林望の「イギリスはおいしい」。先週、市立図書館南部分室で借りたものだ。昨日読み終わった。
かれこれ30年近く前の作品で、もはや古書の類である。20代の頃、大阪の実家で両親が買っていたものを読んだことがある。
軽妙かつ端正、しかもおかしみのある文章で、ところが読者の期待をユーモアたっぷりにはぐらかし、大部分はイギリス料理のことを散々に扱き下ろしているのであるが、作者は基本的にイギリスそのものは愛しており、全編を通じてその愛が横溢しているので、イギリス料理を嘆いて見せるところがちっとも嫌味でなく、むしろ逆に、登場する料理のいろいろがおいしそうに見えてくるのだから不思議である。
続けて、一緒に借りておいた辰巳芳子の「味覚日乗」を読み始める。「イギリスはおいしい」と同じ棚の、すぐ近くのところにあったので、ヒョイと手に取ったものだ。
言葉
「昏れなずむ」
惜しいところ一件。
「イギリスはおいしい」(林望、文春文庫、平成7年(1995)9月10日)p.198より引用
季節柄、四時と言えばもうすっかり日没で、昏れなずむ町には、あちこち灯がともり、その明りにクリスマスの飾り付けが浮かび上がっている。
これは「いざ行け、パブへ!」という一章の中に出てくる描写である。クリスマス近いイギリスの田舎町の素朴な様子を美しく書いてあり、読者をしてイギリスへの憧憬を否応なく抱かしめる名文だ。
だが、季節はクリスマス前、つまり冬だ。イギリスは北半球であり、冬の日没は早い。「四時と言えばもうすっかり日没で」と書くからには、「日が落ちるのが冬であるため非常に早い」ということを言っていなければならない。そこに持ってくる言葉として「昏れなずむ」は、ない。
言うまでもないことだが、「くれなずむ」というのは「暮れにくい、日が永くて落ちにくい」という意味である。漢字で書けば「暮れ泥む」と書き、これは歩きにくいことを言う「歩き泥む」という表現の字面を見ればたちどころに納得できると思う。この「暮れなずむ」という語彙については、3年ほど前、このブログの「短夜」というエントリに上記同様のことを書いておいた。
武田鉄矢がかつて「♪くれなずむ街の/光と影の中……」と歌い、歌詞のほかの部分の誠実な詩文とあいまって、「くれなずむ」という語彙が身近になり、定着した。ところが、この言葉の意味を理解して味わっている人は少なく、ただなんとなく「暮れなずむ」を「味わい深く日が暮れていく様子」のことだと思っている人が多い。
名文家・林望氏ですら、ここのところを完全に間違ってしまったわけだ。惜しい。ここは「昏れなずむ町には」ではなく、「日暮れて昏さに包まれてゆく町には」とでも書いておくべきであった。
但し、「暮れ(る)」と書かず、「昏れ(る)」と書いたところに、作者が何らかの意味を込めたというのなら話は多少、別である。「昏」は「昏睡」という言葉からもわかる通り、「昏い」と訓む。したがって、「日は早く落ちたが、町にはクリスマスのために様々な明かりがともり、暗くなりにくくなっている」というような意味を林望氏が文章に込めたのであれば、私の指摘は当たらない。
でも、多分、そうじゃないと思う。