、「ぐれ」とは不良化することを「ぐれる」というが、それを名詞的に用いたものだ。
グレかたにもいろいろあって、この「ヤサグレ」の他に、女の家に寄生する「ヒモグレ」「スケグレ」、最近では昔でいうところのバラケツや愚連隊のことをさして「半グレ」なぞというようになったようだ。
家の事を「やさ」ということには諸説あり、「家作」をつづめたもの、とか、「鞘に収まる」という場合の「鞘」を隠語的に逆にしてヤサと言ったもの、などと言われているようだ。
昔の家出は今とは違って、「公民権を放棄して棄民になる」ぐらいの捨て鉢な覚悟が必要であった。なぜかというと、家長制度がきつく、相続でも結婚で住み処を借りるにも、何をするにも戸主の許可がなければならなかったからである。家長、すなわち多くの場合は父であるが、そのそばを離れて行方不明になれば、もう、家に住むことすらできなかったわけだ。だから不良仲間の家に転がり込んだり、橋の下で寝泊まりするようなことになり、まっしぐらに転落していく。
家長に見つけ出されて連れ戻されても、もはやその怒りを解くすべとてなく、勘当を申し渡される。この勘当というのは、「お前など出ていけ!」と叱りつけるというような単純なものではなく、れっきとした法律行為で、権利の多くを制限されて通常の暮らしができなくなるような処分であった。
その点、こうした背景にあって、家出のために作る気持ちのやけっぱちさ、どうとでもなれという捨て鉢な態度が一連の行動に含まれているとすると、最近の「やさぐれ」の使い方も、あながち離れすぎてはいない。