柔道の団体戦は日本が勝利した。健闘したフランスの選手たちも称えられるべきだが、日本の実力がまさったというところだろう。
ところで、テレビの画面には「圧巻の3連覇」と字幕が出ている。「圧巻」という言葉の使い方が違うと思う。「壮観」とでも言えばいいと思うのだが。
オッサンは生きている。
柔道の団体戦は日本が勝利した。健闘したフランスの選手たちも称えられるべきだが、日本の実力がまさったというところだろう。
ところで、テレビの画面には「圧巻の3連覇」と字幕が出ている。「圧巻」という言葉の使い方が違うと思う。「壮観」とでも言えばいいと思うのだが。
引き続き60年前の古書を読んでいる。平凡社の「世界教養全集」だ。目下3冊目の「第3」を読んでいる。
「第3」には収載作品が五つある。その内、倉田百三の「愛と認識との出発」、鈴木大拙の「無心ということ」、芥川龍之介の「
「侏儒の言葉」は、子供の頃にこの本で一度読んだことがある。その頃は皮肉な感じが好もしく感じられたが、今はそれを、あまり魅力とは感じられなくなっている。子供の頃の読後感に比べると、どうしても、自殺直前に書かれたという作品の性格の方が、皮肉さよりも気になってしまう。
作品の後半に向かって「芥川龍之介が堕ちていく感じ」が、大人になって芥川龍之介の自殺のことを、子供の頃よりも深刻な事件として再認識している私には、何やら薄ら恐ろしく感じられ、寒々とした荒涼を覚えざるを得ない。
「美しい模様のある衣服」とか「種々の色で模様を施した衣」等と辞書等にはある。
しかし、どうやらそれだけの意味ではないようだ。漢籍に「綵衣
そこからすると、この「綵衣」という言葉には、「幼児が着る明るい色の衣服」というような意味合いがあるようだ。
「
しかし、今「筋斗雲」で検索すると、大ヒットアニメ「ドラゴンボール」に関することばかりが出てくる。
「ドラゴンボール」については、私はよく知らないから話を戻す。
単に「筋斗」という場合は、これは筋斗雲のことではない。
「筋」というのは「觔」の別字だそうな。筋斗雲も本当は「觔斗雲」と書くのが正しいらしい。で、この「觔」というのは、木を切る道具のことだそうである。「頭が重く柄が軽い道具」らしい、ということまではネットでわかるが、どのような形のどういう物かまではよくわからない。
さておき、この道具は頭が重いために「くるくるとよく回る」ものだそうである。回して使う物なのかどうかもよくわからないが、ともかくそういうものだそうだ。そう言えば、頭が大きくしっぽが小さいオタマジャクシのことを「
ともあれ、上述のようなことから、「とんぼ返りを打つ」ことを「筋斗を打つ」と言うそうな。「筋斗」とだけ書いて「とんぼ」と
わたしはこの
綵衣 を纏 い、この筋斗 の戯 を献 じ、この太平 を楽しんでいれば不足のない侏儒 でございます。
文脈から推し測るに、「
更に前後の文脈を読むと、要するに芥川龍之介は志も何も持たない
そして、作品を「侏儒の言葉」と題しているのは、もちろん反語的皮肉であろう。
これは学校の国語で習うから、確認は無用だ。次のサイトさんに詳しい。
……
古 えの管鮑 の交 わりと雖 も破綻 を生ぜずにはいなかったであろう。
文中にも菊池寛の作品であることは触れられている。
しかし、この「啓吉の誘惑」なる作品のあらすじは、ネットでチョイと検索したくらいでは出てこず、また作品も青空文庫等にはない。
しかし、ご安心あれ。「啓吉の誘惑」は、「国会図書館デジタルコレクション」を使えば、無料で読むことができる。
「啓吉の誘惑」は、上の「啓吉物語」の後ろの方、401ページから収録されている。「コマ番号」は全245コマ中第207コマから229コマまでだ。
短編で、すぐ読める分量だ。私もたった今読んでみた。
なるほど、触れられている通りの作品である。題名からだと啓吉という人が誰かを誘惑した物語であるように感じられるが、そうではなく、啓吉が誘惑を感じる、あるいは誘惑される、という筋書きで、むしろ「啓吉の『誘惑』」と括弧つきで題するか、単に「誘惑」とのみ題するか、どちらかが
作家の啓吉は妻と幼児の三人家族で暮らしている。育児も手がかかって大変であるため、かねがね女中を雇い入れたいと考えていた。
そこへ啓吉のファンであるという美しい女が雇ってほしいと訪ねて来る。地方から上京してきたその女は妻とも打ち解けて仲良くなり、歓迎されて啓吉の家の女中となる。やがて、啓吉はその女の無邪気さに心惹かれてゆく。
女は妻にも気に入られているため、啓吉は妻公認で女を連れて浅草へオペラを見に行くことになる。その際、女の着物が地方から着てきたままのみすぼらしいものだったので、妻は快く女に着物を貸す。
オペラの帰り、女と夜の隅田川辺りを歩いた啓吉は、夜のムードもあって恋愛の感情が女に対して高まるのを覚える。しかし、女の着物が妻からの借り着であるのを見、妻のことを考え直して自制する。
やがて女は地方へ帰ってしまう。
しばらく経って、風の噂に、その地方では女の評判は好ましくなく、「高級淫売」ではないかとの推測もあることを啓吉は聞き、嫌な後味を感じるとともに、女の誘惑に乗らず、自制してよかったとも思うのであった。
少なくとも女人の服装は
女人 自身の一部である。啓吉 の誘惑 に陥 らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。
「凡才」と読み替えても差し支えない。
しかし、「凡庸」などという言葉などもあるものの、「凡才」というほどには馬鹿者・愚か者的な蔑視感はなく、なんとはない才能もなくはないが、全然人並みだ、というようなニュアンスを含めて「庸才」と言っているように思う。
庸才 の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。
意味は簡単で、「手段を誤っていること」だ。
だが、文中での用法はなかなか反語的で味わい深いというか、理解しづらいところがある。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に
縁 って魚を求むる論法』よりも信用を博 し易 いかと思います。……
「かたよること」だ。
「偏」は「かたよる」だが、「頗」は「
まあ、「すこぶる偏り、
……『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には
偏頗 の疑いを招かないとも限りません。
この難しい「偏頗」なる言葉、「偏頗返済」「偏頗行為」などと言って、債権~債務などにかかわる法律用語である。
「陳」という字は仮名を「い」と送って「
一方、「
こうした意味・字義から、「陳套語」とは、古くて古臭い、新鮮味もクソもない言葉のことを言う。
……東洋の画家には
未 だ嘗 て落款 の場所を軽視したるものはない。落款の場所を注意せよなどというのは陳套 語 である。それを特筆するムアァを思うと、坐 に東西の差を感ぜざるを得ない。
「雷」は言わずと知れた「カミナリ」であるが、「
……哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒りを
和 らげる訣 には行 かないであろうか?
「雷のような怒り」と書けばよいところをわざわざ「雷霆の怒り」と書くのは、雷よりもなお雷であるところの大きな激しさ、また文学上の誇張・拡張・表現をガッチリと詰めた書き方と思えばよかろうか。
「籌」とは竹でできた算木のことだそうだ。
「輸」の字の方には、「輸送」という言葉があることから見ても解る通り、「おくる」「はこぶ」という意味があるが、また別に「負ける」「敗れる」の意味があるそうな。
その心は、
ここで、「一籌を輸する」である。上記を併せて味わうと解るように、「ひとつ、もっていかれてしまう」即ち「一歩負ける」という意味なのである。
わたしも
亦 あらゆる芸術家のように寧 ろ譃 には巧みだった。がいつも彼女には一籌を輸する外はなかった。彼女は実に去年の譃をも五分前の譃のように覚えていた。
一定の収入(恒産)のない者は安定した穏やかな心や変わらぬ忠誠心(恒心)を持つことは難しい、という意味で「恒産なくして恒心無し」との故事成語がある。「衣食足りて礼節を知る」と似たような意味であろう。
恒産 のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日 では恒産のあるものは寧 ろ恒心のないものらしい。
ノーベル文学賞作家。江戸時代~大東亜戦争終戦後くらいまで。
……「知慧と運命」を書いたメーテルリンクも知慧や運命を知らなかった。
「新生」というのは、ここでは島崎藤村の同題の小説のことを指しているが、芥川龍之介はこれをたった数語で痛烈に批評している。
「新生」読後
果たして「新生」はあったであろうか?
島崎藤村は相当にダメな人物で、よりにもよって自分の姪を妊娠させてフランスへ逃亡し、
当時、芥川龍之介はこのことを批判して
スウェーデンの変人小説家。ニーチェの影響を受けていた。
ストリントベリィの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。
ニーチェがむしろ愛しているふしのある、ドイツの哲学家。
マインレンデルは
頗 る正確に死の魅力 を記述している。
「スウィツル」。これがまた、サッパリわからない。
或日本人の言葉
我にスウィツルを与えよ。
然 らずんば言論の自由を与えよ。
検索してみると、どうやら「スイッツル」というのは古い「スイス」の呼び方のようではあるのだが、だが、もしそうだとして「私にスイスを下さい。そうでないなら言論の自由を下さい」というふうにこの文を理解しても、その真意や背景がまるで判らないので、意味もサッパリ解らない。
またしても、サッパリわからない。
いや、ジュピターは言わずと知れた「木星」、ローマ神話の主神「ユピテル」のことではあるのだが、問題はそれが現れる文脈である。
希臘人
復讐 の神をジュピターの上に置いた希臘 人よ。君たちは何も彼 も知り悉 していた。
ローマ神話をさかのぼるギリシャ神話で、復讐神をジュピターの上に置いていたのかどうかがわからない。だから、この一節の言わんとするところが全然わからない。
ともかく、そんなことで「侏儒の言葉」は全部読み終わった。
目下、次の著作、三木清の「人生論ノート」を読み進めつつある。半分ほど読んだろうか。
鈴木大拙の「無心ということ」を読み終わる。平凡社の60年前の古書「世界教養全集第3」に収められている。
「こういう風にしたい」「こういうふうにあるべきだ」という分別・差別・区分、あるいは
また、大拙師はそれを概念・観念として捉えたり理解しようとしたりすることを戒めている。曰く「宗教とは論理的把握ではなく体験である」と。自ら境地を体験するのでなければならないと言うのである。
この著作を読むに先立ち、ウィル・デュラントの「哲学物語」、モンテーニュの「随想録」、ロシュフコーの「箴言と省察」、パスカルの「パンセ」、サント・ブーヴの「覚書と随想」、そして日本人ではあるが倉田百三の「愛と認識との出発」という順序と組み立てで西洋哲学を速習してきた。実は、これらにはウンザリした。
だが、鈴木大拙師の説く「無心」は、スッと心に入る気がした。
これを南無阿弥陀仏の一句子にまとめて、我らの面前に抛向したのが……
文字
だが、この「抛向」というのは禅宗でよく使う言葉らしく、単に「放り投げる」というだけの意味には使わないようだ。
検索すると「
「提示する」と言うと丁寧過ぎるから、ありのまま、更に言うならぶっきらぼうに、弟子や他の人の目の前に放り出して見せ、相手が自身の力で真実を掴むように仕向ける、そういう宗教体験の伝達のようなことを指して「抛向」と言っているのでもあろうか。
まことに難しい字
次に心学の祖である石田梅巌の『
都鄙 問答』中にある、南無阿彌陀仏観を紹介してみましょう。これにもまた往生はこの土での往生、往くことなくして往くところの往生だとの義を闡明しています。
無心の働きということは、実際無心の境地を何かの方面で体得したものでないと、いくら説いても画餅飢えに充らずということになるのでしょうか。
特段難しい言葉というわけではないが、読んでいて、ハテ、「アタらず」だろうか、「ミタらず」だろうか、とひっかかった。
「絵に描いた餅では空腹を満たすことはできない」という意味であって、意味さえ判っておれば
「
ここは闊達な口述の講義録を編集したという本著作の性格から言って、「ミたらず」と
そこで
雪竇 の道 わく、「争 でか如 かん独り虚窓の下に坐せんには」と。
「アラソイでか」ではなく、「イカでか」である。「争でか如かん」とは「なんでそのようになるだろうか」というほどの意味だ。だから、「争でか如かん独り虚窓の下に坐せんには」というのは「孤独に虚窓の下に坐している者に、どうしてそのようなことがあろうか」という意味になる。
心学というものが、徳川時代の末ごろに江戸したものですが、……
これがまた、聞いたことも見たこともない表現だ。検索してもわからない。だが、前後のコンテキストから判断するに、どうやら「都会で取り上げられて、盛り上がりを見せてきた」というような意味で「江戸した」と言っているように思う。
しかし、注意が必要なのは、当時、物でも文化でも、上方から東海道を経て江戸に入ってくるものは「
……「雲門室中に垂語して人を接す、
汝等 諸人脚跟 下に各〻 一段の光明あり、今古 に輝騰 して、逈かに見知を絶す。然 も光明ありと雖 も、……
普通に「はるかに」というそのままの意味でよいようだ。
……若し明暗を坐断せば、
且 く道 え是箇の什麼ぞ
なんとまあ難しい言葉だこと。こんな言葉は聞いたことも見たこともない。
禅語でよく使われる言葉のようで、「じゅうま」も「いんも」も、どちらも同じ意味のようだ。「什麽ぞ」というのは、「なんぞ」「いかにぞ」と
ところが概念の世界もそのもとは体験の世界なので、体験を離れて概念はないのである。概念の世界は地図の世界で、この世界も天文も一目の下に見ることは誠に結構だが、それは実際に踏んだ山や川、そのものではないのである。それ故概念の世界だけなら、天地を一呑みに呑みほしてしまうともいわれ得る。何でもないことだ。だが、宗教の世界では、つまり体験の世界では、むやみにそういうことはいわれない。が、宗教の世界でも天地を掀翻する、そういうこともいう。しかし概念的掀翻と体験的掀翻との間には大いなる差異がある。これを知らなくてはならぬ。
平たく言えば「ひっくり返してしまうこと」だ。
だが、もう少し深いところを言っているようにも思う。西洋哲学で言う「
ところで、引用の部分は、本著作の中ほどの「熱い……」ところにある。大拙師が「仏教は概念や知識ではなく体験である」ということを、手を変え品を変え、切々と説いているところであり、本著作中の重要部分の一つであると私は思う。
……自分らが今いわんと欲するところの見性体験と、大いに逕庭あるを覚ゆるのもやむを得ぬ。
「隔たりがある」という意味である。
これがまた難しい言葉で、聞いたこともない。特に「封疆」の「疆」の字の
……恵寂は恵寂で、どこへでも流用せらるべき名ではないのだ。各自その封疆を守るべきである。
さかいめ、国境、仕切りのことを「封疆」というそうな。
……この呵呵大笑が大なる曲者だ。この一条の問答は、この一句の点破により、無限の妙趣を添え来たるのである。錦上に花を鋪くというべきであろう。
「錦上に花を添える」という言葉は聞いたことがある。二つの意味があり、一つは「より美しくする」、もう一つは「わざわざ余計なものを付け加える」だ。
「
上の引用の通り、本著作中では「よりよくする」という方の意味で使っている。
これもまたサッパリわからない、難しい言葉である。検索すると禅宗関係のサイトがよくヒットするから、禅宗ではよく使う言葉なのであろう。
道を見て
方 に道を修する、
見ざれば復 た何をか修せん。
道の性は虚空の如し、
虚空に何の所修かあらん。
徧 く道を修するものを観るに、
火を撥 って浮漚 を覓 むるが如し。
但〻 傀儡 を弄するものを看 よ、
線断ずるとき一時に休する
全体としては「ゴールに到達するための正しい道すじなんてものは存在しない、道なんかない」というふうに突き放したようなことを言っていて、このコンテキストから意味を
私自身のことであるが、こうした言葉に非常に救われるように思う。近頃、「意志の力」だなどとヒトラーみたいなことを言ってみたり、あるいはまた、体系だ仕組みだ改革だ目標だというようなことを言い立てて他人を苦しめ、実際には
「世界教養全集第3」。鈴木大拙の「無心と言うこと」の次に収載されている著作は、ぐっと色が変わって、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。これは小学生の頃に読んだことがある。なかなか皮肉な文章のオンパレードであったように記憶している。反権力、反道徳、アナーキズム風の味わいだけが胸底に残っていて、細部の記憶は消えている。あまり剛直・単純な強者の言葉、質朴・正直な箴言とも思えなかったように記憶しており、今となっては嫌な感じもするが、反面、数十年ぶりの再読は楽しみでもある。
平凡社の世界教養全集第2巻を読み終わった。
今、収載の最後、フランスのモラリスト文学者、サント・ブーヴの「覚書と随想」を全部読み終わったところである。
作品は当時のフランスの人物批評などが過半を占めるため、それら人物の作品や時代の空気を知らなければ殆ど意味不明である。勿論、私も登場する人物については、ごくわずかな人数と、その作品をひとつ知っているかどうか、という状況であった。
この作品は、ちと口幅ったいかもしれないが、不肖・この私にして知らない言葉や漢字がたくさん出てきた。もちろん海外文学であるから、原著に難しい漢字が書かれているわけではないに決まっており、これは翻訳者の癖なのだろう。翻訳者は権守操一(明治41年(1908)~昭和47年(1972))というフランス文学者である。
「齷齪」。難しい漢字である。これで、「あくせく」だそうな。
「誄辞」。難しい漢字である。
「誄」という漢字は、音読は「るい」だが訓読は「しのびごと」だそうである。
貴人、国王とか皇帝とか、そういう地位の人の死へのおくやみに使う敬意の言葉である。
訓み方がさっぱりわからなかった。知らない言葉である。
「淬」は音読みで「サイ」だそうだが、動詞として「ぐ」を送ると、これで「
意味は鋼鉄に
この「淬を入れる」の前後のコンテキストは、
(前略)彼の精神は、さながら、淬を入れた鋼鉄に似ているが、しかし、その淬は少々強すぎるようだ。というのは、出来上がった剣は、何かを突き刺す度ごとに折れてしまうので、彼は、再び、剣を造り直さなければならないからだ。
思うに、音読してみて「ニラを入れる」「そのニラは少々強すぎるようだ」と訓むのはなんだか変だし、さりとて、「サイを入れる」「そのサイは少々強すぎるようだ」というのもおかしいように思う。「ニラギを入れる」「そのニラギは少々強すぎるようだ」と訓むと近いような感じだが、あまり聞きなれない。
ここは「
「
さて、次は同じく平凡社世界教養全集第3巻、「愛と認識との出発/無心と言うこと/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」である。前2巻は西洋哲学~フランス思想であったが、一転して倉田百三・鈴木大拙・芥川龍之介・三木清・亀井勝一郎と、日本の著者揃いである。
いつも通りかかるご近所の瀟洒なお宅の庭に、大きな芙蓉が咲いた。華やかだ。そのお宅は庭の手入れがよく、毎年大輪を咲かせている。
梅雨が長引くが、まあ、こんなものだろう。
ほんと、病人にキビしいよな。オバマなんちゃらの時も、日本の医療事情と比べて、いやはや、と思ったものだったが。
アメリカに出張した時、車にはねられたりしなくてほんとによかった、と、帰ってきてから安堵したものだったが。アメリカで大怪我して病院に担ぎ込まれると破産するんだそうで。
もっと困るのは心臓や脳の急病で病院に担ぎ込まれ、治療したが甲斐なく死亡した、なんて場合だそうだ。死んでしまったわ、莫大な請求書を突き付けられるわ、遺族はえらい目にあうらしい。
仁德天皇陵が世界遺産に登録されたそうな。
私は大阪府堺市生まれである。仁德天皇陵は子供の頃から見慣れた大古墳で、当時は世界最大の墳墓と言われたものである。実際、投影面積では始皇帝陵やクフ王プラミッドをもしのぐ大きさだ。
仁徳天皇の実在を疑うような学説も多いが、そんなこと、気にしなくてよろしい。
しかしそれにしても、「世界遺産なんだから直ちに暴け!」みたいな変な学者の声を大きく報じるのもどうなのかね。むしろ、世界遺産だからこそ、これまでより以上の管理と静謐、平穏と安定が求められるのと違うか?
いやまあ、ほんと、こんな逆
「むしろ日本が」て、ハハハ……。
ま、整斉粛々淡々と、貿易コントロールは続くんだろうね。韓国企業の社員さんたちもご苦労なこって。自分たちが悪いわけでもなかろうにな。
しかし、例の射統レーダ照射された時だって、難船を救助していたとか言ってるけど、さしずめ、こういう戦略物資でも横流ししてたんじゃねえの?
稀代のプロデューサー、ジャニー喜多川氏が死去したそうな。
今52歳の私などが子供の頃から、ジャニーズ事務所のタレントは、例えばあおい輝彦やフォーリーブス、田原俊彦、近藤真彦など、多くが活躍していたものだ。
なんで「アベ謝れ」みたいな筆致の記事にするのか、サッパリわからない。
もちろん、いわれなき差別を受け、言語に尽くしがたい苦難にあってきた原告の人々に対して、当時の社会や政府になりかわり、国を代表して謝罪するとすれば、安倍総理が適任と言うことにはなるが、それはやむなくそうなるのであって安倍総理が悪いわけではない。悪いのは当時の社会や政府や行政、医学、ひいては科学技術である。もっと言えば、悪いのはアナタであり、私である。アナタや私の代わりになって、代表で内閣総理大臣に謝ってもらうということである。
ところが、記事やそのタイトルはまるで「アベ謝れ」である。
多分、記事と記事の書き手が変なのであって、原告もこれだけを言い立てたわけではあるまい。ほかにもっといろいろな思いを述べたのだろう。それをバッサリ切り捨てて、「アベ謝れ」みたいに見える記事を書いて人々の目に見えるところにぶら下げる。もちろん、記事に「アベ謝れ」などと書き込まれているわけではない。だが、そのように見えてしまう。
つまり、朝日新聞としては「いえいえ、弊紙は『アベ謝れ』などとは一言も書いていませんでございますヨ(冷笑)」と逃げおおせてしまえるわけだ。卑怯で悪辣な記事である。
考えてもみれば、このハンセン氏病問題は民主党政権時代もずっと存在していたわけである。だが、それなのに、「解決に至らなかった旧政権の関係者は謝れ」なんてことを書く新聞が一紙でもあるか?
まあ、選挙の前だし、ねえ。ホンット、新聞ってイヤだよ。……って言ってて、新聞がなきゃ今の社会の構造はやっぱり成り立たないんだけどさ。
有名人の訃報もあって、生前、死後、と言う言葉を味わってみた。胸に迫り、冥福を祈りたくなる。
だがしかし、なんだか変な感じがする。
「生前」という言葉があるなら、「生後」という言葉があってしかるべきであり、実際、この言葉はある。例えば生まれたての嬰児のことを言う時、「生後まもないxx君の写真」などと言い、かつ書くということには疑義はない。
しかし、「前後」の関係がおかしい。死ぬ前のことを生前と言うが、それなら「生後」は死んだ後のことであるはずだが、実際は生まれた直後のことを生後という。逆に、生まれた直後のことを生後と言うなら、生まれる前の事は生前と言わねばおかしいが、実際は死ぬ前の事を生前と言う。下の図の通りである。
そうすると、「死後」と言う言葉に対して、「死前」という言葉がなくてはならないはずだが、死んだのちのことをあらわす「死後」に対して、死ぬ前の言葉として「死前」なんて言葉があるかというと、これは耳にも目にもすることはない。
こう考えてみて、全部を列挙してみると味わい深い。「生」に対する「死」、「前」に対する「後」、あるいはその間を表す「中」もあろうか。
組み合わせ | そんな言葉があるかないか |
---|---|
生前 | 〇 |
生中 | × |
生後 | 〇 |
死前 | × |
死中 | 〇 |
死後 | 〇 |
「『死中』なんて言葉はナイ!」と言われそうだが、「死中に活を見出す」などという慣用があるから、ないこともない。ともあれ、全部の組み合わせをこのように書き出してみると「生中」と「死前」と言う言葉だけが、ない。
言葉の有無はさておき、なんだか、「前」「中」「後」という時間的な系列が変である。
ネットをぼんやり見ていたら、
立憲民主党・枝野幸男代表が内閣不信任案を提出する場面で約3時間の演説を行った件について、書籍化された本が本屋でバカにされていることが分かった。
……などとある。
うーん。「書籍化された本」って、なんだ。書籍と言うのは本ということで、本と言うのは書籍ということだ。……いや、深く味わうと、「書」が「籍」に入る、つまり、書き手によって
だから、ここは「書籍化された本」ではなく、「出版された書籍」とでも言うべきではなかったか。
……とでも書けばいかがであろうか。字数の関係でそれがダメだったというのなら、
ではいかがか。この一文、それ以上に盛り込む情報などあるまい。無論、前者と後者の間にはさまざまなアレンジがあるから、仕事上の字数制限に従いお好み次第であろう。
断っておくが、このこと、単に文章とか書き方にケチをつけているに過ぎず、内容に関しては何ら一切文句などないことをここに記し添えておく。
開高健の「最後の晩餐」と入れ替えに、この本、「酒と肴と旅の空」を図書館から借り出す。
食べ物に関する随筆集で、編者は池波正太郎だ。
この本収載の丸谷才一の随筆に出てくる。「幕末の味・
そういえば「
庭
全国各地では停滞する梅雨前線の影響による豪雨被害のために
ところが、一体に関東、特に東京周辺は静かなもので、そのギャップに
Twitterなどちょっと覗いてみると、無策の政府を非難する声と、サッカーの中継以外に能のないマスコミを非難する声が
そんな昨日今日であるが、個人が盲動また妄動してどうなるものでもない。垂れ込めて、引き続き開高健「最後の晩餐」を読む。
ベデカー(独: Verlag Karl Baedeker)は、近代的旅行案内書の草分け的存在を出版しているドイツの出版社、および、その会社が出版する旅行案内書。
出典:デジタル大辞泉(小学館)
1 長く使っている間に、手のあぶらがついて自然に出たつや。転じて、故人が身近において愛用したもの。
2 「手沢本」の略。
類語
手垢(てあか)
食通。著書に「食」。
しかしマァ、ボンボンそのものではあるワナ。そりゃ、世界各地の野食美食のあれこれに精通もできようて。
ずぅ~っと、ずっと、「ていえいかん」だとばっかり思っていた。漢字の
しかし、Googleに「ていえいかん」と入れると、検索アシストに「
小さい頃から可愛がってくれた伯母だ。弔電を打ち、香典を書留で送る。しかし折柄、身動きもならぬ。仕方もなし。
じっとしているより他ない。夕刻、バタピーなぞで一杯やる。言うなら「乾きて
開高健「最後の晩餐」、ゆっくり読む。
まず、「
ルイ16世はニコニコ笑って大喜びし、もう一度やってくれとたのむ。おかみさん連中はいよいよはずみ、大声で身ぶり手ぶりを入れつつ合唱したとのことである。こういうエピソードを読んでいると、つい、どうしても千代田区丸の内・一の一の一にある竹の園生と思いくらべずにはいられなくなるが、
「食いしん坊」のことを表す古語としてこの「
では、饕餮から。
これは古代の中国人が創造した食いしん坊、大食家、美食家の文字であり、イメージであるが、ただの美食家、大食家ではすまないで、貪婪の怪物だというイメージである。殷代の青銅の
鼎 の胴によく文字とも文様ともつかぬ古怪、玄妖の獣がうずくまってこちらをギロギロ睨 んでいるが、あれだ。ほとんど抽象化されかかっているけれど、怪獣である。一つの体に頭が二つあって、足は六本。顔は竜、虎、人間、さまざまである。左右、正確な対称になっている。『饕餮文』と呼ばれているが、青銅器だけではなく、ときどき皿に描かれていることもある。食というものの底知れなさ、物凄さという本質を古人はすでに早く見抜いてそれに対する畏怖からこういう怪物を創りあげたのだとすると、それら無名人たちの想像力と抽象力は非凡なものだといわねばなるまい。大食いをするとこんな怪物になっちまうぞという警告であるのならば、それもまたみごと。