引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。今は4冊目(第4)だ。収録著作は「三太郎の日記 第一」(阿部次郎)・「生活の発見」(林語堂・坂本勝訳)・「若き人々のために」(R.L.スティーヴンスン・橋本福夫訳)・「愛、愛より豊かなるもの」(J.シャルドンヌ・窪田般彌訳)の4つである。
まず最初に、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読み終わった。
正直、あまり面白い読書ではなかった。理屈っぽく、ひねくりまわった文章と論理、難解な語彙、内容の惰弱と懊悩ぶりも、私には合わなかった。
言葉
Es irrt der Mensch, solang er strebt.
「エス・アー・デー・メンシュ、ゾラン・エー・シュトリッブツ」、内表紙の見返しにこれが書かれている。ゲーテの「ファウスト」に出る名文だそうな。
曰く、「寔に人や奮進む間は躓かざるを得ず。」(『ファウスト』前川文榮閣、高橋五郎訳(明治37年(1904)))だそうである。
「人は努力する限り誤るもの」とでも言おうか。
断翰零墨
切れ切れの文章のかけら、とでも言うところか。
(『三太郎の日記 第一』(阿部次郎著、平凡社世界教養全集第4(昭和38年(1963))より引用。尚、難読の語には原文にないルビを佐藤俊夫が補った。他の『Blockquote』タグも特記しない限り同じ。)
……全体を通じてほとんど断翰零墨のみであるが、いかなる断簡零墨もその時々の内生の思ひ出をともなつてゐないものはない。
ここでは「翰」の字は「簡」と同じであるが、「翰」には鳥の羽で作った筆の意味があるのに対し、「簡」には竹をそいで作った札の意味がある。つまり、道具と媒体、というほどの違いがある。
昔は「書簡」よりも「書翰」という字の方がよく使われたが、「翰」は常用外の漢字でもあり、今はあまり見かけない。
阻遏
「はばむ」ことである。
ここで、「阻」ははばむ意味、「遏」はとどめ、さえぎり、絶つ意味である。
……さうして自分は自分の内面的欲求が特にその阻遏さるる点において燃え立つことを経験した。
しかし、「妨害される」とでも書けばいいところを、なんでまた「阻遏」と書くかねェ(苦笑)。古い著作であるせいか、全編を通じてこんな感じだ。
裨補
助け補うことだ。
「裨」には助ける意味の他、「小さい、いやしい」という意味もある。同じ助ける意味の漢字でも、「佐」「祐」の二つの漢字で言うと、「佐」の字に近いように思う。
……もしこの書を貫く根本精神が多少なりとも生きてゐるならば、読者の胸中に、矛盾を正視しながら、しかもその中に活路を求むるの勇気を鼓吹する点において、幾分の裨補がない訳はないと思ふ。
蝕ふ
これで「そこなう」と訓む。
「生活は生活をかみ、生命は生命を蝕ふ。……
フオルキュスの娘たち
……俺は今眼を失へるフオルキュスの娘たちのやうに、黄昏れる荒野の中に自らの眼球を探し廻つてゐる。
「フォルキュスの娘」というのはギリシャ神話に出てくる「蛇女ゴーゴン」のことなのだが、はてさて、ゴーゴンを含むフォルキュスの娘姉妹たちは、盲目だったのだったっけ、どうだっけ……。
渉猟するうちWikipediaに、それかな、というギリシャ神話の筋を見つける。
Wikipediaでのカナ表記は、「フオルキュス」ではなく「ポルキュース」となっている。
しかし、阿部次郎が求道のことを、なぜグライアイに例えたのかはさっぱり不明である。ひょっとして、「ギリシャ神話の素養などをひけらかしてエエカッコしたかっただけ」なのではあるまいか。
ミネルヴァの梟
……ヘーゲルは「ミネルヷの梟は夕暮に飛ぶ」と云つたと聞く。
一般にはこの言葉、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug」という一句として知られている。大哲学者ヘーゲルの「法の哲学」の序文にあるそうだ。
いうまでもなく梟は夜行性の鳥だ。ミネルヴァの梟は知慧の象徴である。それが夕方飛び立つ、という例えで何を言いたいのかというと、自分が位置する今というのは知慧や思想の末期で、あらゆることは先哲が考えた後である。しかし、その末端に位置する「今」というこの時に、つまり「哲学の黄昏」であるこの今、まさに知慧は飛躍する、ミネルヴァの梟は飛び立つ、この時にあって、眠っていた哲学はより高みに飛び立つのだ。
……という意味だと、私は解釈した。
Für-sich・An-sich・Pessimismus
この著作もそうだが、この「平凡社世界教養全集」、やたらとドイツ語の混ぜ書きをする衒学的な著作が多くて、読みにくくて困る。
ドイツ語の「Sich」は英語の「Yourself」と同じと考えていいようだ。同じく「Für」は「For」である。また同じく「An」は「At」である。
そういうわけで、「Für-sich」は「自分自身のため」、「An-sich」は「自分自身において」、つまり「自分自身」ということである。
「Pessimismus」は英語で「悲観論」である。
……Für-sich は An-sich を蚕食し陥没せしむるものと云ふことが事実ならば、しかしてこの事実を評価する者が俺のように An-sich の純粋と集中と無意識とを崇拝する者ならば、その者の哲学はつひに Pessimismus ならざるを得まい。
「自分自身のためにすることが、自分自身を損なってしまうことがあるとすると残念なことだ」ということを言っているのだが、それを言うのになんでこんな書き方をするかねえ……。ま、私も人のことは言えんか(苦笑)。
コボルト
「西洋小鬼」みたいなものか。
……嗚呼わが魂よ、コボルトのごとく躍れ跳れ。
レオパルヂ
レオパルヂは覚え帳にかう云ふ意味の言葉を書いた。
イタリアの文筆家で哲学者のジャコモ・レオパルディのことであろうか。
坌湧
これで「ふんゆう」ではなく「ふんよう」が正しい。
「坌」という字は見慣れないが、これも「坌く」と書いて「わく」と訓む。よって、「わき、わくこと」が「坌湧」である。
自分が経験する思想の坌湧は一尺ほれば湧いて来る雑水のやうなものであらう。
アスピレーション
「aspiration 願望」である。
……疲れた親は活力に溢れた子供のアスピレーションに水をさす。
フモール
英語の「ユーモア」のことである。
……「わが身を共に打掛に、引纏ひ寄せとんと寝て、抱付き締寄せ」泣いてゐる美しい夕霧の後には、皺くちやな人形つかひの手がまざ〳〵と見えてゐる。かくのごとき二重意識の呪を受けた者の世界は光も暗である。狂熱も嘲笑である。悲壮も滑稽である。要するに一切がフモールである。
蛇足だが、今、上に本文を引用するとき、縦書きの「くの字点」を横書きにするのに、少し戸惑った。このこと、ネットでも少し議論があったようだ。
縦書きなら、
……と、このように問題ないのだが、横書きにした途端、違和感が甚だしい。
沈湎
沈み、溺れることだが、どっちかというとネガティブな意味で使うようである。
「湎」という字にも沈むという意味がある。
事実の改造に絶望する時、暫く三面の交渉を絶つて静かに一面の世界に沈湎せむとする時、眼をそむくるの抽象は吾人の精神に揺籃の歌を唱ふの天使となるのである。
彳む
「ぎょうにんべん」ではない。これで「彳む」と訓む。
……縁に彳みて庭を眺め虫を聴き、障子を開いて森に対し月を見るの便を主とするがごときは、すなはち内より見たる自然との抱合である。
浮萍・肆意
「浮萍」。「萍」という字は「うきくさ」と訓む。意味を重ねて、文字通り「浮萍」とは浮き草のことである。
「肆意」。「恣意」と同じ意味である。
「肆」という字には「さらしものにする」という意味があり、そういう意味では例えば「書肆」という言葉があるが、その意味は本を並べて見せている、というところから本屋のことを言うのである。しかし、「さらしものにする」という意味からは「恣」の意味も生じてきて、「肆意」と「恣意」は同じ意味になってくるのである。
……嗚呼わが魂よ、汝融和抱合の歓喜を知らざる矮小なる者よ、汝根柢にいたらずして、浮萍のごとく動揺する迷妄の影よ、肆意にして貧弱なる選択の上にその生を托する不安の子よ。
フレムト
ドイツ語で「fremd」である。
……徹頭徹尾たゞ自己一身を挺して、端的に自然に面する者にあらざれば、真正に孤独を経験し、真正に自然の威力を経験することが出来まい。単身をもつてフレムトなる力の中に侵入して行く時、フレムトなる力の中に自己を没却してしかもその中に無限の親愛を開拓し行く時、始めて真正に自己の中に動く力の頼もしさを感ずるを得よう。
外国の、とか、奇妙な、とか言う意味だが、ここでは「異質な」という意味で使われている。英語だと「strenge」である。
擺脱
「取り除いてしまうこと」である。「擺」という字は「く」を送って「擺く」と訓み、単に「ひらく」という時よりも、より強く「おしひらく」という意味がある。したがって、「擺脱」というのは、「おしひらき、取り去ってしまう」という意味である。
……彼らは畢竟未練にすぎない。幻想にすぎない。この未練を擺脱すれば、余は常に死に対して準備されてゐる。
二致あるを感じない・二致がない
これがまた、実に込み入った、ややこしい表現である。
「一致」という言葉を想起すればこの「二致」という言葉は分かり易い。すなわち、「一致」というのは言わずと知れた「一つの趣旨」のことだ。だから、符合することを「一致する」という。
他方、「二致」というのは二つの趣旨のことだ。「一致」の反対である。
そこで、「一致する」「二致しない」は、「逆×逆」で、だいたい同じ意味、ということになる。
そうすると、「二致あるを感じない」というのは、「逆×逆」で、「一致があるのを感じる」という意味になる。同様に、「二致がない」というのは「一致がある」という意味となる。
……少なくとも純一なる主義、純一なる力をもつて自己の生活を一貫するを得ざる自らの迷妄を恥ぢざるを得ない。恋愛のために殉ずる人も、君主のために殉ずる人も、自分の不純を鞭つにおいては二致あるを感じないのである。
……彼を自然とし此を不自然とするは論者の誤謬である。いづれにしてもその半身を求める憧憬に二致がないから――
しかしそれにしても、「自分の不純をむちうつのは同じことだ」と言えばいいのに、なんでまた「自分の不純を鞭つにおいては二致あるを感じないのである」なんて、ヒネクリ回した書き方をするかね、この著者は(苦笑)
コンゼクヱンツ・インコンゼクヱンツ
この著作では「コンゼクヱンツ」というふうに、「エ」をかぎのある「ヱ」に書いている。
「コンゼクエンツ konsequenz」。「結果」という意味である。ドイツ語だ。では「インコンゼクエンツ」が結果の逆で「過程」とでもいう意味かというと違っていて、「矛盾」である。
……彼はこの性質のために自分の思想的行動経験気分を検査して一々そのコンゼクヱンツを討さなければ気がすまなかつた。さうしてそのコンゼクヱンツを検査することは常にインコンゼクヱンツを発見する結果に終つた。
Zweisamkeit
「zweisamkeit ツワイザムカイト」。ドイツ語で「連帯」である。
「両性」の生活においてもこの形而上的転換を経験し得た人は、換言すれば永遠の Zweisamkeit を刹那に経験し得た人は、この刹那の経験を説明するものとしてアリストファネスの神話的仮説を笑はないであらう。
窈深
窈深。「奥深い」ということである。
「窈」という字には「暗い奥のほう」、というような意味がある。奥だから、暗いわけだ。
……差別された物と物とはまつはり合ひ、からみ合ひ、もつれ合ひ、とけあつて、最後に一つの窈深なるものに帰する。
本文のルビは旧仮名で「えうしん」と振ってある。
菽麦を弁ぜざるもの
菽麦の「菽」とは豆のことを言う。
で、そこへ「麦」であるから、「菽麦」というのは「豆と麦」のことである。
「豆や麦を弁じない」というのだから、「食うのに困っている者」というような意味かな、と思ったら大違いで、「豆と麦の違いもわからないばか者」のことを「菽麦を弁ぜざるもの」というのだそうである。
しかし、この意味からすると、読み方は「弁ず・弁ぜざるもの」というよりも、「弁ふ・弁へざるもの」と訓んだ方があっている気がするのだが……。
……私は差別することを知らざるものの――祖先の用ゐ慣れた熟語を用ゐれば、菽麦を弁ぜざるものの――いはゆる「渾一観」を信ずることが出来ない。
啻に
古臭い言い方・書き方、文語では「啻に」「唯に」だが、もしこれを現代語で簡単に書けば「単に」である。文字が全然違うが、意味はピッタリ同じと考えてよい。
……しかしこれらのものを強調すると称して、創造の世界における差別の認識を、生命の発動における細部の滲透を、念頭に置かざるがごとき無内容の興奮に賛成することが出来ない。否、啻に賛成ができないばかりではなく、私は彼らのいはゆる「生命」、いはゆる「創造」、いはゆる「統一」の思想の内面的充実を疑ふ。
アレゴリー
allegory。比喩・寓喩。要するに、例えである。
……かくのごとき自覚の下に描かれた絵画には、筆触と色彩と構図との虐殺があるのみである。戸迷ひのシンボリズムとアレゴリーとがあるのみである。
次
さて、次は珍しく中国の作家の作品である。林語堂の「生活の発見」(坂本勝訳)だ。