グレース・ホッパー准将と過労死

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マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 ……こう詠んでのけたのは寺山修司であったか。

 同じニヒルを「身捨つるほどの会社はありや」と言い替えてみれば過労死禍も減るのではないかと思うが、そうもいかぬというのが正直なところだろう。

 所詮身過ぎ世過ぎのことなら、七里蹴灰(けっぱい)、くだらん会社なぞケツを(まく)ってトンズラ退職してしまえばよい。それですべてはリセットだ。

 だが、退職してしまえばそれでおさらば、というふうにはいかぬ仕事だってある。人生の状態がそのまま仕事というような、退職できない仕事だ。かつてはそんな、「人生の状態がそのまんま職業」という人たちがザラにいた。定年で辞めたらそれでさいなら、とはいかぬ職業だ。

 どんな仕事か。

 かつての「僧侶」「神主」などがそうだ。かつての「やくざ者」もそうだった。もっと昔なら、「武士」だって「農民」だってそうだったろう。封建制とはそういうことを言う。自分一人のことで済むならまだしも、ホンモノの封建制は、農民に生まれれば、あるいは武士、商人、職人、なんでもいいが、子供や孫すら親の職業から「退職できなかった」のである。まあ、老齢で実際の役に立たなくもなれば、それはそれで思いやりというか、別の仕組みがちゃんと働き、僧侶であり神主、はたまたやくざではあるにしても、事実上隠居という状態もあったとは思うが……。

 僧侶とか神主とかやくざ者とかいう人生状態――もはや「職業」とも「仕事」とも言うまい――は、こうした封建身分制の残滓をつい最近まで色濃く残していた。

 現代では、やくざや僧侶にかなり近いものに「政治家」がある。80歳近い(よわい)でも、老骨にムチ打つようにして働いている政治家はたくさんいる。

 政治家よりもっと突き抜けたものに「皇族」がある。これは人生がそのまんま職業である人たちの極北だろう。「辞任」などというものでは、その責任を逃れることができない人々である。しかもなお、その身位は「世襲のものとする」と、唯一法律で定められた職業だ。

 辞めることができない職業として、日本ではあまり知られていないものに、「将校」というのがある。日本の旧軍隊もそうだったし、今の米軍も基本的にそうなのだが、「将校」というものに一度なってしまうと、死ぬまでやめられないというのが基本だ。現役の定年はあるが、その後は「予備役」に編入され、死ぬまで軍籍から離脱できない。

 現在の日本の自衛隊など、定年を迎えさえすれば永久に防衛省からおさらばすることができるから甘いものだが、実はこれは国際的なスタンダードではないのである。

 逆に、旧軍隊はこの国際的なスタンダードにのっとっていたものだから、職業軍人になることを当時は「永久服役」と言った。この「永久服役」から逃れることのできる数少ない例外に「死病にかかる」というのがあって、結核などにかかるとやっとこさ軍籍から縁を切ることができたものだそうだが、これは当時にあっては、不名誉なことであった。

 米軍の将校が今も「永久懲役」である判りやすい例は、プログラミング言語「COBOL」の生みの母、世界初の「物理的バグ」の発見者、グレース・ホッパー准将である。

 彼女は若い頃から米海軍将校として電子計算機システム開発に従事し、准将にまで上り詰め、彼女の名を冠した駆逐艦「グレース・ホッパー」まであるほどの有名人だが、よぼよぼのおばあさんになってもまだ海軍の軍服を着こんで、准将としてさまざまな活動をしていた。その名誉を受けるためというだけではなかった。将校の身分を捨てることが許されていなかったのである。まあ、ホッパー准将ぐらいにまでなれば、海軍でもこの老将を世界的IT技術者として大切にもするし、彼女も自分を大切に扱ってくれる海軍が大好きだったらしく、死ぬまで嬉々として海軍の制服に袖を通したものらしいが。

 しかし、軍隊が嫌いだったら、もう、こんなシステムは嫌で嫌でたまらぬだろう。なにしろ、「辞任というようなことでその責任を逃れることができない」んだから。

 だから、首を吊ったり飛び降りたりするくらいなんだったら、そんなカス会社、辞めなさいって。皇族とか外国の軍人に比べりゃ、屁みたいなもんだって、そんな安定、そんな身分、そんな責任。

おっさん勃然ボヤキ文字列

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こんなアホな投票あるかい(笑)

 あほかい。

 こんな、いかにも「教員そのもの」の男が、大学の構内のこういう所にこんなデカい看板持って立っててだな、ボードにシール貼らせる式の公開投票なんかしてみろ、こんなところでこんなこと聞くような男なんざ、「軍事研究断固反対」の活動家だって顔に書いてあるようなモンじゃねえか。

 そんな男が通行する学生に向かってだな、「オイッ!投票しろ!」なんて睨みつけながら迫ったら、そりゃ、学生は単位欲しいんだし、いい点数付けてほしいんだから、「はいいいいっ!軍事研究反対に投票しますっ!」って、ソッチにシール貼るに決まってるだろ。教員なんて公権力みたいなもんで、それで言えば教員と学生は、いわば「権力関係」にあるんだからさ。

 こんな不公平、不誠実な投票なんかあるもんかい、北朝鮮の選挙じゃあるまいし。

今上(きんじょう)陛下」か、あるいはせめて「今上天皇」と言えんのか、また「譲位」と言えんのか

 「退位」という言葉については、まあ、この前の「譲位という言葉には『譲る』という天皇陛下の能動的な意思が含まれ、政治への容喙という憲法違反の恐れがあるから云々」という屁理屈を百歩譲って聞きおくにしても、「今の陛下」とはなんだ、「今の陛下」とは。不敬だこんなものは。断固不可だ。今上(きんじょう)陛下と書け。

オスプレイ墜落の取り上げ方も気に入らぬ

 オスプレイが沖縄で墜落した。

 まるで「鬼の首でもとったような……」「祭りだワッショイ」のような、不謹慎なマスコミの騒ぎっぷりに腹が立つ。

 私としては、負傷した搭乗員の一日も早い回復を祈るとともに、今後の軍務に支障が出ないよう、心ばかりながら見舞いを申し上げ、同時に、一般の無辜(むこ)の沖縄県民の驚きと不安にも見舞いを申し上げたい。

 操縦者は傷ついた機体を巧みに操縦し、冷静な判断の上で真夜中の海上に機体を落下させた。無論、意図せざることとはいえ、空中給油モジュールをプロペラにひっかけたのは操縦者の責任だ。だがしかし、機体の無残な壊れ方から、正常な機動は極めて困難であったことは素人にも想像がつく。不幸中の幸い、操縦者の卓越した技術により絶妙な地点に落下し、2名の重傷者は出たものの、それでも全員命はあった。いわんや、沖縄県民に被害を出さなかったことは本当に良かった。

 彼ら搭乗員は、遊んでいたのではない。なんのため、誰のために深夜の空中給油という困難な技術を要求される仕事をしていたのか。アメリカに故郷と家族のある者、大の大人が、それを、何のため、どこの上空でしていたのか。それは、誰のためなのか。なぜ今なのか。そんなことをなぜする必要があるのか。

 クリスマスだのハロウィンだの、そんなキリスト教行事に浮かれる私たち日本人には、少し考えればわかることだ。たとえそれが自ら願ったことではないにもせよ……。

 もとより、合理的なアメリカ人はしなくていいことなんかしない。危険を冒す必要も、アメリカ人が金を払う必要もさらさらない。だが、それをしなければならなかった。

 それを日本中のメディアが(こぞ)ってボロカスに言うのは、あまりにも品がなさすぎ、残念である。

 しかし、沖縄の副知事と面談したニコルソン中将も、まんまと副知事の挑発に引っ掛かってしまった。これは痛い。ここは腹が立ってもグッと我慢するべきだった。

 ニコルソン中将が顔をゆがめて反駁(はんばく)する写真ばかりが、これでもかというようにクローズアップされている。気の毒である。

 つまり、この安慶田(あげだ)という副知事は、ヘリパッド工事を警備する警察官から「土人」「支那人」などという暴言を引き出すのに成功した例の活動家連中と同じなのだ。安慶田氏の立場になれば、「してやったり」というところで、嬉しくて仕方がないだろう。

 いくら武闘派、軍人中の軍人である海兵隊中将と言ったって、中将と言う極官にある者が、しかも元来は明るく楽天的なアメリカ人が、ちょっとやそっとのことで激怒なんかするものか。おそらく、この一部始終を報じる新聞記事には、意図的に削除された行間がある筈だ。安慶田副知事の口汚く狡猾な挑発について全ては書かれていないということが、この前の「土人」事件の一連の報道から容易に想像することができるのだ。

 さればこそ、……。オスプレイの搭乗員を庇う発言が、日本側から出る前にニコルソン中将から出てしまったのは、なんとしても惜しかった。

 ニコルソン中将は、部下を()べる責任者として、更に言うなら恤兵(じゅっぺい)を天与の義務として負う将校、アメリカ国民から兵という大切な命を預かっている士官として、至極(しごく)普通の気持ちを持っていたと想像されるだけに、惜しかった。

 ニコルソン中将にしても、かの「ディベート」などという、品のない文化(まか)り通るアメリカに生まれ育った生粋のアメリカ軍人だから、「ここは断固抗議して見せるのが正義である」と判断したのかもしれない。日本ではボロカスに書き立てられるが、こんなふうに書き立てている日本のマスコミは、米国では冷笑・憫笑(びんしょう)をもって無視されていることだろう。

 更に書きつのるなら、「やはり普天間(ふてんま)の住宅地の直上でこういうことが起こってはいかん。危険を取り去るためにも、すぐ辺野古(へのこ)へ移転しよう」となるのが素直(そっちょく)流露(りゅうろ)だと思うのだが、沖縄の活動家は全く逆に

「辺野古移転絶対反対普天間死守闘争断固完遂猛進激烈突撃激昂玉砕!!」

……みたいな、なんで、どうしてそうなンのよ、という、もう()(ほぐ)すことなど絶対不可能という状況にあるのが、実に恥ずかしくて仕方がない。

 うっすらと感じるのは、沖縄県民一般も勿論、沖縄をネタに活動する思想家の急先鋒も、自分たちが何をどうしたいのか、どういう生活を得たいのか、さっぱり(わか)らなくなっているのであろう、ということだ。