時事瞥見(べっけん)

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 ニュースは「新コロ一色」となった。

志村けん氏死去

 なんと、事態はついにここまで来た。

 もはや現実離れし、急にはニュース内容を呑み込めない気もする。テレビでは追悼番組と称してあけすけに昔の「8時だヨ」や「バカ殿」を放映しており、さながら釣瓶(つるべ)打ちのはしたなさである。

 懐かしいお笑いスター。昭和の残照がまたひとつ消えた。寂寥(せきりょう)祈冥福(めいふくをいのる)

ほほ~、変節したね

 米国人と言うのは、ほんと、コロコロと。……コロナだけに、と言って洒落(シャレ)にもならぬ。

 この前まで「マスクなんて意味がねェ!」みたいなこと言ってなかったっけ。まあ、日本人からはなかなかわかりづらい衛生意識ですな。もっとはっきり言えば不潔だ。

 こんなニュースもある。

 ところで、「ウイルスの大きさとマスクの目の細かさ」を問題にする向きがある。私は専門家ではなく、また私見であるが、科学的・物理的な事実から言って、そんなことを問題にするのはナンセンスである。

 と言うのは、次のような事実があるからだ。

 新型コロナウイルスを完全に濾過(ろか)するためには、このウイルスの大きさが0.1ミクロン(100ナノメートル=1万分の1ミリメートル)であることから、マスクの目も0.1ミクロン未満である必要がある。

 そして、完全に濾過材を通過した空気しか体内に入らないようにするには、例えば顔全体をゴムのようなもので覆い、鼻や口の部分が完全に濾過材部分のみと通行するようにしなければならない。要するに、軍用の「防毒マスク」のような構造にしなければ意味がない。

 実際に生物兵器に対応した軍用の防毒マスクを着用して見ると(わか)るが、これを()けて呼吸するには、胸郭(きょうかく)や腹筋に相当な力を入れて横隔膜(おうかくまく)を動かす必要がある。力を入れて呼吸しないと、空気が入ってこない。こういう性能の濾過材だと、ウイルスどころか空気の通行すら制限されてしまうのだ。着けたまま1キロほども疾走すると、体力のない人などは呼吸困難による酸欠で昏倒する場合もある。

 完全にウイルスを濾過できるような目の細かさを持った濾過材だと、そういうことになってしまうのである。

 黄熱病の研究に挺身した英世野口清作の伝記を読んで見て貰いたい。その昔、研究者たちは黄熱病の原因を突き止めるため、病原が含まれているとおぼしい液体を片っ(ぱし)から濾過(ろか)器に通し、何度も検討・検証した。しかし、黄熱病の病原は分離できなかった。何故(なぜ)なら黄熱病の病原は細菌ではなくウイルスだったからである。細菌を濾過し分離・特定するのには、「素焼き」の濾過器を使う。植木鉢などを思い浮かべて貰えばよい。細菌の大きさは1ミクロンほどだ。つまりウイルスの10倍である。素焼きの濾過器の目は1ミクロン未満であるが、0.1ミクロン未満まではいかない。つまり、当時の素焼きの濾過器ではウイルスを分離・検出することはできなかった。こうしたこともあって、あわれ野口英世は、黄熱病の病原を発見するどころか、黄熱病ウイルスに(むしば)まれて没してしまったことは歴史上の事実として記憶されている。

 素焼きの盃や鉢にぴったり口をつけて空気を吸い込むことができるかどうか、イメージすればいろいろと納得できるだろう。ウイルスの10倍の直径を持つ細菌を()すことのできるものから空気を吸おうとしても、それが至難であることは知れ切った理屈である。ましてウイルスをや。

 逆に言うと、不織布でせいぜい鼻や口の周りを覆うだけのマスクに0.1ミクロンの細かさを要求すると、吸気のための抵抗が大きすぎ、マスクの目からはほとんど空気など通行できない。ではどこから空気が入ってくるのかと言うと、鼻や目やあごの下に空いた隙間から入ってくるのである。実際、そうした「性能の高さ」を売り物にするマスクを入手し、普通にこれを着け、両手の親指と人差し指で輪を作り、マスクの上から鼻や口の周りをその指の輪でしっかりと押さえつけ、マスクを通った空気のみを吸って見るがよい。(なさけ)()(かな)、多分、息苦しくて5分ももたないだろう。

 だから、ウイルスの濾過云々(うんぬん)だけを取り上げてマスクの効能を論じること自体、まるで意味がない。

 (しわぶき)や咳のための(たん)(つば)鼻水(はなみず)鼻糞(はなくそ)等体液や汚物の飛沫(ひまつ)を直接まき散らさない、あるいは直接浴びない、また吸気の乾燥を防ぎ保湿することにより炎症をやわらげる、そういった効果こそがマスクの効能であって、それは上のように少し考え、実体験を積んでおればわかることだ。そして、われわれマスク好きの日本人には従来からわかりきったことであった。

虚業の虚言に腹を立てる私

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 新型コロナウイルスの猖獗(しょうけつ)は増々その度合いを強め、世界的大災禍の様相を呈しています。

 「在宅で仕事をせよ」ということが社会的()となり、最早(もはや)国是(こくぜ)とも言いうる状況となりました。

 人々の声はまるで、「在宅で仕事ができないような職場で働かざるを得ないのは、それは努力と知能が足りないのだ、それで病気になって死ぬのは、昔からの努力が足りない報いだ」とでも言いたげです。誰一人としてそんなことは言っていないのかも知れませんが、私にはそのように感じられ、耳に響く気すらするのです。

 ごみの収集を在宅でできるというのならやって見せてください。
 犯罪人の逮捕を在宅でできるというのならやって見せてください。
 火災の消火を在宅でできるというのならやって見せてください。
 救急車で病人を運ぶことが在宅でできるというのならやって見せてください。
 水道局での水質検査と機器の運転を在宅でできるというのならやって見せてください。
 電車の運転を在宅でできるというのならやって見せてください。
 発電所の機器の運転を在宅でできるというのならやって見せてください。
 バスの運転を在宅でできるというのならやって見せてください。
 旅客機の操縦を在宅でできるというのならやって見せてください。
 Amazonの商品を玄関先に届けることが在宅でできるのならやって見せてください。
 亡くなった方を火葬し遺骨を丁重に集め骨壺に納める仕事が在宅でできるのならやって見せてください。
 どうか、高層ビルやタワーマンションを在宅で建てて見せてください。
 あなたの戸建ての自宅を、「在宅で建ててください」と、工務店で言ってみてください。
 (きた)る夏必ず来るであろう水害や雨害を防ぐための水防工事、下水工事が在宅でできるのならやって見せてください。

 皆さんが熱を出し、嘔吐し、呼吸困難を覚えて苦しんでいるとき、「在宅テレワーク医師」「電話看護師」などという怪しげなもので手厚い看護が受けられ、それで十分だというなら、なるほど、是非そうしてください。

 政府は布製マスクを配ると言いました。何が布製マスクだと噛みついているわけのわからない人々もいます。そういう方々は、布製マスクの受け取りを拒絶すべきだと思います。そのマスクは、必要としている人々が貰い受けるでしょう。文句を言うなら、断固拒絶してください。

 皆さんはトルストイの「イワンの馬鹿」という作品を読んだことがおありになりますでしょうか。人々をそそのかす悪魔は、「頭を使って働かぬような者はクズだ」というようなことを言い立て、しかし、象徴的な高塔の天辺(てっぺん)から、頭を下にして真っ逆さまに落ちていき、階段で頭をゴツンゴツンとぶつけ、自分の手足を使って真面目に働いている農民からは「頭を使って働くってそういうことなんだ」と(さげす)まれて笑いものになり、散々な目にあいました。

 皆さんが尊ぶ「テレワークで十分な仕事」など、トルストイの悪魔の虚業に過ぎません。そんなことをまるで立派なことのように威張られると不愉快です。

読書

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 引き続き約60年前の古書、平凡社世界教養全集を読み進めている。第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、二つ目の「東の国から」を読み終わる。

 著者ラフカディオ・ハーンは言わずと知れた帰化名小泉八雲その人であり、私などは子供の頃、彼が編輯(へんしゅう)した「怪談」の子供向けの抜粋で「耳なし芳一」を読み、ゾクゾクしたものだ。

 この「東の国から」は英文で書かれたものの翻訳であるが、翻訳が非常によい。美しく、読みやすい。訳者は上田保と言う人で、解説もこの人だ。英文学者で、慶応大学の教授であったという。昭和48年(1973)に没している。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、「東の国から」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.135より

 私たちは、東洋人が「自然」を見るようには――つまり、東洋の絵によって、そう見ていることがわかるようには、「自然」を見ていません。私たちは、東洋人ほどリアリスチックに自然を見ていませんし、それほど身近に自然を知りません。というのは、その道の専門家の場合は別として、私たちは自然を、人間になぞらえてながめています。

 次の部分は、日本に対する失望と無念が行間に表れて、逆に美しい。

p.169より

 私がこの地蔵堂をもういちど訪れるまでに、五年の年月がすぎてゆきましたが、その間私が住んでいたのは、開港場からずっと離れたところでした。私のなかにも、私のそとにも、たくさんの変化が、その間に起こりました。日本の美しいまぼろし、はじめて日本のあやしい魔力に接したときに感じるふしぎな魅力は、たしかに私のなかに、ながく残っていましたが、それもとうとう完全に色あせてしまいました。私はいまでは、魔法からさめた思いで、極東をみることを覚えましたが、過去のそうした気持を、すくなからず、いつくしんできました。

 次はE.S.モース Edoward Sylvester Morse の「日本その日その日」である。