読書

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 約60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻に所載の評論「恋愛論」を読む。

 フランスの小説家、スタンダールが(もの)した評論である。

 何分(なにぶん)昔の著作であるので、どうも男より女を低く見ているようなところが否めない。現代では受け入れられないように思う。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」より引用。以下の<blockquote>タグも同じ。
p.257より

 憎悪も結晶作用を持つ。恨みを晴らす希望が生じるやいなや改めて憎み始める。

 「結晶作用」というのは、スタンダールが本論で提示した恋愛における主要現象の一つである。恋する者が相手に想像上の価値を付け加えていく様子を、ザルツブルグの塩坑での現象に例えたものだ。

p.249より

 ザルツブルクの塩坑では、廃坑の奥深く、冬葉を落とした木の枝を投げ込む。二、三ヵ月して取り出して見ると、それは輝かしい結晶で蔽われている。山雀の足ほどもないいちばん細い枝すら、まばゆいばかり揺れてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はすでに認められない。

 私が結晶作用と呼ぶのは、我々の遭遇するあらゆることから発して、愛する者が新しい美点を持つことを発見する精神の作用である。

p.257より

 もっとも賢明なる人々が音楽において狂信者であるのは、彼らが彼らの感情の「何故」を知ることが出来ないからである。

 かかる反対者に対し自説を固持するのは容易ではない。

p.277より

 情熱恋愛を感じ得ない男は同時におそらくいちばん烈しく美の効果を感じる男だ。すくなくともこれは彼が女から受けるもっとも強い印象である。

 遠くに愛する女の白繻子の帽子を見て心のときめきを感じる男は、社交界随一の美人が近づくのを見ても、自分が冷淡なのに驚く。他人の熱中を見て、彼はちょっと悲しくなったりする。

 絶世の美人も二日目にはそれほど驚かせない。これは非常に不幸なことで結晶作用を頓挫させる。彼女らの値打ちは誰にもわかり、いわば飾り物にすぎないから、彼女たちの恋人のリストには馬鹿者が多いに相違ない。大公とか百万長者とか(<1>)

<1> 著者が大公でも百万長者でもないことはいうまでもない。私がこの機智を弄するのはちょっと読者に先廻りしたいと思ったからにすぎない。
p.301より

 もし女特有の自尊心の強い女の前で、悪口を笑って受けたりすると(これは軍隊生活の習慣からあり勝ちなことだ)、諸君はこの気高い魂をがっかりさせる。彼女は諸君を卑怯者と思い、間もなく侮辱するようになる。こうした高慢な性格は他の男に容赦しないような男に屈服するのを喜ぶ。とにかく我々は女の側へつかねばならぬ。恋人と喧嘩しないためには隣人と喧嘩しなければならないことはよくあるものである。

 上記、「ああ、いるよなァ、こういう女」と深く共感した(笑)。

言葉
諂い

 これで「(へつら)い」と()む。

下線太字佐藤。以下の<blockquote>タグ同じ。
p.246から

多少とも諂われもしくは傷つけられた虚栄心は熱中を生ぜしめる。

佯る

 これで「(いつわ)る」なのだという。

p.252より

 恋する女は自分の感じる感情にあまりにも幸福であるから、上面を佯ることはできない。

スタンダリアン

 熱烈なスタンダール・ファンのことをこう言うらしい。

p.297訳者注より

(11) Vol.Guarna――スタンダリアンはVol=Volterreすなわち前出スタンダールが一八一九年六月メチルドを追ったヴォルテルラ。Guarna=giorgi彼の恋敵の若い士官ジョルジュと解読している。「彼女は親しげに彼によりかかった」
揶揄った

 これは()める向きもあるかもしれない。「揶揄(からか)う」である。

p.302より

フランソア一世の王妃付きの若い女官を皆がその恋人の浮気について揶揄った

桃金嬢

 「モモカネジョウ」ではない。これで「桃金嬢(てんにんか)」、と訓む。「天人花」と素直に書けば良いようなものだが、文脈に床しさが溢れ出て、これはこれで良い。

p.313より

ごらん、あそこに小川が
桃金嬢を洗っているところ
あそこに私の憩いの場
私のお墓を立てるだろ。

 まだ半分ほどしか読んでいない。引き続き本論を読む。

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 冬物の黒ズボンをもう一本、ユニクロのオンラインストアで注文した。気に入ったサイズのものがなかったので、1サイズほど小さいものを選んだ。気に入っているサイズがなかったのは残念だが、いつも選ぶのはピッタリよりもだいぶ大きいサイズのものなので、1サイズ小さくしたからと言って着るのに多分支障はないだろう。

 さておき、60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻。引き続きゆっくり読んでいる。

 収録著作の二つ目、フランスのモラリスト作家、ボナール(Abel Bonnard)の「友情論」を朝の通勤電車で読み終わった。

 友情を至高の精神的境地として扱っており、うわべの友情や、男女間の友情を徹底的にこき下ろしている。また、昔の著作であるため、女性を低く見ているように感じられ、多分このような点は現代では受け入れられないだろう。

 本著作は全部で6部からなるが、その第5部で「男女間の友情」について友人との対話の形式で書いている。友人とは論が対立し、結論は出していないが、友人は「男女の間の友情など成立しない。男女間の友情など恋愛の劣化品に過ぎない。そして、女同士の友情は男同士のそれのようには高みに達し得ない」と言い、著者はこれに有効な反論ができない。しかし、こうした論を嫌う人は、現代には多いと思う。

 内容とはあまり関係がないことだが、どうも翻訳が良くないようだ。論が(にわ)かには理解し(がた)い。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))「友情論」(A・ボナール著、安東次男訳)より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.180より

ほんとうの友達は、たがいの隠れた類似から近づくが、凡庸な友達は、うわっ面の類似で近づくものだ。

p.199より

 友情が嘘のおかげで滅びることがあるように、恋愛は、本当のことのせいで滅びることがある。

p.203より

 感情を害しやすい人々の行為には一つの深い理由がある。つまり、かれらが言いわけを聞くのを厭がるのは、持っているつもりの不平の種が消えてしまうのを恐れるからだ。しかるに、それこそ、かれらが何よりも避けたがっていることなのだ。泣き言の種をつねに大げさに言いたがり、そのくせけっしてはっきりとはさせたがらない。かれらは不幸であることを望む。こうした心情の策謀家たちには、忿懣や言いがかりや誤解が必要であって、このような気質はある種の人々にあっては、一種の偏執か悪徳にまで達することさえある。結局のところ、かれらが友情を愛するのは、ただ仲たがいするためにすぎない。

 次の部分は、籠池何某氏に対する菅野(すがの)(たもつ)氏の関係のような感じが、何となく、した。

p.205より

 偽りの友情が偽りの恋愛よりはるかに少ないのは当然のことである。というのは、恋愛などおよそがらに合わない人間でも、肉体の力でそれに引きこまれることもあるからだ。これに反して友情の場合は、たいてい、そんな能力のない人間は、かかり合わない。とはいえ、単に計算や利害だけでは説明のつかぬもっと奇妙な性質の、偽りの友情も存在する。ある種の人々はわれわれに対して、同情のない好奇心ともいうべきものを感じる。かれらは、われわれが正しいというのでもなく、われわれの味方になるのでもないが、まちがっているともあえて言わぬ。けっして助けてくれようとはせず、生きるという劇をわれわれがどんなふうに切り抜けていくかを、見たがっているようだ。世捨て人の生活をいとなむ人々でさえその孤独を囲む生垣の隙から、こうした注意深い間諜の目が光っているのを目にするものだ。この連中は、われわれの友達というよりも、敵のまわし者である。世間は、かれらがわれわれのもとに出入りするから、われわれのことをよく識っていると思うし、じじつかれらは、他人に一切の情報を、そのおかげで世間がわれわれの真の姿を見失うような情報を、提供する役目をひき受ける。かれら慈悲深い中傷家、愛情にみちた裏切者が、われわれの弁護をしてくれることもあるが、それは、一瞬あとでは、かれらの感情の高潔さとともにわれわれに関する悪評の正しさを聞き手に確認させるような性質のものである。こういう連中に対しては、かれらをよく識るということ以外の復讐をしてはならない。われわれの心がかれらから離れる一方、かれらの姿はわれわれの目に喜劇と映る。ときとして、あまりひどい悪口を言ったときなど、かれらは、われわれと出会うとすっかりまごつく。そんなときは、はっきり顔を見つめることができないものだから、握手に力をこめ、やたら甘言をふりまきいきなり、当のわれわれに向かって、他の人にはけっして言うまいと思われるほど、あらゆる賛辞を並べたてる。しかしわれわれは、じつはそれが悪口の裏返しにすぎないというぐらいのことは、すでに見抜いているから、それを聞いて微笑を禁じ得ない。

 次の部分は全論の結語部である。これが「揚棄(アウフヘーヴェン)」というようなことなのかな、と感じられた。

p.236より

 たしかに、人間は、自由で晴朗で高雅な方法でのみ、おのれの力を証明する。かれはこれによってひき起こされる孤独に耐える。だが、もしあまり容易にこの孤独に至りつけば、そんな孤独には何の価値もないであろう。まずはじめに、ありとあらゆる欲求を感じていたということが必要なのだ。その性質が進展していくにつれて、もはや自分とだけしか真の交わりを結べぬまでにいたったときでさえも、いま一度、この状態と、人間嫌いとを、絶対に区別しなければならない。人間嫌いは、怒りっぽくなり、いじけてくる。孤独は、おのれをくりひろげ、純化する。人間嫌いは、相変わらず人間たちの間にとどまりながら、人間たちにバリケードをきずく。孤独な人は、おのれを高めるのであって、閉じこもるのではない。かれの魂は、茨に守られた家ではない。高所にはあるが、いつでも出入り自由な宮殿なのだ。そこには、誰ひとり姿を現さぬとしても、やはり、客を喜び迎えることに変りはない。われわれとともに楽しみにくるはずのあのすばらしい君子たちのために、毎夜、饗宴は催されるのである。すでに発ったが、ひどく遠いところから来るためにすこし遅れるあの婦人のためには、彼女の部屋の豪華な内部装飾まで、すっかり準備が整っている。この祝祭に列するのが、祝祭を開いた当人ひとりだけという結果になっても、やはりこのうたげが、〈友情〉や〈愛〉に対して開かれていたことには変りはあるまい。生きる(すべ)とは、あらゆるものを迎え入れる力を持ちながら、何ものをも持たずに済ますすべを学ぶことである。

言葉

 翻訳なので、難しい言葉はそんなになかったが、しかし古い時代の翻訳であるから、中には読み慣れないものもあった。

穹窿(きゅうりゅう)

 建設・建築方面の言葉で、欧州の古寺院にあるような丸天井のことである。

 さて、次は3つ目の著作「恋愛論」である。同じくフランスの作家、スタンダール(Stendhal)の著作だ。スタンダールと言えば「赤と黒」などの小説が有名だが、自分では小説家ではなく哲学者だと思っていたのだそうで、そのためこの「恋愛論」などの著作もあるのだという。

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 約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集 第5巻」を読んでいる。

 収録著作の一つ目、「幸福論」(アラン著、白井健三郎訳)を読み終わった。

 著者のアランは本名エミール・オーギュスト・シャルティエ Emile Auguste Chartier といい、フランスの哲学者である。

 この「幸福論」は「世界三大幸福論」に数えられるのだという。

 全編を通じて、「体と心、行動と幸福は表裏一体」という点で一貫していて、上機嫌で幸福そうにすれば、それは自分にも周囲にも幸福を伝播させる、だから上機嫌でいるべきだ、というふうに説いている。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.51より

 だれでも求めるものはえられる。若い者はこの点を思いちがいして、棚からぼた(もち)の落ちるのを待っている。ところが、ぼた餅は落ちてこない。そして、欲しいものはすべて山と同じようなもので、わたしたちを待っており、逃げて行きはしない。だがそれゆえ、よじ登らなければならない。わたしの見たところ、しっかりした足どりで出発した野心家たちはみな目的にたどり着いている。しかもわたしが思ったより早く着いている。

p.68より

 男が建設すべきもの、破壊すべきものがなくなるときは、たいへん不幸である。女たち、と言ってもつくろいものをしたり、赤ん坊の世話をしたりして忙しい女たちのことだが、なぜ男たちがキャフェに行ったり、トランプ遊びをしたりするか、たぶんけっして理解できないだろう。自分と暮らし、自分について考え込むことは、なんの役にもたたない。

 ゲーテのみごとな『ヴィルヘルム・マイスター』のなかに、「あきらめ会」というのがあって、その会員たちはけっして未来のことも過去のことも考えてはならないことになっている。この規則は、守られさえすれば、たいへんいい規則である。しかし、守られるためには、手や目を忙しく働かしていなければならない。知覚し、行動すること、これが真の療法である。その反対に、指をひねくってぶらぶらしていれば、やがて不安や悔恨に落ちこむにちがいない。思考というものは、必ずしも健全とは言えない一種の遊戯である。ふつうは、堂々巡りして先へ進まない。偉大なジャン・ジャック(フランス十八世紀の自由思想家ジャン・ジャック・ルソーのこと)が、「考え込む人間は堕落した動物である」と書いたのは、このためである。

p.72より

 戦争には、たしかに賭けに似たところがある。戦争を起こすのは倦怠である。その証拠は、一番好戦的なのは、仕事や心配事も一番少ない人間であるのが常であるということにある。こういう原因をよく承知していれば、大言壮語にそう心を動かされることはないだろう。金持で、暇のある人間が次のようなことを言うと、ひどく強そうに見える。「おれにとっては暮らしはらくだ。おれがこんなに危険に身をさらし、こういう恐ろしい危険を心から求めるのは、そこになにかやむにやまれぬ理由か、避けがたい必然性を見るからにほかならない」と。だがそうではない。かれは退屈している人間にすぎない。もしかれが朝から晩まで働いていたら、こんなに退屈しないだろう。それゆえ、富の不平等な分配には、なによりもまず、栄養のいい多くの人間を退屈させるという不つごうがある。そのため、かれらは退屈からのがれるために、自分を夢中にさせるような心配や怒りを、わざわざ自分にあたえるようになるのだ。そして、こういうぜいたくな感情は、貧乏人にとっての最大の重税なのだ。

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 平凡社世界教養全集第4巻収録、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)を読み終わる。

気に入った個所
 以下、平凡社世界教養全集第4収録「愛、愛よりも豊かなるもの」より引用。
 他の<blockquote>タグ同じ。
p.519より

 強烈な感情をもちうることのできる人は、ときにはまた、解脱という特異な能力を示す。こうした人は、真にわが身を持するに充分な生命力をもっているので、何の苦もなくいっさいを放棄することができるのである。それとは逆に、内的な沈滞とか、感情的な欠陥に悩むものは、慣れ親しんだ取るに足らぬ獲得物を手放すことができない。彼は律義者だが、そのために極度に疲れ果てる。

p.533より

 最良の動機でさえも、その唱道者たちによってこわされる。祖国は愛国者たちによってつぶされるものだ。常に正義を口にするものは、そのために嘲笑される。

p.563より

 あらゆる文明は、その同時代人たちには、衰退したもの、狂気じみたものと見えた。愛国者たちは、戦争で手にした宝を寺院建設に浪費するペリクレス(古代ギリシアの政治家。前四九五年ごろ―二九年)を非難した。もし、ゲーテ以後の有識者たちの嘆息を文字どおりに受け取るとすれば、ローマはつねに、野蛮人や建築家たちによって荒らされてきたということになる。が、ローマは依然として美しい都として残っている。

p.564より

 やがて、社会生活のある形態、慣習、原理、根強く残っているもろもろの感情なども、消滅してしまうことであろう。人々は、われわれが生きた社会を、死に絶えたものと思うかもしれない。もし人にして、今の社会を未来の社会にあって思い起こすならば、今の社会も、人間の歴史の魅力ある一刻として姿を見せることであろう。すると人々は次のようにいうにちがいない。《あのころはまだ、金持ちや貧乏人がいたし、占領すべき要塞や、よじ登らねばならない階級があったのだな。また、防備の壁を厚くしてその魅力を保ち続けた、人々の憧れとなったものもあったっけ。要するにあのころは、偶然という奴が、われわれにつきまとっていたわけさ》と。

p.581より

 私は新しい型の人間などは求めない。とくに、人々の手をわずらわしてつくりあげられた新しい人間などはなおのことである。私はただ、いつになってもこの世に、私が知っているような欠点と限度をもった人間たちが生まれてきてくれることを望もう。そうした連中は、人間の中にある、人間以上に偉大な何かについて考えさせてくれた。


 他に、「Ⅵ」章に記された、画家のアントワーヌとその妻ペガの物語は、美しく、残酷でもあり、読んで非常に心に残ったが、引用と称してここに書き写すには分量が多いので、心に残ったということのみをここに覚え書きしておきたい。

 さて、これで平凡社世界教養全集第4巻を読み終わった。

 この巻の中では、「三太郎の日記 第一」が最もつまらなかった。「生活の発見」、ついで「若き人々のために」「愛、愛よりも豊かなるもの」の順に私の気持ちにぴったりと合った。

 次は同じく第5巻、「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」である。

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 二百十日以降、狂乱のように台風や低気圧が押し寄せ、各地に甚大な被害を残したが、その後急激に気温は下がり、11月となった。来週11月8日金曜日ははや立冬だ。

 「冬隣」である。秋の小鳥が帰ってきて、美しい声で鳴きつつ飛び交っている。

 R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」を読み終わる。60年前の古書、平凡社の「世界教養全集・第4巻」に収録されている。

 R・L・スティーヴンスン(嘉永3年(1850)11月13日~明治27年(1894)12月3日)は「宝島」「ジキルとハイド」など、日本でもよく知られる小説の作者である。

気に入った個所
以下「平凡社世界教養全集4」所収「若き人々のために」より引用。他の<blockquote>タグも同じ。
p.435より

 しかし一方の性が他方の性について知る知識をあいまいなものにするだけでなく、両性間の自然的な相違を拡大させるのが、高等普通教育なるものの目的となっている。人間はパンのみによって生きるものではなくて、主として標語によって生きている。したがって単に少女たちには一連の標語を教え、少年たちには別の一連の標語を教えるというそれだけのことで、両性間のちょっとした裂け目が驚くばかりに拡げられる。少女たちにはごく狭い経験の領域が示されるにすぎず、しかも判断と行動についてはきわめてきびしい原則が教え込まれる。少年たちにはもっと広々とした生活の世界が展開され、彼らの行為の規範も比較的融通性を与えられている。男女はそれぞれ異なった美徳に従い、異なった悪徳をにくみ、お互いのための理想ですらも、異なった目標をめざすように、教えられる。このような教育の行き着く所はどこだろうか? ウマが物に驚いて駆けだし、馬車の中の二人の狼狽した人間がそれぞれ一本ずつの手綱を握っていた場合、この乗り物の行き着く所が溝のなかだろうということを我々は知っている。したがって世慣れない青年と、ういういしい少女とが増えや提琴に合わせて踊るように、この世でもっとも重大な契約にはいり、呆れるばかりにかけ離れた観念をいだいたまま人生という旅行に旅立つとき、難破するものがあっても当然であり、港に着くのがふしぎなくらいであろう。青年が男らしい微罪として得意に近い気持ちでやることを、少女は下劣な悪徳としておぞけをふるうだろう。少女にとっては日常のちょっとしたかけひきにすぎないことを、青年は恥ずべき行為として唾棄するだろう。

p.446より

 ちょっと考えても明らかに嘘っぱちであるにもかかわらず、その誤謬に偶然結びついていた別の問題についての半真理のために通用している諺があるが、甚だしい例は、嘘を吐くことはむずかしいが本当のことをいうのはやさしいという、途方もない主張を伝えている諺であろう。もしそのとおりであってくれれば、わたしなどどんなに嬉しいかわからない。しかし真理は一つである。真理はまず第一に発見されなければならず、第二に正しく正確に表現されなければならない。特にそういう目的のために工夫された器具――ものさしや水準器や経緯儀――をもってしてすら、正確であることは容易ではない。情けないことには、不正確であることの方がやさしい。秤の目盛りを見る人間から、国の面積、天の星々への距離を測る人間にいたるまで、外的な不動の物についてすらの、物質上の正確さや確実な知識に到達するには、細心周到な手段と綿密な疲れを知らない注意力とによらねばならないのである。しかし一つの山の輪郭を描くよりは、一人の人間の顔の移り変わる表情を描くほうがむずかしい。人間関係の心理はそれよりもさらにつかみにくく、まぎらわしい性質のものである。把握することがむずかしく、伝えることはさらにむずかしい。厳密な意味でなく日常対話的な意味で、事実に正直であること――実際に私は一度もイギリスより外へ出たこともないくせに、マラーバーに行ったことがあるなどといわないこと、実際には私は一語もスペイン語を知らないくせに、セルバンテスを原語で読んだなどといわないこと――こうしたことなら、実際やさしいが、それだけに本来重要でもない。この種の嘘は事情に応じて重要な場合もあれば重要でない場合もある。ある意味では、それは虚偽である場合も虚偽でない場合すらもある。常に嘘ばかりいっている人間が非常に正直な人間で、妻や友とともに誠実に暮らしているかもしれない。一方、生涯のうちに一度も形式的な嘘をいったことのない人間が、内実は嘘のかたまり――心も顔も、頭から足先まで――でないとも限らない。これは親密さを毒する種類の嘘である。その反対に感情への正直さ、人間関係での誠実さ、自分の心や友に対する真実、決して感動を装わずいつわらないこと――これは愛を可能にし、、人類を幸福にならせる真実である。

 L’art de bein dire(上手にしゃべる術)も、それが真理への奉仕に強要されないかぎりは、ただの客観的才芸にすぎない。文学の困難さは書くことにあるのではなくて、自分のいいたいことを書く点にある。

p.482より

「何人も世界を初めから終りまで探ることはできない、世界は彼の心の中にあるのであるから」とソロモンがいっている。

 次はフランスの作家、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)である。世界教養全集第4の最後の著作だ。

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 (りん)()(どう)(Lin Yutang、リン・ユータン)の「生活の発見」(原題は『The Importance of Living』)を読み終わる。60年前の古書、平凡社の世界教養全集第4巻に収録されている。

 先週、読書中にも書いたが、私の感覚にはピッタリと合い、納得できる内容だった。やはり同じ東洋人だからだろうか。

 著者の姿勢は、きっぱり西洋哲学と対立するものである。込み入った西洋哲学を一刀両断、「西洋流の厳粛な哲学は、人生が何であるかということについては、理解の理までもいっていない。」と昂然と言い放つところなど、痛快そのものだと感じた。

気に入った個所
平凡社世界教養全集4「生活の発見」(林語堂著・坂本勝訳)から引用。
以下、他の<blockquote>タグも同じ。
p.158より

 私はサルがサルを食うということは聞いたことがないが、人間相()むということは知っている。人類学はあらゆる証拠をかざして、食人の風習が相当ひろく行なわれて((原文ママ))いたことを明らかに教えている。彼らはわれわれ肉食類の祖先であった。それだから、人間が今なお、いろいろの意味であい食んでいるということになんのふしぎがあろうか。――個人的に、社会的に、国際的に。食人種について特筆すべきことは、人を殺すということの善悪をよくわきまえていることである。すなわち、人を殺すということは望ましいことではないが、避けがたい悪であることを認めながらも、成仏した敵のうまい腰肉(サーロイン)、あばら肉、肝臓などを食って、その殺戮(さつりく)からなんらかの成果をえようとする。食人種と文明人との違いは、食人種が敵を殺して食うのに対し、文明人は敵を殺して葬り、その遺骸の上に十字架を安置し、その霊魂のために祈禱を捧げるところにあるらしい。かくして人間の自惚と短気のうえに、もひとつばか(、、)ということが加わる。

p.160より

罪のない聖人には興味が持てぬ、私はそういったようなヒューマニストである。

p.161より

 人間の心というものに魅力のあるのは、そこに不合理性があり、済度しがたい偏見があり、むら気があり、予測しがたいところがあるからである。もしこの真理を学ばないなら、一世紀にわたる人類心理学の研究も畢竟(ひっきょう)空だ。

同じく

われわれはみな、精神の本当の機能は思考するにあるという思い違いのもとに苦労している。

p.183より

 私は今、旧式な民主的個人主義について語っているにすぎない。それはもちろん承知している。だがまたマルキストにも、カール・マルクス自身が、一世紀以前のヘーゲル論理学と、ヴィクトリア中期のイギリス正統経済学派の産物であることを想起していただくとしよう。今日ヘーゲル論理学や、ヴィクトリア中期の経済思想の正統学派ほど旧式なものはない。――中国人の人間主義的見地から見て、これほど合点のゆかぬ、うそっぱちな、非常識きわまるしろものはない。

p.189より

この意味では、哲学というものは、自然と人生全般に関する、平凡でお粗末で、ざらにある考え方にすぎない、この程度のものなら、何人も多少は持っている。現実の全景を、その表面的価値において眺めることを拒み、あるいは新聞紙に現れる言葉を信ずることを拒むものなら、何人も多少の哲学者といえよう。つまり彼は、だまされない人間である。

p.194より

 私自身の目で人生を観察すると、人間的妄執のかような仏教徒的分類は完全だとはいえない。人生の大妄執は二種でなく三種である。すなわち名声、富貴、および権力。この三つのものを一つの大きな妄執に包括する恰好の言葉がアメリカにある。いわく、「成功」。しかし、多くの賢明な人々にはわかっていることであるが、成功、すなわち名声、富貴に対する欲望というのは、失敗、貧困、無名に対する恐怖を婉曲にいい表した名称であって、かような恐怖がわれわれの生活を支配しているのである。

p.199より

 八世紀の人、柳宗元は、近所の山を「愚丘」と呼び、側を流れる川を「愚渓」と称した。十八世紀の人、鄭板橋には有名なつぎの言葉がある。「愚も難く賢も難い。しかし賢を()えて愚に入るの道は、なおさら難い。」中国文学に愚の賛美の尽きたことがない。こういう態度を持する叡知は、かつてアメリカ人でも、つぎのような方言を通じて理解されたことがある。いわく、「利口もほどらい。」だから最高の賢者は、ときに「大まぬけづら」している人のなかにあるものである。

p.201より

「大隠は(まち)に隠る。」

p.201より

 われわれはこの世に生きてゆかねばならぬ。だから、哲学を天上から地上へ引きおろさなければならない。

p.211より

人生には目的や意義がかならずなければならぬなどと、私は臆断しない。「こうして生きている、それだけで十分だ。」とウォールト・ホイットマンもいっている。

p.242より

中国人の哲学を簡明に定義すると、真理を知るということより、人生を知るということに夢中になっている哲学といえる。およそ形而上な思弁などというものは、人間が生きるということについては邪魔ものであって、人間の知性のなかに生まれた青白い反省にすぎないものであるから、さようなものはことごとく掃き捨ててしまって、人生そのものにしがみつき、つねに最初にして終局の自問をする――「いかに生きるべきか?」

p.247より

 しかしながら、結局アメリカ人が中国人のように悠々として暮らすことのできないのは、彼らの仕事欲と、行動(アクション)することを生きている(ビーイング)ということよりたいせつに考えるところに、直接由来しているのである。

p.374より

学問がしたければ、最良の学校はいたるところにある。昔、曾国藩は家族に宛てた手紙のなかで、弟が首都に出てもっとよい学校にゆきたいといっているのに答えていった。「勉強がしたければ田舎の学校ででもできる。砂漠ででも、人のゆき交う街頭ででもできるし、樵夫や牧人になってもできる。勉強する意思がなければ、田舎の学校がだめなばかりでなく、静かな田舎の家庭も、神仙の島も、勉学には適しない。」

p.394より

つまりこうだ、アダムとイヴが蜜月にリンゴを食った、神はたいへん怒って二人を罰した、この二人の男女のちょっとした罪のために、その後裔たる人類は世々末代罪を背負うて苦しまねばならぬことになった、ところが神が罰したその後裔が神の独り子たるキリストを殺したとき、神はおおいに喜んで彼らを許したというのだ。人はなんと論議解釈するかしらないが、こんなふざけた話を私は黙認することはできない。

言葉
匡救(きょうきゅう)

 (ただ)しくし、救うこと。

寇讎(こうしゅう)

 「寇讐」と同じ。仇、敵のこと。「讎」は「讐」の異体字。

犬儒(けんじゅ)哲学

 人生を自由で自足的なものとみなし、かつ、皮肉に見る哲学。創始者が野良犬のような暮らしを実践したことから。

ほどらい

 「程合い」と同じ。程度、ほどほど。

婚礼轎(こんれいきょう)

 「轎」というのは椅子の乗った駕籠のことで、花嫁を乗せるもののようだ。

(やもお)

 見たこともない字、聞いたこともない訓みである。文中には孟子の説く「世の中で最も無力な四種の人々」として「寡、、孤、独」というふうに使われている。

 ちなみに、「寡」(カ・やもめ)は独身女、「孤」は孤児、「独」は独居老人のことである。

 「鰥」で「やもお」と()む。想像のつく通り、独身男のことである。音読みは「カン」「ケン」、訓読みは「()む」「(やもお)」である。

饕餮(とうてつ)

 いつだったか読んだ開高健の「最後の晩餐」の中に出てきた。「最後の晩餐」では「とうてつ」としてあったが、この「生活の発見」では「饕餮(タオチイエ)仙」と中国語の読みでルビが振ってある。

庭牆(ていしょう)

 「牆」は「かきね」と()み、「庭牆」はそのまま、「庭の(かきね)」である。

カリカチュア

 しょっちゅう見聞きする言葉なので、敢えて調べておくような言葉ではないような気もするが、「風刺画」のことである。

槎枒(さが)

 「()」には「いかだ」の意味もあるが、木を切り落とすという意味もある。

  •  (漢字辞典オンライン)

 2文字目の「()」という漢字がなかなか調べ当たらないが、「椰子の木」の意味があり、枝が入り組んでいることを表す。

  •  (漢字辞典オンライン)

 「槎」と「枒」で、「槎枒」だが、これは木の枝が非常に絡み合い、入り組んでいる様子のことを言うそうな。

ふつうのカンランにはマツのような槎枒(さが)たる気品はなく、ヤナギは優雅ではあるが、「荘重」とか「霊感的」とかいえないことは争えない。

エピグラム

自然は人生全般の中に入り込むのである。自然はことごとく音である、色である、形である、気分である、雰囲気である。慧敏(けいびん)な生活芸術家たる人間は、まず自然の適当な気分を選びだし、それを自分の気分に調和させることから始める。これは中国のすべての詩人文人の態度である。がそのもっともすぐれた表現は、張潮(十七世紀中葉の人)の著書『幽夢影』のなかのエピグラムに見出されると思う。

 短文、警句、寸鉄詩、碑文など、いろいろな短い文章のことを言うようだが、ここでは「短文」と言っておいてよいであろう。

罅隙(かげき)

 「罅隙(かげき)」の「()」は「ひび」のこと、「隙」は文字通り「すきま」のことであるから、「罅隙」ですきまや割れ目のことである。

 青年にして書を読むは罅隙を通して月を眺めるごとく、中年にして書を読むは自家の庭より月を眺めるごとく、老境にいたって書を読むは蒼穹(そうきゅう)のもと露台に立って月を眺めるがごとし。読みの深さが体験の深さに応じて変わるからである。

創造と娯楽

 「創造と娯楽」と書かれてもピンと来ないが、

 芸術は創造(クリエーション)であるとともに娯楽(レクリエーション)である。

……というふうに、ルビを振って書かれると、二つの言葉が急に意味を持って迫ってくる。recreation は creationに「re」をくっつけた言葉だ。「娯楽」というとどうもピンと来ないが、「回復のための行動」というと、なるほど、創造と言うのは苦しみである、というふうに納得がいく。

ドグマ

 独断的で強い教義、とでも言えばよかろう。

 中国文学と中国哲学の世界を通観して何が発見できるであろうか。中国には科学がないということ、極端な理論、ドグマがないということ、実際あい異なる哲学の大学派がないということである。

次の読書

 さて、次の読書は、この本収録の3著作め、R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」である。原題は「Virginibus Puerisque」だが、この邦題の訳ではまるで意味が違っていることは言うまでもない。この原題はラテン語で、意味は『処女・童貞』である。

ゲームや媒体(メディア)や手段や目的や読書や

投稿日:

ともかくモザイクで遠慮して、
画像はイメージです(笑)

 婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。

 何故(なぜ)と言って、多分、ゲーマーの旦那さん、と言っても、ゲームは既に何千万本もの種類があって、ゲームが好きだからと言って必ずしも趣味が合うとは思えないからだ。つまりゲームは媒体(メディア)なのであり、趣味の合う合わないはゲームの内容による。

 パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願(かな)ってゲーマーのイケメン高学歴高身長高収入男子をゲットしたら、これが殺人スプラッター血みどろ内臓破裂戦場シューティングが大好きという陰惨な男で、全然話も生活も合わない、なんて、単純にありそうな話である。

 どうしてそういうふうに思うのか。

 私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。

 ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。

 事程(ことほど)左様(さよう)に、一口に「読書」と言っても範囲が広すぎるのだ。そのため、当初20人近くいたコミュニティのメンバーはジリジリ減少を続け、今年はわずか5~6人ほどになってしまった。

 こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。

 そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。

 こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。

 かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の灯火(ともしび)であり、職業無線従事者も、放送局や電話会社、あるいは特殊な公的機関の中核技術者になるのでもない限りは、資格だけで食っていくことはなかなか難しい。

 同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。

 自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。

 こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。

 ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。

 (しか)り、失われた目標と目的をどこまでも求め続ける苦行こそ人間の役割、所詮見つかりもせぬ目標や目的の奴隷であり続けることこそ人間たるものの至上究極の義務、という説。

 (しか)らず、目標も目的も所詮は虚しいもの、如何に久しくあれこれを(あげつら)いまた追うことぞ、ならば手段や媒体、方法そのものを楽しめ、という説。

 実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。

 私は今、(りん)()(どう)(リン・ユータン)の「生活の発見」という著作を読んでいる。このところ耽読している60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第4巻に収録されている。

 林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。

 彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。

 しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。

 実は林語堂は、これを襤褸(ボロ)(カス)()き下ろしている。曰く、「一ソクラテスの生まれたことは、西洋文明にとって一大災厄であった」と。この一言に、林語堂の動かぬ立場のすべてが尽くされている。

 さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした喝破(かっぱ)は、私などにとって、誠に心が安らぐものなのである。同様の安らぎは鈴木大拙(だいせつ)の「無心ということ」を読んだ時にも覚えたが、さすがに鈴木大拙はそこまで対立的ではなく、日本人的な理解と包摂の姿勢であった。

 もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。

読書

投稿日:

 60年前の古書、平凡社の世界教養全集第3のうち最後の著作、亀井勝一郎の「愛の無常について」を読み終わった。

 「考えることから死ぬことまで」と題された一節のうち、「自分の言葉をもつ」という部分に共感を覚えた。

言葉
者流(しゃりゅう)

 長いこと()みを知らずにいた。20年ほど前に読んだツヴァイクの「マリー・アントワネット」(岩波文庫)の中に「扇動者流」等と言葉が出ていて、読み方がわからなかったのだが、当時調べ当たらず、「扇動者(せんどうしゃ)ども」と訓むものとばかり思い込み、20年が過ぎ去ってしまった。

 今、ネットで改めて検索すると、単純に「しゃりゅう」と訓めば良いと知った次第である。

(『愛の無常について』(亀井勝一郎)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

……いや青年のみならず、悠々たる徘徊を事とする壮年者流も、その反面においては「最後の攻撃」をつねに準備しているものです。

熾盛(しじょう)

 「しせい」とも。

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。……

国宝・十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)

 この著作は著者の該博な西欧文化の理解とキリスト教に関する素養を基礎に人間というものを研究していくが、後半以降に至って、急転直下仏教、とりわけ親鸞の説くところへ傾倒していく。その点で倉田百三にも似る。しかし、倉田百三ほど女々しくなく、さすが壮年以降の著作である。

 その中で、奈良・法華寺の十一面観音菩薩立像に見る信仰と芸術の対比を、キリスト教、とりわけ旧教の信仰とルネッサンスの芸術との対比と並べ論じるところがある。

 十一面観音菩薩立像は、当時天竺の仏師文答が光明皇后に似せて刻んだものであるという。

 引き続き「世界教養全集」を読む。

 次は「第4 三太郎の日記 第一/生活の発見/若き人々のために/愛、愛よりも豊かなるもの」である。

読書

投稿日:

 二百十日あとの日々、台風が次々と接近しているが、今日の私の住まい付近(埼玉県)は、よく晴れて暑い。残暑とは言うものの、仲秋近くなり、ながいこと咲いていた近所の家々の百日紅(さるすべり)も散り始めた。

 引き続き平凡社の世界教養全集第3を読んでいる。

 この巻の4つ目の著作、三木清の「人生論ノート」を読み終わった。

 三木清は哲学者だが、同時に共産主義者かつ反体制主義者で、戦前に逮捕され、戦後も釈放されることなく獄死している。そういう点は嫌なところだが、しかし、この「人生論ノート」は示唆に富むところ多く、よい著作だと思う。

「噂について」

 本著作中に「噂について」という一篇がある。いまや一億総SNS社会と言っていいと思うが、そんな世相下、この一篇はまったく色褪せて見えず、燦然と光彩を放っているように思う。戦前に記されたものであるにもかかわらず、さながら昨日、著名なネットワーク評論家によって書かれたようにすら感じられ、名篇だと思うので、ここに全文引用しておきたい。

(平凡社世界教養全集第3収載、三木清「人生論ノート」より引用。
本日現在作者没後74年経過につき日本法著作権消滅)

 噂について

 噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しようもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り巻かれながら生きてゆくのほかない。

 しからば噂は我々にとって運命の如きものであろうか。それは運命であるにしては余りに偶然的なものである。しかもこの偶然的なものは時として運命よりも強く我々の存在を決定するのである。

 もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさえ決定するというのは如何なることであろうか。

 噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさえ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に関係してくるのである。しかもこの関係は掴むことのできぬ偶然の集合である。我々の存在は無数の眼に見えぬ偶然の糸によって何処とも知れぬ処に繋がれている。

 噂は評判として一つの批評であるというが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従って本来なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社会的に存在する一つの最も重要な形式なのである。

 評判を批評の如く受取り、これと真面目に対質しようとすることは、無駄である。いったい誰を相手にしようというのか。相手は何処にもいない、もしくは到いたる処にいる。しかも我々はこの対質することができないものと絶えず対質させられているのである。

 噂は誰のものでもない、噂されている当人のものでさえない。噂は社会的なものであるにしても、厳密にいうと、社会のものでもない。この実体のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じている。噂は原初的な形式におけるフィクションである。

 噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競争心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。――熱情をもって語られた噂は噂として受取られないであろう。――そこにいわば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行われる。神話は高次のフィクションである。

 あらゆる噂の根源が不安であるというのは真理を含んでいる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また伝える。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいうべく、従ってまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考えられるのもこれに依ってである。虚無から生れたものとして噂はフィクションである。

 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永続するに従って神話に変ってゆく。その噂がどのようなものであろうと、我々は噂されることによって滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無関心で冷静であり得る人間は少ないから。

 噂には誰も責任者というものがない。その責任を引受けているものを我々は歴史と呼んでいる。

 噂として存在するか否かは、物が歴史的なものであるか否かを区別する一つのしるしである。自然のものにしても、噂となる場合、それは歴史の世界に入っているのである。人間の場合にしても、歴史的人物であればあるほど、彼は一層多く噂にのぼるであろう。歴史はすべてかくの如く不安定なものの上に拠っている。尤も噂は物が歴史に入る入口に過ぎぬ。たいていのものはこの入口に立つだけで消えてしまう。ほんとに歴史的になったものは、もはや噂として存在するのでなく、むしろ神話として存在するのである。噂から神話への範疇転化、そこに歴史の観念化作用がある。

 かくの如く歴史は情念の中から観念もしくは理念を作り出してくる。これは歴史の深い秘密に属している。

 噂は歴史に入る入口に過ぎないが、それはこの世界に入るために一度は通らねばならぬ入口であるように思われる。歴史的なものは噂というこの荒々しいもの、不安定なものの中から出てくるのである。それは物が結晶する前に先ずなければならぬ震盪の如きものである。

 歴史的なものは批評の中からよりも噂の中から決定されてくる。物が歴史的になるためには、批評を通過するということだけでは足りない、噂という更に気紛れなもの、偶然的なもの、不確定なものの中を通過しなければならぬ。

 噂よりも有力な批評というものは甚だ稀である。

 歴史は不確定なものの中から出てくる。噂というものはその最も不確定なものである。しかも歴史は最も確定的なものではないのか。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異なる歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。

 噂するように批評する批評家は多い。けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である。私の知る限りではヴァレリイがそれだ。かような批評家には数学者のような知性が必要である。しかし如何に多くの批評家が独断的であるか。そこでまた如何に多くの批評家が、自分も世間も信じているのとは反対に、批評的であるよりも実践的であるか。

言葉
リゴリズム

 rigorism。厳格主義。

(『人生論ノート』(三木清)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

 良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズムである。

ヴァニティ

 vanity。虚栄。

 すべての人間的と言われるパッションはヴァニティから生まれる。

アノニム

 anonym。匿名。IT技術者としては「アノニマスFTP」なんていう言葉を想起すると納得できる。

……しかしそれにしても、虚栄心においては相手は「世間」というもの、詳しくいうと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、……

ゲマインシャフト・ゲゼルシャフト

 ゲマインシャフト:  共同社会、基礎社会。

 ゲゼルシャフト:  利益社会、派生社会。

……ゲマインシャフト的な具体的な社会においては抽象的な情熱であるところの名誉心は一つの大きな徳であることができた。ゲゼルシャフト的な抽象的な社会においてはこのような名誉心は根柢のないものにされ、虚栄心と名誉心との区別も見分け難いものになっている。

デモーニッシュ

 超自然的・悪魔的。

 怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであったのである。しかるに今では神は人間的にされている。

アイロニイ

 アイロニー。反語。

 アイロニイという一つの知的性質はギリシア人のいわゆるヒュブリス(驕り)に対応する。

アプリオリ

 a priori。原因・原理。

……言い換えると、世界――それを無限に大きく考えるにせよ、無限に小さく考えるにせよ――が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。

パウゼ

 pause。休止・休憩・中断など。

 ここでは「段落」のような意味合いで用いている。

 哲学的文章におけるパウゼというものは瞑想である。

ミスティシズム

 mysticism。神秘主義。

 瞑想は思想的人間のいわば現在である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。

鬩ぎ合い・啀み合い

 これで(せめ)ぎ合い、(いが)み合いと()む。

 私もまた「万の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず鬩ぎ合い啀み合い、相反対し、相矛盾する多くの心を見出すのである。

羈絆(きはん)

 足手まといになるもののこと。

 一様に推移し流下する黒い幕のような時の束縛と羈絆から遁れ出るとき、私は無限を獲得するのではないか。

人名
カール・ヤスペルス

 Karl Theodor Jaspers カール・ヤスパース。ドイツの医学者にして哲学者。

キェルケゴール

 Søren Aabye Kierkegaard キルケゴール。デンマークの思想家・哲学者。

次の著作

 この巻最後の著作、亀井勝一郎の「愛の無常について」を昨日から読み始めた。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書を読んでいる。平凡社の「世界教養全集」だ。目下3冊目の「第3」を読んでいる。

 「第3」には収載作品が五つある。その内、倉田百三の「愛と認識との出発」、鈴木大拙の「無心ということ」、芥川龍之介の「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の三つを読み終わった。

 「侏儒の言葉」は、子供の頃にこの本で一度読んだことがある。その頃は皮肉な感じが好もしく感じられたが、今はそれを、あまり魅力とは感じられなくなっている。子供の頃の読後感に比べると、どうしても、自殺直前に書かれたという作品の性格の方が、皮肉さよりも気になってしまう。

 作品の後半に向かって「芥川龍之介が堕ちていく感じ」が、大人になって芥川龍之介の自殺のことを、子供の頃よりも深刻な事件として再認識している私には、何やら薄ら恐ろしく感じられ、寒々とした荒涼を覚えざるを得ない。

言葉
綵衣(さいい)

 「美しい模様のある衣服」とか「種々の色で模様を施した衣」等と辞書等にはある。

 しかし、どうやらそれだけの意味ではないようだ。漢籍に「綵衣(もっ)て親を(たのしま)しむ」などとあり、これはある人が老年になっても親を楽しませるために子供の服を着て(じゃ)れて見せたという親孝行の故事である。

 そこからすると、この「綵衣」という言葉には、「幼児が着る明るい色の衣服」というような意味合いがあるようだ。

筋斗(きんと)

 「筋斗(きんと)」と聞いてすぐに思い浮かぶのは西遊記だ。孫悟空が乗る自由自在のエア・ビークルが「筋斗雲(きんとうん)」である。

 しかし、今「筋斗雲」で検索すると、大ヒットアニメ「ドラゴンボール」に関することばかりが出てくる。

 「ドラゴンボール」については、私はよく知らないから話を戻す。

 単に「筋斗」という場合は、これは筋斗雲のことではない。

 「筋」というのは「觔」の別字だそうな。筋斗雲も本当は「觔斗雲」と書くのが正しいらしい。で、この「觔」というのは、木を切る道具のことだそうである。「頭が重く柄が軽い道具」らしい、ということまではネットでわかるが、どのような形のどういう物かまではよくわからない。

 さておき、この道具は頭が重いために「くるくるとよく回る」ものだそうである。回して使う物なのかどうかもよくわからないが、ともかくそういうものだそうだ。そう言えば、頭が大きくしっぽが小さいオタマジャクシのことを「蝌斗(かと)」と書くが、このことと関係があるかも知れぬ。

 ともあれ、上述のようなことから、「とんぼ返りを打つ」ことを「筋斗を打つ」と言うそうな。「筋斗」とだけ書いて「とんぼ」と()ませる例もあるようだ。

(『侏儒の言葉』(芥川龍之介)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

 わたしはこの綵衣(さいい)(まと)い、この筋斗(きんと)()(けん)じ、この太平(たいへい)を楽しんでいれば不足のない侏儒(しゅじゅ)でございます。

 文脈から推し測るに、「侏儒(しゅじゅ)」というと辞書的には「こびと」とあるが、ここで言う「侏儒」は、お祭りや盛り場で軽業(かるわざ)を見せて生業(なりわい)にしているような道化者、ピエロとか芸人などのことを言っているようだ。これが派手な「綵衣」を着て、「筋斗の戯」、つまりとんぼ返りなどの軽業を見せているわけである。「綵衣」にせよ、子供のような面白おかしい服、というような意味合いを含めているのだと思われる。

 更に前後の文脈を読むと、要するに芥川龍之介は志も何も持たない鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)太平楽(たいへいらく)の「賤業の者」の代表として「侏儒」を選んでいるように思う。

 そして、作品を「侏儒の言葉」と題しているのは、もちろん反語的皮肉であろう。

管鮑(かんぽう)の交わり

 これは学校の国語で習うから、確認は無用だ。次のサイトさんに詳しい。

……(いにし)えの管鮑(かんぽう)(まじ)わり(いえど)破綻(はたん)を生ぜずにはいなかったであろう。

啓吉の誘惑

 文中にも菊池寛の作品であることは触れられている。

 しかし、この「啓吉の誘惑」なる作品のあらすじは、ネットでチョイと検索したくらいでは出てこず、また作品も青空文庫等にはない。無料(タダ)では確認できないような感じがする。

 しかし、ご安心あれ。「啓吉の誘惑」は、「国会図書館デジタルコレクション」を使えば、無料で読むことができる。

 「啓吉の誘惑」は、上の「啓吉物語」の後ろの方、401ページから収録されている。「コマ番号」は全245コマ中第207コマから229コマまでだ。

 短編で、すぐ読める分量だ。私もたった今読んでみた。

 なるほど、触れられている通りの作品である。題名からだと啓吉という人が誰かを誘惑した物語であるように感じられるが、そうではなく、啓吉が誘惑を感じる、あるいは誘惑される、という筋書きで、むしろ「啓吉の『誘惑』」と括弧つきで題するか、単に「誘惑」とのみ題するか、どちらかが相応(ふさわ)しいような内容だ。

 以下「啓吉の誘惑」のあらすじ(ネタバレ注意)

 作家の啓吉は妻と幼児の三人家族で暮らしている。育児も手がかかって大変であるため、かねがね女中を雇い入れたいと考えていた。

 そこへ啓吉のファンであるという美しい女が雇ってほしいと訪ねて来る。地方から上京してきたその女は妻とも打ち解けて仲良くなり、歓迎されて啓吉の家の女中となる。やがて、啓吉はその女の無邪気さに心惹かれてゆく。

 女は妻にも気に入られているため、啓吉は妻公認で女を連れて浅草へオペラを見に行くことになる。その際、女の着物が地方から着てきたままのみすぼらしいものだったので、妻は快く女に着物を貸す。

 オペラの帰り、女と夜の隅田川辺りを歩いた啓吉は、夜のムードもあって恋愛の感情が女に対して高まるのを覚える。しかし、女の着物が妻からの借り着であるのを見、妻のことを考え直して自制する。

 やがて女は地方へ帰ってしまう。

 しばらく経って、風の噂に、その地方では女の評判は好ましくなく、「高級淫売」ではないかとの推測もあることを啓吉は聞き、嫌な後味を感じるとともに、女の誘惑に乗らず、自制してよかったとも思うのであった。

 (ちな)みに菊池寛はこの啓吉という人物が登場する作品をシリーズで残しており、ファンはこれを「啓吉もの」と称するようである。

 少なくとも女人の服装は女人(にょにん)自身の一部である。啓吉(けいきち)誘惑(ゆうわく)(おちい)らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。

庸才(ようさい)

 「凡才」と読み替えても差し支えない。

 しかし、「凡庸」などという言葉などもあるものの、「凡才」というほどには馬鹿者・愚か者的な蔑視感はなく、なんとはない才能もなくはないが、全然人並みだ、というようなニュアンスを含めて「庸才」と言っているように思う。

 庸才(ようさい)の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

木に()って魚を求む

 意味は簡単で、「手段を誤っていること」だ。

 だが、文中での用法はなかなか反語的で味わい深いというか、理解しづらいところがある。

「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に()って魚を求むる論法』よりも信用を(はく)(やす)いかと思います。……

偏頗(へんぱ)

 「かたよること」だ。

 「偏」は「かたよる」だが、「頗」は「(すこぶ)る」とも「(かたよ)る」とも、どちらでも()む。

  •  (漢字ペディア)

 まあ、「すこぶる偏り、(かたよ)ること」で間違いはない。

……『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗(へんぱ)の疑いを招かないとも限りません。

 この難しい「偏頗」なる言葉、「偏頗返済」「偏頗行為」などと言って、債権~債務などにかかわる法律用語である。

陳套(ちんとう)

 「陳」という字は仮名を「い」と送って「(ふる)い」と()み、又同様に「ねる」と送って「()ねる」とも訓む。「(ひね)る」の意ではなく、「()ねる」の意である。従って、「陳腐」というよく見聞きする言葉の意味を言えば、「古くて腐り果てている」という程のことになろうか。

 一方、「(とう)」という字は「外套(がいとう)」「手套(しゅとう)(てぶくろ)」という言葉からもわかるように、覆い、重ねることを言う。こうしたことを踏まえつつ、「常套句」という言葉を味わってみるとわかる通り、「套」という字には、何度も何度も同じように繰り返し重ねるという意味が生じる。そこで、「套」という字そのものにも、何度も同じことを繰り返していて古臭い、という意味を含めるようになった。

 こうした意味・字義から、「陳套語」とは、古くて古臭い、新鮮味もクソもない言葉のことを言う。

……東洋の画家には(いま)(かつ)落款(らくかん)の場所を軽視したるものはない。落款の場所を注意せよなどというのは陳套(ちんとう)()である。それを特筆するムアァを思うと、(そぞろ)に東西の差を感ぜざるを得ない。

雷霆(らいてい)

 「雷」は言わずと知れた「カミナリ」であるが、「(てい)」という字にも同じく雷の意味がある。

……哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒りを(やわ)らげる(わけ)には()かないであろうか?

 「雷のような怒り」と書けばよいところをわざわざ「雷霆の怒り」と書くのは、雷よりもなお雷であるところの大きな激しさ、また文学上の誇張・拡張・表現をガッチリと詰めた書き方と思えばよかろうか。

一籌(いっちゅう)()する

 「籌」とは竹でできた算木のことだそうだ。

 「輸」の字の方には、「輸送」という言葉があることから見ても解る通り、「おくる」「はこぶ」という意味があるが、また別に「負ける」「敗れる」の意味があるそうな。

 その心は、(いくさ)などに敗れ、財物をそっくり「もっていかれてしまう」(すなわち輸送されてしまう)というところにある。それで、「輸」という字には「負け」という意味が生じてくる。

 ここで、「一籌を輸する」である。上記を併せて味わうと解るように、「ひとつ、もっていかれてしまう」即ち「一歩負ける」という意味なのである。

 わたしも(また)あらゆる芸術家のように(むし)(うそ)には巧みだった。がいつも彼女には一籌を輸する外はなかった。彼女は実に去年の譃をも五分前の譃のように覚えていた。

恒産(こうさん)恒心(こうしん)

 一定の収入(恒産)のない者は安定した穏やかな心や変わらぬ忠誠心(恒心)を持つことは難しい、という意味で「恒産なくして恒心無し」との故事成語がある。「衣食足りて礼節を知る」と似たような意味であろう。

 (ただ)し、出典の漢籍「孟子」には、「たとえ恒産がなくても恒心を持っているのは立派な人のみであり、一般の人々にこれは無理というものである」というようなことが書かれていて、もう少し複雑な意味のことを言っているようだ。

 恒産(こうさん)のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日(こんにち)では恒産のあるものは(むし)ろ恒心のないものらしい。

メーテルリンク

 ノーベル文学賞作家。江戸時代~大東亜戦争終戦後くらいまで。

……「知慧と運命」を書いたメーテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

新生

 「新生」というのは、ここでは島崎藤村の同題の小説のことを指しているが、芥川龍之介はこれをたった数語で痛烈に批評している。

 「新生」読後

 果たして「新生」はあったであろうか?

 島崎藤村は相当にダメな人物で、よりにもよって自分の姪を妊娠させてフランスへ逃亡し、(あまつさ)えそれを小説「新生」に書いて発表し、自分だけ目立ちまくって名声を得、姪の人生はメチャクチャにしてしまった。

 当時、芥川龍之介はこのことを批判して()まなかった。このあたりのことは、当時の文壇では知れ渡った醜聞(スキャンダル)であったようである。

ストリントベリィ

 スウェーデンの変人小説家。ニーチェの影響を受けていた。

 ストリントベリィの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。

マインレンデル

 ニーチェがむしろ愛しているふしのある、ドイツの哲学家。

 マインレンデル(すこぶ)る正確に死の魅力(みりょく)を記述している。

スウィツル

 「スウィツル」。これがまた、サッパリわからない。

 或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。(しか)らずんば言論の自由を与えよ。

 検索してみると、どうやら「スイッツル」というのは古い「スイス」の呼び方のようではあるのだが、だが、もしそうだとして「私にスイスを下さい。そうでないなら言論の自由を下さい」というふうにこの文を理解しても、その真意や背景がまるで判らないので、意味もサッパリ解らない。

ジュピター

 またしても、サッパリわからない。

 いや、ジュピターは言わずと知れた「木星」、ローマ神話の主神「ユピテル」のことではあるのだが、問題はそれが現れる文脈である。

 希臘人

 復讐(ふくしゅう)の神をジュピターの上に置いた希臘(ギリシャ)人よ。君たちは何も()も知り(つく)していた。

 ローマ神話をさかのぼるギリシャ神話で、復讐神をジュピターの上に置いていたのかどうかがわからない。だから、この一節の言わんとするところが全然わからない。

 ともかく、そんなことで「侏儒の言葉」は全部読み終わった。

 目下、次の著作、三木清の「人生論ノート」を読み進めつつある。半分ほど読んだろうか。