トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.9

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 あまり練習に身が入らないかに見えた次女だが、少し弾け出してくると面白くなってくるらしく、誘うとのってくるようになった。いつもほがらかでふざけている次女だが、二人で並んで弾くと、けっこう真剣な眼差しで取り組んでいる。わが子ながら他愛なくかわいいものだ。

 そうやって何度か次女と練習し、私のほうは自分のパートについてはだいたい弾けるようになった。だが次女のほうはまだまだだ。

 まだ発表会までには時間がある。それまでとにかく練習させるのみである。

テーブルを買う

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 三郷に最近できた「IKEA」でテーブルを買う。通常は6人がけ、ちょっとした機構を操作すると8人がけにエクステンドするというやつで、しかも質実剛健なムク木のすぐれものだ。3万1千円ちょい。

 白いの、ビーチ材、バーチ材の3種類あるが、ビーチ材のにする。

 今までのテーブルは、グラグラする適当な安物を使い続けていたのだが、それはノコギリで四すみを切り縮め、脚を切って低くし、妻用の座りパソコン机に改造。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.81

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 今日は次女のピアノのレッスンである。そして、私は仕事が休みである。土・日、飛んで天皇誕生日の飛び石連休である。そのなか日、月曜に休みを取ったのだ。だから4連休だ。

 当然私がレッスンに連れて行く。そばで待っているのだが、先生が次女につける稽古に耳をそばだたせ、私の肥やしにする。

 連弾用のトルコ行進曲、先生は稽古をつけながら、次女の様子を見い見い、「ここんところは5432、でいこっか!?」などと、次女が弾きやすいように随時指づかいを変えていく。・・・ふうむ。

 レッスンが終わってから、少し先生に尋ねてみる。

「あのう、先ほどのお話ですが、指づかいっていうのは、変えていっていいものなんですか?」

 先生のお話によると、変えていい場合といけない場合があるそうである。

 基本的にハノンなどの練習曲は、その指で弾くことを練習させていたりするので、変えてはいけない。楽譜の指示のとおりに弾くことが練習曲の目的にかなう。反面、今回の連弾の曲のように、演奏を楽しむような場合には、楽しめるように変えていってかまわない。ただし、楽譜の指示の指づかいが、もっとも弾きやすいやりかたの提案であったり、一見難しい指づかいが、実はその次の音符を弾きやすくするためだったりするから、その目的を失わないようにすることが大事である。

 しかし、演奏を堪能する曲だからといって、どの曲も変えていいわけではない。作曲家によっては、例えばショパンなどは、指の一つ一つに個性を見出していた。ショパンは、薬指にはえもいわれぬ嫋嫋たる響きを、小指には繊細でしかも強固な意志を期待したのである。3度4度と飛んでいくようなメロディに、「これらの音は全部薬指で弾くように」というような指示がショパンの楽譜にはあるそうだ。こうした場合は、ショパンの心を弾くためにも、指づかいを変えるべきではないそうだ。

 私はトルコ行進曲の一箇所にどうしてもなじめない指づかいがあり、どうしたものかと思っていたのだが、先生によると、この場合は変えていいそうだ

 ほかにも面白い話を伺うことができた。次女と連弾の練習をすると、どうにも手がぶつかりそうになるので、「ぶつからないように練習しような」と次女に向かってつぶやいてみたところ、先生が「ああ、ぶつかってみたりするところが連弾の楽しいところなんですよ」とおっしゃるではないか。

 先生によると、その昔、ヨーロッパの紳士淑女のお付き合いがまだまだ奥ゆかしかった頃、男女がともに連弾曲を練習して、少しばかり手や体が触れ合ったりすることは実にうれし恥ずかしいものであって、作曲家もそうした作用を期待して、ことさらに手が触れ合ったり交差したりする曲を書いたものだそうである。時にはそれがお見合いであったり、隠微な求愛であったりしたかも知れぬ。モーツァルトなど、いかにもそんな作曲や、弟子へのレッスンをしていそうだ。

「ですので、ちかちゃん(次女)と、ぜひ触れ合って、楽しく工夫して練習してみてください」とは先生のいわれたことである。実に肯うところ大である。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.8

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 トルコ行進曲、だいぶ弾けるようになりつつある。指定テンポの♩=112だと、間違えずに弾けるのは10回のうち1回ぐらいではあるが・・・。

 まだ発表会の2月までには時間がある。2月にはなんとかなりそうだ。

 だが、問題は次女のほうだ。この前までよりかは練習に身が入っているが、なかなか十分ではない。投げ出してしまわないかと心配である。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.1~PTA会長の言のことなど

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 次女と連弾する予定のトルコ行進曲、少しづつ練習を進めつつある。かれこれひと月練習している計算になるが、そう簡単には進まない。とはいうものの、つっかえつっかえながら楽譜の最後まで通して弾けるようになった。こうなればあとは反復練習あるのみで、先は見えたも同然だ。弾ける、という確信を得た。

 いつもなら自分の励みになることも考えのうちに入れて、midiのひとつもとってブログに載せておくのだが、今度の「トルコ行進曲」は新しい編曲で、権利関係、就中著作権方面の問題があるから、そうもいかないのは残念だ。

 ちなんで記せば、今まで録りためたバイエルとなると話は別である。フェルディナント・バイエル氏は幕末の頃には亡くなっている。亡くなってからとうに100年以上は経過しているから、日本の著作権法でも諸外国の著作権法でも、midiに録ってブログに載せることにはまったく問題がない。

 さておき、次女との連弾のための練習なのであるから、私だけが必死になっても駄目である。主役は次女なのだ。ところが、この次女がまた、練習不熱心なのだ。家内が「ちいちゃん(次女)、ピアノ練習しようよ」とたびたび促すものの、つまらなそうにそっぽを向いてしまう。どうしたものか、よいアイデアも思いつかない。

 次女は去年までは近所のヤマハの教室に通っていた。それほど期待はしていなかったのだが、思いのほか、次女が鍵盤の演奏を非常に楽しそうに上手にやることがわかり、キーボードなどを買い与えたのである。(そのキーボードが私のピアノ練習の発端になったことはこのブログに度々記すところである。)

 これは、と思ったので、さらに次女の幅を広げてやってみようとピアノ専門の先生の門を叩いた。さすがは専門の先生だ。私が次女を連れて行く時にはそばでレッスンの様子を拝見するが、先生の指導は的確かつ高度であり、傍目で見ている私までが「なるほどっ!!」と膝を打つことも度々である。専門の先生に替わってよかったと思う。

 だが、次女はどうも、つまらなくなってしまったようだ。ヤマハは友達とのグループレッスンで、みんなで合奏したり歌ったりというのが多かったのだが、次女はそういう友達との「盛り上がり感」を楽しんでいたようで、ヤマハの友達と会えなくなってしまったのも、ピアノがつまらなくなってしまった要因らしい。

 先生もそこいらあたりは十分ご承知で、「つまらなくても続けていると、ふとしたきっかけでうんとはかどることがあります」と言ってくださっている。たしかにそう思う。

 思い起こすことがある。

 私の子供たちが通っている小学校のPTA会長は石川雄規さんという方で、プロレスラーだ。有名人である。一見、茶髪の巨体、強面だが、実際の人柄は礼儀正しく、温和にこやかで、ましてや愚物であるはずはなく、話すことも理路ただしい。聞けば大学できちんと教育学を修めた学士先生である。

 次女の入学式の折りであったか、PTA会長は次のようなことを言われた。

「子供というのは気まぐれなものだ。子供と私たち親とのやりとりをキャッチボールにたとえると、こちらからボールを投げても、投げたボールが返ってくるなんていうことはほとんど期待できない。いや、『ほとんど期待できない』どころか、1球も返ってこない、ゼロというのが実際のところだろう。それくらい子供は気まぐれだ。だから、子供の反応がないからと言って、それでいちいち怒ったり悔やんだりするのは考えものだ。

 だがしかし、そんな一方通行とすら思えるキャッチボールのなかで、ぽつん、と、1球だけ、突然ボールが返ってくることがあるのだ。その1球は重要な1球だ。この、ぽつんと返ってきた1球を取り逃してはならない。100球、1,000球、いや1万球の中のこの1球を取り逃さないためには、漫然と球は投げられない。1球1球に集中と努力がいる。一生懸命に球を投げないと、その『重要な1球』を捕り逃してしまうだろう。次は返ってくるかもしれない、そう期待しては、だが裏切られることの繰り返しに耐えなければならない。

 私たち親の任務は多様であり、ひとつではくくれないが、この『重要な1球』を受け止めるための集中と努力も、きわめて大切な子供への接し方のひとつと言えようか」

 私にはとても印象に残る話で、至言だと思う。会長は子供への接し方としてこれを話されたが、組織で仕事をしている者には、たとえば部下への接し方として読み替えても、実に含蓄に富む。

 次女は、ピアノの「重要な1球」を返してくるだろうか。この例えなら、半年やそこらではまだ、私から5~6球も投げたとは言えまい。次女からの重要な1球を逃さないよう、更に1,000球を送らねばならぬ。

もっぱら読書であるな

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 「ブログ人のトラ場」がいつの間にか、「ブログ人投票箱」というツマンナイ名前に変わってしまっている。そう言えば、「日本沈没地図」というイカした名前だった例のアレも、「日本応援地図」なんていうツマンナイ名前に変わってしまい、今はついに「ブログ人マップ」などというなんのヒネリもない、そのまんまやんけ的な名前に変わってしまっているのは極めて遺憾である。

 さておき、お題は「電車内ではどう過ごすことが多いですか?」となっている。

 お題だけを見て、選択肢が「読書」と「眠る」だったらどうしよう、この「トラ場」、いっつもどっちとも選べないような選択肢ばっかりなんだよな、と思ったら違っていて、「読書」「ケータイ」の二者択一であった。

 もっぱら読書である。

 だが、いい本というのにはなかなかめぐり合えないものだな。

トルコ行進曲を娘との連弾で弾ければ楽しそうだ

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 月曜日は下の娘のピアノのレッスン日である。今日は文化の日、祝日だが、月曜だから予定のとおり下の娘のピアノのレッスンがある。

 いつもは妻が連れて行っているが、先日、「ぜひ発表会はお嬢さんとの連弾で」と先生に勧めていただいており、その曲をどうしたものか伺いたいこともあって、今日は私が連れて行った。

 先生は「レッスンの間、どうぞ見てみてください」と娘に適する連弾用の曲集をいくつか選んで出してくださった。難しいもの、やさしいもの、さまざまのものがあったが、その中の「バイエル修了程度」の連弾曲集の中に、ベートーベンのトルコ行進曲があった。「トルコ行進曲」とだけ聞けば、なにやら敷居が高そうだが、楽譜をよく見てみると、両手並進行で、やさしく編曲してある。

 これならなんとかなるのではないか、と思ったので、それを含めて、いくつかの曲を先生に検討していただくことにした。

 楽しみである。

応用曲「半音階のポルカ」 その0.1

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 半音階のポルカ、16小節目まで、やっとこさ、しかも左手右手、別々に弾く。

 それにしてもはかどらぬ。

応用曲「半音階のポルカ」 その0

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 さて、改めて記すに、全音楽譜出版の「最新バイエルピアノ教則本」は、従来のトラッドな初歩のピアノ学習法に最近のピアノ指導法を取り入れ、様々な調を早いめの段階から弾いたり、ある程度曲の配列に検討が加えられて原書の配列とは違っていたり、随所に応用曲が挿入されていたりする。

 そのようなわけで、次なる応用曲は、L.ケーラー作曲の「半音階のポルカ Chromatische Polka」とて、ミッチリと練習した半音階スケールが存分に入った曲である。

 とりあえず今日は楽譜を見て、最初の1フレーズ、1小節と半分を弾いたのみ。とても進歩したとは言うに至らず。