人間をはかるに「生産性」はないと思うが

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 代議士の杉田水脈(みお)氏が左の「新潮45」平成30年8月号誌上で、

「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」

との意見を表明したことが槍玉にあげられ、炎上している。

 さすがに、馬鹿右翼の私ですら、氏の「生産性がない」発言はダメだと思う。人間は木石金物(ぼくせきカナもの)や道具機械ではないのだから、そんなもので人間としての価値をどうこう言うべきものではない。むしろ、人間を労働価値の根源とみなして生産性を最大限とすべく計画的経済の部品とするような社会像に、この「生産性」という言葉の背景が写って見え、これではまるで共産主義者、社会主義者の所説である。

 だがしかし、人間が「生産性」などという無機質そのものの指標で評するべきものでないなんてことは、GLBTだけに当てはまることだろうか?GLBTであろうとなかろうと、普通の会社員でもオッサンでもオバハンでも、はた子供であろうと学生であろうと、老若男女いかなる人であろうと、人間であるなら皆同じであるはずだ。

 そこからすると、今回の騒ぎは幾分、揚げ足取りの傾きが濃厚だ。

 私は、GLBTだからと言って、無条件に税金が投入され援助される、というのは行き過ぎだと思う。その点で私は杉田氏がすべて間違っているとは思わない。先の「生産性」というところを除けば、杉田氏の意見には一掬(いっきく)()るべきところがあるのではなかろうか。

 GLBTに無条件に税金が投入され、援助されているなどという事実があるのかないのか、私は知らない。いや、まあ、言っておけば、調べて確かめる気もないし、そんな義務もない。

 だが、今の世相、メディアでのGLBTの取り上げられっぷりには、逆におそれを覚えるのも事実だ。放っておいたら町のいたるところや公共施設内に、何十億円もかけて「GLBT用便所」なんてものが建設されかねない。民間企業だって、「GLBT用温泉・浴室・銭湯・便所・更衣室」なんてものを莫大なお金をかけて建設しなければならなくなるかもしれない。

 こういったことに既に公金が使われているのかどうかは知らないが、だが、多分既に役所には「GLBT担当」の役人が置かれたりもしていることだろう。勿論給料つきだ。

 こんなの、やりすぎだ。他に考えることやお金をかけることがたくさんあるでしょう、と私などは思うのである。

 その点で、杉田水脈氏には気を確かにしていただき、うっかり言い過ぎたところを改め、落ち着いて論考を深くしてもらいたいものである。氏の主張には正しいところも多いのではないかと思うのだ。……ほかにどんなこと言ってるのか、知らんけど(笑)。


 私は上記文中で、わざと「LGBT」を「GLBT」と書いている。最近、メディアでは「LGBT」表記が定着したが、以前は多くのメディアが「GLBT」と書いていた。

 私は、レズが先でもゲイが先でもない、そんなもの、どっちだっていいと思っている。

 この順番がどうこうという部分に引っかかるような奴は差別主義者だと思う。「レズが先だ!」なんてことを言うこと自体が差別だ。

【時事】専用車両の顛末(てんまつ)【妄想】

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 痴漢による列車事故が年間1万件を超えるようになり、政府もこれを無視看過すべからざる事態となった。冤罪(えんざい)だと屁理屈を言い立てる痴漢どもが線路に飛び降りて逃走し、あげく列車にはねられてオッ()ぬ。死ぬのは気の毒だが、半日がところダイヤが乱れ、大多数の無関係で善良なサラリーマンが会社に遅刻するのだから、これは経済上の影響も大きく、迷惑極まる。

 抑々(そもそも)こんな混雑する車両に男と女が十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)の糞味噌一緒くたに詰め込まれ、混載されているからこういう悲劇が起きるのだ。女性は従来から痴漢の迷惑に耐えてきたが、堪忍袋の緒が切れて、扇千景国交大臣の頃に女性専用車が設定されるようになったのも記憶に新しい。

 だが、男の側からの「痴漢騒ぎの多くは冤罪だ!」という声も次第に大きくなり、政府も無視できなくなった。痴漢冤罪を未然に防止するべく、ついに、公共交通機関には男性専用車両、あるいは男性専用区域の設置が鉄道法等の関連法で義務付けられることとなった。痴漢冤罪などという面倒くさい状況に我が身を置きたくない向きは、男しか乗っていないことが保証されているこの専用車両に乗れば安心である。

 しかし、そんな専用車に乗ることを推奨・励行するほどまでにはラジカルでない人たちが世の中の大多数だ。過去も昔も痴漢なんかせず、整斉粛々(せいせいしゅくしゅく)と列車に乗って仕事に精を出してきたのがサイレント・マジョリティなのである。そこで、例えば列車なら、9両編成であれば、3両はサイレント・マジョリティのため従来通り男女混交、3両は男性専用、残り3両は女性専用、と言う風に、男女混交車両を残すことになった。3で割り切れない場合は、従来通りの男女混交車両の増減で調整する。

 しばらくはこれでうまくいくかに思われた。

 しかし、人間の性的嗜好は多様性に富む。ウハウハと鼻息の荒くなり出したのはホモ、ゲイ、カマと言った連中であった。これらが男性専用車両を「ハッテンバ」と看做すようになってしまったのだ。無論、女性専用車両もレズ、ナベと言った手合いの楽園となってしまった。

 こういった連中が車両内でヌチョヌチョグチョグチョと性行為(まが)いの痴戯(ちぎ)(ふけ)り始めると、さすがに性的にノーマルな、圧倒的大多数を占める人たちから怨嗟(えんさ)の声が上がり始める。

「何がダイバーシティだ」「ふざけるな。男は男、女は女だ」

……というふうな論が興奮の気味を帯び始める。

 政府は困惑する。たとえ少数者に過ぎない性的逸脱者達であろうと、平等に人生の幸せを享受し、人権が保証されて生きていかれるよう、折角これまで苦労して、政治を変え、世の中を変え、差別なき社会を目指してきたのだ。ダイバーシティは緒についたばかりなのだ。痴漢どものせいでこういう逆行的な差別論が復活してしまうと、政府のこれまでの苦労も水の泡である。

 そこで、公共交通機関の乗車区分は更に細分化されることになった。「男性専用車」「女性専用車」「女性同性愛専用車」「男性同性愛専用車」、すなわちこれである。8両編成の列車であれば、2両づつそれぞれに割り当てる。4で割り切れない両数編成の場合はノーマル男性専用車とノーマル女性専用車の編成数で調整する。

 だが、今日(きょう)び、少数派の意見は大きい。まずゲイの連中から不満が上がり始める。「俺はホモじゃない」。(しか)(しこう)して、ホモ連中もやりかえす。「バカにすんな。俺はゲイじゃない」。ここへ当節流行の「オネエ」などという一群が参戦してブーイングし始めたものだからたまらない。

 女性同性愛専用車に押し込められた連中も同じようなことを言い出す。「フザけんじゃないわよ、アタシはあんな連中とは違うのよ!」というわけだ。バイセクシャル、トランスジェンダー連中も大声を上げ始める。「政府はナニやってんだ!アベ政治を許さない!」……オイオイ、それは違うでしょ、などという普通の人たちの声など、この際完全に無視されるのであった。

 人間は差別をやめられない。差別を餌にして生きているばかりか、寧ろ差別を(たの)しんでさえいる。それは、被差別にして非差別の尖兵であるはずの同性愛者たちですら、思いのほか、外から見れば同類にしか見えない者同士で分け隔て、憎み合い、(さげす)み合い、差別し合うところに現れるのであった。

 ついに公共交通機関は厳密な性的乗車区分を施行せざるを得ない。「男性専用者」「女性専用車」「ホモ専用車」「レズ専用車」「ゲイ専用車」「オカマ専用車」「オネエ専用車」……

 混乱を生じ始める。なんとならば、ノーマルな「男性専用車」と「オカマ専用車」とでは、事情や状況が根本的に異なる。すなわち、男性専用車に乗っているノーマルな男連中は男に性的興味なんか抱かないから、性別乗車により性犯罪が起きなくなるのだ。ところが、ホモ専用車に乗っている連中は互いにホモが好きなのだから、やっぱり車内はハッテンバになってしまうのであった。これは「レズ専用車」も同じである。

 ところが、思いがけずこれに異を唱えだしたのはダイバーシティ活動家連中だ。「こんなのは差別を助長するばかりだ。人間は多様なんだ。多様な人と人との間に壁を設けてどうする」というのである。

 政府も馬鹿揃いで、またしても行政措置を変更する。「而今(じこん)以後、公共交通機関には『ダイバーシティ主義者専用車』を設けることを義務付ける」などと言いだしたものだから「それは違うでしょ!」と世論は爆発した。

 この異常な混乱を解決するため、性的逸脱者の乗車方法を統一することになった。ホモ、ゲイと言った連中は女に興味がない。逆に女の性的逸脱者も男に興味はない。それで、「性的逸脱専用車」を設け、これにさながら「市松模様」のように、生理的男と生理的女を、交互に規則正しく乗せることになったのである。

 これはつまり、車内で隣り合い、くっつき合う者同士、お互いに興味はないわけだから、痴漢冤罪は生じないという理屈になる。

 既に規律や規則正しさなどということには興味を持てなくなって久しい我々日本人である。従ってこのような乗車方法を徹底するのはまったくのところ困難を極めた。警察官が動員され、規則正しく交互に性的逸脱者を電車に乗せるのだ。

 ホームに警察官の警笛の音が「ビーッ、ビッ、ビッ!」と響き渡る。「そこのホモの方っ。列を乱さないで下さい!出生時の性別に従い、規則正しく交互に乗車して下さい!」

 列を乱すような者は「人類から差別を撤廃し、多様性を認めるべく改革に邁進する社会に対して、挑戦し反逆している不埒(ふらち)者」とされ、鉄道法その他違反容疑で検挙されるのである。

 数年前に流行した戯れ唄よろしく、男女男女男女、女男女男女男……という規則正しい整列こそが人類の多様性を守る行動の象徴となってしまった。

 人々は「多様性(ダイバーシティ)ってのは、こんなに疲れる、不自由な、カネのかかるものなんだな」と思って嘆息する。

 こうして、今日も差別を満載し、市松模様に男女が塗り分けられた珍妙な痴漢防止満員電車が東京へと走り去っていくのであった。呵々……。

差別廃絶の先、GLBT礼賛の先、更にその先にあるもの

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PHM11_0096 理性はよく無理を()いる。太古から人間は社会性の動物たるため、個を抑制して(おおやけ)(ほう)じ、家族や村落全般が機能することにより種族全体が保存されるように歴史を重ねてきた。

 生物本然(ほんぜん)の欲求や姿のままに生きることは人間社会では否定され、その否定は「人の道」と呼ばれる。人の道に外れた行動をとれば、犬畜生呼ばわりされ、村落から放逐されるのだ。雑な例を言えば、動物のようにそこいらで脱糞放尿も交尾もしないのが理性ある普通の人間だ。

 このようなことを端的にまとめ、ものすごく嫌な、極端な言い方で表すと、「人間の歴史においては、生物としての自然に背くものが理性とされてきた」ということである。

 オスの役割の否定、メスの地位の否定、残酷さや弱者抑圧を否定すること、差別を否定することなどもその延長だと思う。

 人間の理性はゆっくりだが進歩し、いまや、あらゆる次元での差別に反省と検討、考察が加えられ、女性、病者等、弱者にも光があたるようになった。

 それは更に進み、GLBTの肯定、同性婚の肯定などにまで広がっている。

 これらが更に進んだその先には、兄弟婚、親子婚、近親相姦などの修羅場の肯定がほの見える。動物の自然な姿としては、同性婚や近親相姦は自然に忌避され、(ほぼ)このようなことは起こらないのであるが、困ったことに人間社会は動物としての自然な働きに逆行することをもって理性とするのだ。

 この先、私などの凡庸で進歩的でない者にとって、生理の根幹の部分からして到底許容できないような、それこそ兄弟姉妹婚、親子婚、幼児婚、屍婚、動物婚、植物婚、人工物婚など、あらゆる(おぞ)ましいものが大群でやってくる。そうしてそれらが法律で保護され、進歩的であるとして共感を呼び、「植物と結婚した性転換者」などの頓狂な者がテレビタレントになってのさばるようになるだろう。今日(こんにち)オカマ芸人がテレビで幅をきかせているように……。

 しかし、現代社会と現代人が、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、これらをすべて受け入れたのと同じ忍耐をもって、忌まわしい悪鬼の魂を受け入れなければならない時代がもうすぐそこまで来ている。

 これまでの経緯、時代の趨勢から言って、この恐ろしい耐え難さに、ひたすら耐えるよりほかにあるまい。こういう恐ろしいものを受け入れ、それを「自由」と名付けて喜ぶような者は、進歩的な差別廃絶論者として称揚されるのであろう。