Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・木の芽和え

投稿日:

 青果店に大きな(たけのこ)が所狭しと並ぶようになった。先々週店先にあった筍は、赤ん坊の握り拳ほどであった。はや、今日店先に並んでいるものは、女の太腿ほどの大きさになっている。

 季節である。

 近所に住む姑の家の庭に山椒があり、毎年今の時季になると「木の芽」を分けてくれる。

 今年も分け前にあずかった。筍の水煮も作り置いてある。そこで、木の芽和えにして一杯やった。旨かった。

 例によって動画に撮り、YouTubeに上げた。

 飲んでいる酒はいつも通り「会津ほまれ」である。

 読んでいる本は、先日来ひきつづき、「世界教養全集 第1巻 哲学物語」(ウィリアム・デュラント著)である。

浅草でやげん堀の七味唐辛子を買う

投稿日:

 正月も三が日が明け、4日となった。

 料理、とりわけ鍋物、饂飩、蕎麦などに使う薬味に、七味唐辛子は欠かせないが、切らせてしまった。

 七味唐辛子は「浅草・やげん堀」に限る。

 一日、浅草へ買い物に行き、七味唐辛子を買うついで、「並木・藪」と「神谷バー」で一杯やって帰ってきた。

 楽しかったので動画を編集し、YouTubeにアップロードした。

ルーブル美術館展図録

投稿日:

IMG_2675 帰宅したら、注文しておいたルーブル美術館展の図録が届いている。良い時代だ、展覧会に行く前に図録を注文しておいて、勉強しておくことができるのだから、面白さ倍増である。

 姑から新鮮な葉山椒が届いている。いつのまにか姑の家の庭に生えるようになったもので、毎春分けてくれるのだ。これとちりめんじゃこを煎りあわせたもので飲む酒はたまらない。

わがことをまたぼんやりと木の芽和へ

投稿日:

 職場の建物の周りの植栽に、早春から今時分にかけて黄色い小さな花を咲かせる木本性のものがあり、なんという花か判らずにうちすぎていた。

 昨日、意を決して写真を撮り、図鑑などを繰ってみた。

 その結果、どうやら、「支那連翹(シナレンギョウ)」という花らしいとわかった。

 リアル、ネットを問わず、私を知る人は、私が日頃俳句をよく詠むものだから、私のことを季節や花に詳しい人だと思っているふしがある。だが、実際の私は逆で、植物や鳥に(くら)い。俳句も、天象や人事(行事や生活のこと)、時候、地理などはよく詠むが、植物は苦手で、あまり詠めない。せいぜい、春に桜や梅を詠むくらいだ。だから、この「支那連翹」も、私にはわかるはずもないのであった。

 私が育ったのは、大都会とまでは言えないものの、ある程度の街なかだ。つまり、そんなには自然に親しむ暮らしでもなかったのである。

 先日も、目白と鶯を間違え、「街路樹の梢に鶯を見た」などと言って憫笑をかった。鶯のような臆病な鳥が街路樹を飛び回るはずはない。少し自然の暮らしが身についている人なら知っているようなこんなことが、私にはわからなかったのである。

 昨日、帰宅すると、山椒のいい香りがする。キッチンのカウンターにゴマメを煎り付けた御菜の鉢があって、そこからの香りだ。これはどうしたの、と妻に聞くと、姑から「木の芽」が届いたのだと言う。見ると青い木の芽と一緒にからりと煎り付けてある。一つつまんで見ると、口じゅうに春の香りが広がった。

 姑は私の家から歩いて30分ほど離れたところに住んでいる。姑の住まいの庭に、去年なぜか山椒が小さな芽を出した。住宅密集地の小さな庭に、どうして山椒が生えたのかはまったく不明だ。ともかく、その山椒が一年たって少し育ったらしく、芽を採って分けてくれたのだ。

 この採りたての「木の芽」を煎り付けて御菜にしたのだから、美味くないはずがない。

 年寄りと言うのは、そういうところが素晴らしい。私なら、それが山椒とはわからず、雑草と一緒に引き抜いてしまったことだろう。姑は小さな芽であるにもかかわらず、香りと葉の形で「あら、こんなところに山椒が」と、むやみに引き抜くことなく、その芽を取り分けたのである。

 私は日常、日本人ぶったり、愛国者ぶっている。そのくせ、茶道も華道も知らないし、和服も着たことがない。と言って、今更あわててそれらの知識を渉猟したところで付けやいばに過ぎないから、すぐに馬脚が出てしまうだろう。

 日頃「ぶって…」いても、実は私は日本の四季と自然が身についていない、似非日本人なのかも知れない。

 だが、私のような人は、実は、多いのではなかろうか。

 私の姑のような、街中に暮らしてはいても、小さな山椒の芽に目をとめることのできる、四季と自然が気張らずに身についている、そういう人からよくものを学ばねばならない。年寄りは、失礼だがうかうかすると寿命が来てしまう。そうなる前に、なんとかその精神を引き継ぐことはできないものか。

 そうしていくうちに、身の回りの草花も、たとえば「支那連翹」と、覚えることができるのではあるまいか。