「バイエル」

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 いつも近所の島村楽器で買い物をする。ふた月ほど前、メトロノームを買った折、書籍コーナーを見ていると、子供向けの音楽家伝記シリーズの漫画があり、ベートーベンやモーツァルトに混じって「バイエル」という題のものを見つけた。

 先週、それを買ってみた。 

バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8)) バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8))
価格:¥ 945(税込)
発売日:2004-02-04

 それなりに面白いものの、残念ながら、ほかの音楽家と違ってバイエルのことはほとんどわかっていないらしく、このマンガはオールフィクションである。

 だが、今日これを取り上げたのはほかでもない。あとがきに非常にいい調子で「バイエル肯定論」が書かれてあったからである。

 巷間、「バイエル否定論」を探すことはたやすい。「バイエル ピアノ」でググれば、子供の頃ピアノがものにならず、挫折した人のルサンチマンやら恨み節をこめて、「バイエルなんてクソだ!!やめちまえ!!」というようなページが目立つ。

 だがこの本のあとがきは、そうした「バイエル否定論」に、真っ向から、ひとつづつ反論している。かいつまんで記せば、

  •  よく知られた子供向きの曲がない。 ← よく知られた子供向きの曲が豊富な「メトード・ローズ」は、ピアノ初心者には読譜も演奏もむずかしい。
  •  ポリフォニーがない。 ← ある。よく見てないだけ。
  •  曲がきれいでない。 ← 初心者用の教則本なので、初心者の演奏ばかり聞くことになり、そんなふうに感じる。ピアニストが弾いたバイエルの録音を聞くと、びっくりするくらい美しい。
  •  バイエルは古臭い。 ← なら、モーツァルトやバッハは?
  •  両手ト音記号ではじめるのはおかしい。 ← 別段おかしくない。
  •  ヨーロッパで使われていない。 ← ヨーロッパのピアノ教師は、そもそも練習曲に重きを置いておらず、バイエルが使われていないんじゃなくてツェルニーやクレメンティも使われていない。ところが、「バイエルはヨーロッパでは使われていない」という人に限って「ツェルニーは大事」などという。

 ・・・等々である。

 なんにせよ、私は、オッサン面下げてバイエルを一生懸命練習しているので、「その練習にはとても大事な意味がある」というふうに書いてあることはとてもうれしい。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.2

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 今日は成人の日、祝日で仕事は休みだったが、月曜だから、次女の通常のピアノのレッスン日である。発表会が近いので、無論私が連れて行く。

 レッスンの後半、連弾を先生に見ていただき、まずまずあまりたくさんのご指導はいただかなかった。今日の段階では可はなし、而して不可はなし、というぐらいの感じである。

 ただ、私はどうも、次女を置いていっている感じがある。もう少し次女とあわせたい。

 この曲のテンポは、楽譜に書いてある「♩=112」だと、私にはたいへん速く感じられる。このテンポのことを先生に伺ったところ、

  •  数字にはそんなにこだわらなくて良い。
  •  それよりも、「Allegretto」という標語の意味をよく考えること。
  •  「行進曲」という題を考え合わせる。速いものといえばベートーベンの頃には最速でも馬車程度であったはずだから、かつての行進曲はそんなに速くはなかったはず。
  •  2/4拍子で、右足に拍をおきつつ、歩いて歌うのもよい。実際に歩いてみながら、階名で歌ってみるとよくわかる。

 ・・・等と、実に該博な知見でご指導くださった。

「昔の行進曲は、こんなふうに(手のひらで足の運びを擬しながら)右足を出しては一旦両足を揃え、左足を出してまた両足を揃え・・・と、いう具合だったそうですよ。」

とおっしゃる。そういえば、トルコ軍楽「メフテル」の映像の中で、メフテルハーネたちがそんな歩き方をしていた記憶があって、そう申し上げると先生も頷いておられた。

  •  トルコ軍楽「メフテル」の名曲「ジェッディン・デデン」

 モーツァルトもベートーベンも、その活動時期には既にオスマントルコのウィーン攻めは伝説の時代劇であったはずである。だがしかし、曲の抑揚のつけ方、時々出てくる短音階の怖い感じ、やや滑稽味のある珍しいところ、装飾音・前打音の「小ぶし」感などに、ウィーンの人たちの民族の記憶としてどれほど強くトルコ軍がその軍楽とともに刻み込まれていたかが感じられる。

 当時のウィーンの人たちは皆殺しをもってなるトルコ軍をどんなにか恐れていたことだろう。異文化、異人種、そして近づいてくる今までに聞いたこともない変な音階のラッパ、複雑な巨太鼓のリズム。

 それまで、行進曲や軍楽というものはヨーロッパにはなく、音楽の都を自ら称するウィーンといえども、トルコ軍のメフテルは、かつて見たことも聞いたこともないものだったのだ。か弱い市民たちがその耳を聾する響きにどれほど腰を抜かしたか想像に難くない。まして今の軍隊とは違う、女は蹂躙され、子供は連れ去られるか老人とともに虐殺、財貨も食料もひと舐めだ!!

 だが怖いもの見たさ、物珍しさで地下のワイン倉にでも隠れて戦々恐々、小窓から半分眼を覗かせて、やかましいメフテルが恐怖とともに近づいてくるのを待ったに違いない。市民がトルコのイェニチェリの、精強にして、だが、珍妙でもある装束を、怖さ半分面白さ半分、息を殺してしみじみ覗き見る姿が眼に浮かぶ。

 ウィーン攻めをあきらめて遠く去っていくトルコ軍楽の響きを、運良く生き残った市民たちは、胸をなでおろして聞き入ったことであろう。

 滅亡を免れたハプスブルグ朝は、オスマントルコの旗印の「日月」の形のパンを焼いてそれを喰らい祝うよう市民たちに命じたという。「トルコごとき、何ほどのことやある」と、事が済んでからの空威張りも、なにやらほほえましく感じられる。

 この時の「日月」の形のパンは、ハプスブルグ家とフランス・ブルボン家との結婚外交によって自然フランスに入り、しゃれたデニッシュの一種類「クロワッサン」となって今に残る。

 ・・・そんな感じが、この子供用の簡単な編曲にも横溢していると私は思う。

成人の日所感

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 成人の日、祝日である。朝から我が家の玄関先には日章旗を掲げて祝意を表した。

 だが、本心を言えば、私はあまり喜ばしく思っていない。

 テレビや新聞は、どうせ今年も荒れる成人の日、などという面白くもないニュースで塗りつぶされているのだろう。見る気もしない。電気代や新聞代を自腹で払って不愉快な思いをする必要などない。

 20年以上前、自分の成人式の日、私は仕事をしていた。だから、いわゆる世間一般の人が言う「成人式」というものには出ていない。その日は朝からなぜか一日中忙しかった。職場の下の者に私と同い歳の者が何人かおり、午前中、時間になると彼らを成人式に送り出してやった。私は職場に残ってなんやかやと深夜までコマのように働いて、自分の成人式がどうとか言っている暇はなかった。深夜1時、職場のきしむベッドにもぐりこみながら「ああ、成人式だったな。日がまわっちゃった。俺、成人じゃないか、ハハ」と、ひとりごちたものだ。

 社会人として責任を果たした、自分なりの成人式だったと思う。いや、そのずっと前から、私は社会の一員としての責任を果たしていた。だから、既に成人だったのだと思う。何ぞ我を他人が祝うことやある、と言うぐらいの内心を私は抱いていたようにも思う。

 親の金で高校や大学を出てぬるく生きている者には、成人の日における私の行動など、知能の低い者が自業自得によって仕方なくとった愚かさの代償に見えることだろう。2ちゃんねる流の言い回しなら「ドキュソ」である。「そうなる前になんで勉強して大学出るなりしないわけ?バカじゃねぇの?」とでも言い捨てることだろう。

 自分のことや当時のことをわかってもらおうと他人に説明する気など私にはない。親兄弟、妻や子供にすらわかってもらおうと思わない。理解などできまい。こんな話をすれば、「大げさだ、ウソだ」と言う。言わば言え、なんとでも。哀れまれたいと思っているわけではさらにない。

 自分のことをどうこうではない。ただ私は、高等教育を受ける機会を与えられておきながら、モラトリアムだのニートだのフリーターだのと称して怠け、寧日をむさぼっているスネ齧りの馬鹿者たちを腹の底から軽蔑し抜いているだけだ。

 手放しで誉められ、甘やかされてきた若者たちは、祝福されるにふさわしい人間となれるよう、自分たちを責め抜き、鍛え上げ、懺悔しなければならない。そうしなければ、今日という日は永久に、誰からも本当の本心からは祝ってもらえない、ゴミか痰唾のような蔑まれるべき成人式のままである。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.1/他/YouTubeで遊ぶ

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 YouTubeに動画をいっぱい上げて遊ぶ。

 他に、

次女の「悲しい」

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 ショパンの「別れの曲」をイ短調に移調したやつが次女(小1)のキーボード付属の楽譜集の中にあり、それを拾い読みしつつド~ファーミファソ~♪と爪弾いて遊んでいた。

 そばに次女がいたので、「オイ智香、この曲、どんな風な感じがする?面白い?暗い?悲しい?気持ちじゃなかったら、色とか味とかでもいいぞ?」と聞いてみた。それは先日、ピアノの先生がショスタコービッチのワルツの稽古を次女につけつつ聞いていたことだ。芸術の才能の優れた者には、「共感覚」とて、色彩や音階から味を感じたり、音階から色が見えたりするそうで、そういう者は知能が高いということをどこかで読んだことがあるのを思い出した。

 さておき、私のこのブログには今まで書かなかったが、次女はわが子ながらたいへん面白い子である。時折その突拍子もない感性に爆笑してしまうことがある。私の質問に少し思案してから出した答えが、

「転校生だと思う」

 というのである。

「・・・?転校生?この曲が?・・・転校生がどんなふうなんだ?」

「転校生が悲しいの。その転校生はブスだから。ブスで友達がいなくて、悲しい。」

 次女がわりと真剣な顔でそう言っているのにもかかわらず、思わず吹き出しそうになった。

 が、改めてそういう気持ちで「別れの曲」を聴くと、沈鬱に悲しんでいるブスの転校生の心みたいな感じもしなくもない。だが、悲しむブスの映像を思い描きながら、そのビジュアルのBGMに「別れの曲」を脳内で流してみると、なんだかメッチャ笑えるのであった。

ショパン プレリュード Op.28-No.7@YouTube

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 ビデオカメラにピアノをつなぎ、演奏をビデオ撮りして遊ぶ。

 YouTubeにアップロードして楽しんでみた。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その1.0

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 なんとか自分のパートは間違わずに弾けるようになったトルコ行進曲である。

 次女を前回のピアノのレッスンに連れて行った折、先生が「次回あたり、二人の連弾を拝見しましょう」とおっしゃった。

 2度か3度くらいはなんとか次女と二人、通して演奏できるようになっていたので、意気込んで練習していた。

 私は暮れ29日から元日まで、職場に泊り込みで仕事をしていたので、今日と明日(8日と9日)は休みである。そして、運良く、今日は次女のレッスン日で、私が連れて行けることになった。

 教室にお邪魔して、まず次女のほかの曲のレッスンをしていただく。それからトルコ行進曲を見ていただく。一度次女が通して弾いて指導していただき、それからいよいよ「どうぞ、お父様との連弾を見せていただきます」となった。

 生まれてはじめて弾くグランドピアノである。

 タッチや音の違いに驚愕する。

 間違わずに弾けるようになっていたものの、タッチや音の違い、反応の違いにおもわず心を奪われ、また柄にもなく緊張してしまったこともあって、2度3度と間違えてしまった。

 教室のレッスンで緊張により間違うということは、発表会の場では、もっと緊張し、もっと間違うということである。緊張による間違いをなくす唯一かつ最良の行動方針は、ただただ反復演練、これあるのみである。

 実に意義のあるご指導をいくつかいただいた。次女のパートが前に出るところでは、演奏記号の強弱よりもやや弱い目に、ウラにまわって弾く。また「左手単音・右手重音」でリズムを刻むところでは、右手が轟音になってしまうので、左手を強く、右手は抜いて弾く。アクセントの記号に気をつける、・・・等々である。

 最後に、2~3分ではあったが、ピアノを少し触らせていただいた。バイエルの100番、80番、それからショパンのプレリュード7番を弾いてみた。ショパンのプレリュードでガコンガコンと乱暴にペダルを踏んでいたら、思いがけず先生から懇切なペダルワークの指導をいただいた。

 それから、今まで、家のピアノの表示ランプやつまみ、譜面台の位置などを知らず知らずのうちに目印にしてしまっていたことに気がついた。「いつもあるモノ」の位置が違うために、オクターブを飛ぶようなところで不意に間違えてしまうのだ。「こんなに弾き馴染んだ曲で、どうして間違えるんだろう?」と考えて、すぐに気づいた。よそのピアノを弾くというのは、実に意味があることだと思った。

 次のレッスンは12日(成人の日)の月曜である。祝日であるから、また私が連れて行くことができる。それまでに少しは進歩してのぞみたいものだ。

もちとこんにゃくゼリー

投稿日:

 今年も多くの方々が餅をのどに詰まらせて亡くなった。実に残念である。

  •  googleによるニュースの検索の仕方(為念)
    •  ブラウザのアドレスバーに「http://www.google.com」とタイプする。
    •  調べたい言葉をテキストボックスにタイプし、ページ上部にある「ニュース」というリンクをクリックする。

 「もちとこんにゃく」というタイトルにビリビリと反応して、すわと身構える(笑)向きもあろうかと思うが、残念ながら期待には沿えない。「こんにゃくゼリーは悪くてモチは良いのかッ!?ああン!!??」などとすごむ悪趣味は、私にはない。

 年始にあわせて、消防ほか、関係官では「餅は小さく切って食べるよう」指導しているという。ならば、こんにゃくゼリーも小さく切って食べるよう指導すべきなのだ。だが、それが不自然なこともまた自明である。ならば、もちの食い方にいちいちああせよこうせよと官憲が立ち入るのも不自然である。

 「こんにゃくゼリーは一私企業の製品であって、餅のように自然、家庭で作って食べるようなものではない、よってこんにゃくゼリーは指導されるべきなのだ」という意見もあろう。だが、いまや餅は立派な食品加工工業製品である。

 こうした議論はこの数年来、もはやされ尽くしたことであろう。

 マンナンライフ社には、ナタデココのように、蜜豆寒天大に細かく切った各種の味のこんにゃくゼリーをデザートの構成物として売り出してはいかがかと提案してみる。「クラッシュタイプ」ということで、突き崩した食感のものもラインナップにはあるようだが、もうひとつこんにゃく特有の食べ応えは楽しめまい。

スパリゾートハワイアンズ

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スパリゾートハワイアンズ
 家族で福島県はいわき市にある「スバリゾートハワイアンズ」へ来ている。最近は映画「フラガール」で話題になった。古い向きには「かつての『常磐ハワイアンセンター』」と言えば解り易かろう。

 写真は今日の宿、「ウィルポート」というところの客室エントランスなのであるが、なかなかシブいたたずまいである。

 因みに記せば、「ハワイアンズ」の宿には「ホテルハワイアンズ」「ウィルポート」「クレスト館」の三つがあるが、断然「ウィルポート」がオススメである。予約がいっぱいでふさがっていることが多いが、結構キャンセル空きが出るので、もしホテルハワイアンズのほうしか予約出来なかった場合でも、ダメもとで前日か当日に変更できないか問い合わせてみると良い。キャンセルじゃなくて変更なので、キャンセル料はかからない。

 私達もそうしてウィルポートにしたのだが、実に快適である。

 勿論、言うまでもなく温泉はいろんな湯があり、広大で最高、ショーも楽しいし、いろんなプールがあって子供も飽きない。

 今日はたまたま、「ROBO-ONE GP 2008 IN スパリゾートハワイアンズ」というのが館内メインステージで行われており、これは二足歩行ロボットを闘わせて競う勝ち抜き戦で、なかなか手に汗を握る見応えのあるものであった。決勝戦の優勝者は大阪からひょうきんなニワトリ君型ロボット「レグホーン」号をひっさげて参戦した練達の若者であった。3分1回こっきりのラウンドの最後1秒、レフェリーの「終了ッ!」の声が掛かると同時に放った必殺技、「手羽先スラッシュ」がみごとに決まり、強敵「モンスター」号を倒したのであった。

 夕食のバイキングもウィルポートのほうが良い。ハーフバイキング方式になっていて、とり放題食べ放題のほかに、めいめいに別にメインディッシュがつく。

 夕食のバイキングは19時過ぎ頃からであが、夜のショー「グランドポリネシアンショー」は20時10分からである。時間の点でショーの席とりなどに嫌気を覚える向きには、2階「アロハタウン」にあるスペシャルデッキシートの予約をお勧めする。昼は3~5千円もするが、夜は半額となり1,500~2千円である。夜の部の予約は15時から2階アロハタウン内で受け付けている。前列の良い席を取ると良い。そうしておけば、バイキングでゆっくりおいしいものを食べてから、おもむろにショーを見に行っても、余裕で座って見られる。