靖国神社参拝は

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 誠に恐懼のことながら。

 靖国神社へ先帝陛下の御親拝がなくなったのは、たしか昭和51年の事であったか。

 この年、私は10歳で、毛沢東や周恩来死去の報がテレビのニュース速報で流れているのを、年子の兄が「おかあさんおかあさん、テレビに『ケザワ』っちゅう人が死んだて映ってるでェ~!」と母に注進し、台所から慌てて居間に駆け込んだ母が、「ケザワケザワ言うから何かと思たら、毛沢東のことかいな、ホンマにあんたらは。……せやけど、死んだんかいな毛沢東。えらいこっちゃ」などと珍妙な会話があったのを覚えている。

 さておき、天皇陛下の靖国神社への御親拝はこの年が最後になってしまい、以後は勅使をお遣わしになるのみとなった。言うまでもなく、今上陛下におかせられては、即位後一度も御親拝はない。

 これを指して批判する向きもある。私も正直に言えば残念であるとは思う。また、いわゆる旧A級戦犯の合祀を先帝陛下が好まれなかったなどとする風説も伝え聞く。だが今は、個人的な感傷や風説はおこう。このことは、かしこきあたりにおかれて、国民の意向の大勢をよくお汲み取りになられただけであると解したい。

 というのも、例えば下って今日の終戦日。靖国神社に参拝した国会議員はおよそ70名であるという。両院議員が合わせておよそ700名だから、1割の議員が靖国神社に参拝しているということになる。言うまでもなく国会議員は選挙で選ばれるのであるから、まず、「国民の1割が靖国神社に参拝することを是と考えている」と換言できる。

 わずか1割の国民しか是としてないことを、天皇陛下にしていただくことは、たしかに難しい。

 もって得心すべきであろうか。

平和国家の高速意志反映システム

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 平和国家の銃弾は意見発表の機会だ、などというと、大嫌いな新聞やテレビを持ち上げてしまっているようなことになるから、それは言いたくない。

 それは、「政府をひっくり返す暴力を人々に渡しておくべきだ」という、アメリカの、憲法の例のアレでもって、乱射事件が頻発してしまっていることからの連想である。

 銃による仕組みは、日本ではムリだ。日本人には銃なんか配れない。そんなことをすれば、不慣れな日本人はあらぬ失敗をしでかす。慣れたアメリカ人だって、毎日毎日失敗ばかりしている。

 では、その代わりに、日本人の大多数一般が容認するような国を、人々がどうやって直接形作るか、一部の扇動者に左右されず、一人一人が自分で考えた国の姿が、多数決で採られるという、そういう余地を、何によって保証するかということである。

 選挙と言うのはシンプルでこなれたシステムだけれど、もう老朽化していて、スピード感に欠けるから、嫌だ。

 アメリカみたいに銃を渡しておく、というのではダメなことは、先述のとおりだ。

 と言って、アメリカの管理下にあるインターネットによって、というのも、アメリカの恣意が入り込む恐れがあり、容認できない。

 日本人大多数の意志の反映が、何によってか出来て、力を持つ、そういうシステムや仕組みが、なんとか作れないものか。