時事漫考

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いや、これは既に2千年もの昔に

 ああ、これ、ねえ。別に「最近」ってことはないんじゃないかな。「『産んでやった』『育ててやった』とか、恩を売るようなことを言うなら、なんで生んだんだ!お前らが勝手にしたことだろ!?」なんてことは、親に反抗する子の常套句で、取り立てて言うほどのことではない。

 それはさておき、出生の否定は人生の否定、ひいては世界の否定でもある。私はキリスト教の回し者ではないし、キリスト教なんか嫌いだが、このことに関する解決の無視すべからざる有力な一方策は、既に2千年の昔、ナザレの大工の息子、ガラリヤの説教師、イエスによって提示されている。

 そのいわく、「世界は悲痛や苦悩でできてはいない。喜びによって満たされている」すなわちこれである。ただ、その根拠について、キリスト教は強引なる(ちから)(わざ)()()せて有無(うむ)を言わせない。つまり「なんとなれば苦悩の根源たる人類のあらゆる罪はイエスが磔刑(たっけい)によって全部負ったから、あとは神の恵みによる歓喜のみが世界に満ち(あふ)れている」()って知るべし、知らば()(こん)より(のち)神の(おん)(ちょう)と光栄に包まれて(しろ)無垢(むく)の幸福そのものとなって()るべし、という破天荒かつ思考停止の論で片付けてしまっているのだ。

 実は仏教も似たり寄ったりのことを別の経路で発見・定義・教示しており、各宗派によってそれは様々なのであるが、悲しいことに我々日本人には中途半端なキリスト教気触(かぶ)れが多いから、当て(こす)ろうと思ってこういうふうに書いてみた。

 ところが、哲学者が(ヨダレ)()らして(くら)い付くこの問題の検討については、欧州では結局キリスト教が上のような一解決を提示して、それが大衆ウケしたものだから停止してしまい、プラトンだのアリストテレスだのの時代からプッツリ断絶、概ね1500年間がところ、ただの一歩も進歩しなかった。

 悪いことに、新教(プロテスタント)(かえ)って古いキリスト教の原理を再興してしまったから、ますますややこしいことになるのであるが、それはまた別の話である。

 結局、欧州で数百世紀にも及んだ図らざる集団的宗教実験はあまり成功していない、などとと吐き捨てるのは急ぎ過ぎだろうが、では他に納得のいく解決の選択肢が欧州の人々に与えられているかと言うとどうも怪しい。まして欧州以外においてをや。「選択肢が与えられているかというと」と書いたが、「与えられる」? 誰から? ……みたいな堂々巡りにもなるだろう。

 いずれにせよ、苦悩の解決に自ら到達する前に、圧倒的大多数の人間は長かろうと短かろうと命が尽きて死ぬわけだ。

 私ですか?

 私なんぞ、誰かに責任をおっかぶせて何かから逃れようなんてことは、とうに、してませんわ。いや、正確に言うなら、そんなことができる状況に、昔ッから、ない。だから幸福も歓喜もヘッタクレも、また苦悩も悲痛もクソも、そんなモン、アナタ(微苦笑)。そもそも誰かに責任をとらせよう、さて誰に責任を取らせよう、なんて選択肢の置かれた岐路自体が、私にはハナっから、ない。

 出生なんて所詮は親の恣意(しい)でどうにでもなる。ということは、この苦悩の始まりの出生や悲痛の連続の人生の責任者は誰だ! というふうに転嫁したい、責任者糾弾をしたい、例えばそれを親に向けたい。つまり人生の否定、出生の拒否なんてものは「ボクの、アタシの苦悩は親がスタートさせたんだ」と言うしょうもない屁理屈と同じこと。自分の悩みの責任を、パパ、ママ、あるいは坊主、和尚、神父、牧師、アッラー、エホバ、仏陀、阿弥陀、大日、観世音、ガースー内閣、アベ政治、麻原彰晃に幸福の科学、(イワシ)の頭、学校、教師、干しニンニクでも投げ上げ菖蒲(しょうぶ)でも心療内科クリニックでも精神病院でも市役所でも警察署でも、ドイツでもコイツでも何でもエエけど、とにかく手っ取り早く誰かにとってもらいたい、結局、ボクの、アタシの責任じゃないんだ! ……せいぜいその程度の、小学校の高学年あたりが顔を真っ赤にして言い立てそうなことだよ。

 餓鬼みたいなこと言ってンじゃねえよ。……あ、文字通りガキか。

 まあ、あくまで私にとっては、ではありますけどね。だからこんな暴論めいた自分流の解決を、自分の妻や子供も含め、誰かに押し付ける気もないですわ。「反出生主義」なるほど、ええ、ええ、結構なことじゃないですかね、おお、ヨシヨシ、オジサンが聴いてあげるよネンネちゃん、ってなモンですわ。

 あんまりにも無残で(すさ)んだ文章の成り行きになってきたから、皆さんがだ~い好きな、イエス・キリストの言と伝わる一句を書きつけて締めておきましょう。

マタイ傳福音書第6章第25節・第26節より引用。ルビは佐藤俊夫による。

 この(ゆえ)(われ)なんぢらに告ぐ、何を(くら)ひ、何を飮まんと生命(いのち)のことを(おも)(わずら)ひ、何を()んと(からだ)のことを思ひ煩ふな。生命は(かて)にまさり、體は(ころも)(まさ)るならずや。

 空の鳥を見よ、()かず、刈らず、(くら)(おさ)めず、(しか)るに(なんじ)らの天の父は、これを(やしな)ひたまふ。汝らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる者ならずや。

新年御祝儀相場でこんなに下げなら……キッシッシ

 大発会でこれなら、明日以降なかなか期待が持てるな。

「『期待』だと?」

……ええ、そうです。ほぼ全力売り中ですゴメンナサイ。

こんだけデジタルがいろいろあっても

 まあ、そりゃ、そうなんだろうねえ……。

 理由もヘッタクレも、下世話で恐縮だが、若い人には性欲ってモンも、そりゃ、あるからねえ。会わなきゃそれこそ「始まらない……」わけではある。単純(シンプル)そのものの話ですわ。天下の大新聞がンなこと書けやしないだろうけれども。

遺伝子治療による性犯罪の撲滅

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 昼下がり、武蔵野線に出没したという盗撮魔に関するFF外ツイートを見て、盗撮魔を憎むあまり、胸糞が悪くなったところである。

 標記には「性犯罪の撲滅」と書いた。これは()き文句である。つまり、強姦魔や盗撮狂、ロリコンなどに類する性犯罪だけが犯罪なのではない。他にも、殺人狂、盗癖者、職場に見られる圧伏狂、つまり最近流行のなんちゃらハラスメントなど、あらゆる時と場所において、人々を苦しめる病的犯罪者が横行しているのが現状である。

 これらのほとんどが脳と精神の異常による疾病と見てよい。

 以前、平成28年の相模原事件の折、狂人の人権を損なうことなく、安全かつ人道的に無害化できないか、と書いたことがある。しかし、その記事にも書いたように、様々な事情から、それは無理というものである。

 薬物治療も人格を損なうことが大きく、益少なく害多し、というのが実際のところだ。

 思うに、近代の医学は微生物の害を克服することによって長足の進歩を遂げた。のみならず、最新の現代医学は遺伝子に操作を加えることによって、生物としての人間本態に由来する癌や脳卒中などの疾病をも克服しようとしている。

 ならば、遺伝子操作によって、脳の個癖に起因する性衝動や加害衝動をコントロールし、犯罪人を鎮静化することはできないものか。

 往古は、平和な村で暴れ者として嫌われていた者が、外敵の襲来などの有事において目覚ましく戦って村を救い英雄となった、というようなことが世界中であったろう。また、悪疫によって死に絶えようとしている村において、たまたま生き残り、かつ性欲に満ち満ちた精力絶倫の男女が乱交し、子孫を復活させたということも、あるいはあったかもしれない。また、中世から近代にかけて、支配欲に取りつかれた者が旧来の因習をひっくり返し、社会のシステムをより合理的に変革した、ということも、それはあったかもしれない。

 今さら教科書に載っているような歴史を辛気(しんき)(くさ)く例に挙げることはすまい。

 だが、世界人口70億を越えようとする現代において、暴力や性や支配欲や、そんな動物的衝動はもはや無用である。

 女子高生のパンツの写真を撮って喜ぶ如き者のみならず、レイプ魔、盗癖、殺人狂、詐欺師その他、犯罪的性向を遺伝子から取り除き、人間を平和で静謐で神のように真っ白な、平等で平準な永久の存在にすることはできないものか。

 結論は出ている。恐らく、それは不可能なのであろう。

 不可能である以上は、この憎むべき人間というもの、これを愛し、共存していくより他はないのだろう。憎むべきを愛する、それは逆に、愛すべきものを憎むということと同義でもある。

もうちょっと言い方ってモンがあんだろ

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 Facebookの広告に、なんだか、「モテ方」みたいなのの指南サイトが出てきて、鬱陶しいので非表示にする。

 なにが鬱陶しいと言って、「女性を落とす」という表現に不快感を覚えるのだ。

 「落とす」とは何だ、「落とす」とは。まるで女を物のように考えているではないか。

 せめて「女性の愛を得る」とか「女に愛される」というふうに書けないものか。

 しかし、性欲に餓えたアホ男にとっては、射的の景品を「落とす」ように、女は「落とす」ものなのであろう。どうにも仕方がない。若いって、乱暴だよな。