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 約60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、最後の収録作、天心岡倉覚三の「茶の本」、帰りの通勤電車内で読み終わる。

 晩年米国ボストン博物館内に暮らしたという異色の人物の、全文英文で(あらわ)された、これまた異色の書である。

 日本の茶道を、世界中での喫茶の習慣や、中国における歴史的な喫茶の風儀と関連づけて論じるとともに、禅との関係性によって定義しようとするものであった。

 上のように書き出してみると現代に生きる私たちにはあまり違和感はないが、その私たちの茶道に対する認識の基礎になっているものは、他ならぬこの岡倉天心が近代において唱えたものであり、「茶の本」が著された明治時代の末頃では、むしろ異色の見解であったと言えるのではないだろうか。


気に入った箇所
平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「茶の本」から引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.424より

茶道の影響は貴人の優雅な閨房(けいぼう)にも、下賤の者の家にも行き渡ってきた。我が田夫は花を生けることを知り、我が野人も山水を()でるに至った。俗に「あの男は茶気(ちゃき)がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽(こっけい)を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通(はんかつう)を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。

p.435より

 翻訳は常に叛逆(はんぎゃく)であって、明朝(みんちょう)の一作家の言のごとく、よくいったところでただ(にしき)の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。(いにしえ)の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。

p.438より

昔、釈迦牟尼(しゃかむに)、孔子、老子が人生の象徴酢瓶(すがめ)の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが()いと知り、仏陀(ぶっだ)はそれを(にが)いと呼び、老子はそれを甘いと言った。

p.438~439より

われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩(いんゆ)で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。例えば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。

p.445より

利休はその子紹安(じょうあん)が露地を掃除(そうじ)し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってからむすこは父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠(いしどうろう)や庭木にはよく水をまき蘚苔(こけ)は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の(にしき)を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。

p.452より

 実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着(むとんじゃく)に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利(あしかが)時代の傑作よりも美術鑑賞の(かて)としてもっと消化しやすいであろう。

p.454より

原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国にはいったのである。

言葉
カメリヤの女皇

 「カメリヤ」とは椿(つばき)のことである。他方、「茶の木」はツバキ科ツバキ属の常緑樹であることから、岡倉天心は茶を楽しむことを「カメリヤの女皇に身をささげる」と(たと)えたのである。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.425より

してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。

 今、「カメリヤの女皇」で検索してみると、岡倉天心に関する論文などが上位に来る。やはり本書中でも有名な比喩なのだろう。

 次は同じく世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」である。今度は第6巻と打って変わって、すべて外国人による日本論である。


読書

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 60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第6巻を読んでいる。

 先月22日に第5巻を読み終わり、この第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」に来た。先週2月4日火曜日の帰り電車の中で「日本的性格」(長谷川如是閑(にょぜかん))を読み終わり、次の「大和古寺風物誌」を読み始めた。

日本的性格(長谷川如是閑(にょぜかん) 著)
気に入った箇所
平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「日本的性格」から引用。
他のblockquoteタグ同じ。
p.42より

 和歌が全国民の文学であったのは、上代の社会のことで、それが貴族社会の形式化によって、国民の手からとりあげられたのは、すでに平安朝時代からのことであった。しかし武門時代においても、歌はあらゆる階級の音律的言葉となっていて、その言葉を語り得ないものは武士としても不名誉とされた。

 けれども事実上、歌は近代の町人文化の形態たるにはあまりに貴族的形式に規定されてしまっていた。そこからまず連歌が生まれ、より自由な言語による歌の応酬が回復されたが、それがいわゆる連歌師のギルド的約束によって、複雑にして困難な形式となった時に、それを極端に簡単化した発句となった。連歌の初めの一句を独立させたのであった。そうしてそれはもっとも普及的の町人文学となったのだが、これもむろん、日本文明が全国民のそれでなければならないという伝統の回復であった。

 上の部分は俳句がどういう性格の文芸であるかということを、日本全体の性格と関連させてよく言い当てていると思う。

p.51より

 日本文化の外国的起原を高調する人々に対して、「純日本」を高調する人々がある。ことに民族宗教的の信仰や国民道徳の特殊性を指摘するものが多い。それらの人人((原文ママ))は、往々保守的傾向となり、外国文化の排斥に傾き、進歩主義者と対立することとなる。けれども、彼らの主張にも真理はある。というのは、日本人は、古代においても、近代においても、外国文化に対して非常に敏感で、ただちにそれを採用する進歩主義者であったと同時に、その反面に、自国の伝統的なるものを頑強に固執する一面をもっていたのである。国民的に、同じ時代において、その両面をもっているのみならず、個人的にも、右の両面を一人で備えているものも珍しくないのである。

 保守的なのに、新しいことをしたがる、という人は、自らそれと知らず多いように思うが、上引用のようなことなのかな、と感じる。

p.63より

かなり正しく、しかしやや詩的の表現で、日本人の性格や道徳を外国人に紹介した岡倉覚三は ‘The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.'(“The Awaking of japan”)といったが、我が国中世の武力闘争の支配した時代のサムライでさえ、冷静がその勇気であり、道徳であった。岡倉はその理由として ‘In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.’といったが、しかし我が国のサムライの冷静な一面は、大陸伝来の禅の教養によるというよりは、むしろ日本人固有の心理によるものというべきである。

 英文は有名な天心岡倉覚三の著書からの引用である。「The Awaking of japan」は「日本の目覚め」として岩波から出ている。

「The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.」というところは、「武士は彼の刀のように冷たく落ち着いていたが、それが火焔によって鍛えられたものであることを決して忘れなかった。」とでも訳せばよいのだろうか。また、「In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.」というところは、「封建時代、禅は彼に自己抑制を教え、礼儀正しさを勇気の証明にした。」とでもなろうか。

p.64より

すなわち、日本人は、国民としては歴史のもっとも重大な時期において、自制と自己反省の心理を失わなかったのである。

 武家専制の時代が始まっても武家そのものにそうした抑制の心理があった。北条氏は事実上政治上の独裁権を獲得したが、なお将軍家を奉じて、自ら陪臣の資格に止((表記ママ))まった。

p.85より

 御所の建築の単純、質素なのは、外国のように帝王の住居を城郭とする必要のない、わが国の皇室だったからであるが、それにしても皇室の威厳を象徴するためにも、今少し外観の壮麗を発揮する筈だが、上代にシナとの対抗上、やや大規模の宮殿の経営を行った例が二、三あるだけで、それも人民の課役が困難なため中止した場合が多い。

 引用の通り、皇室は、ことに京都御所など、質素なものである。

p.85より

 古来日本の文学には、シナや西洋のそれに見るように、自然を現実に鑑賞する態度に欠けている。今日の文学においても、自然描写において卓越しているものは、はなはだ多くない。国民文学としての歌においても、『万葉』以来、自然描写がもっとも短所であった。自然に対しても、日本人は抒情的に感覚する。

 この部分は「エッ、果たしてそうかなあ」と少し反対が胸に湧くが、続いて

同じくp.85より

上代の大和朝廷の貴族が憧憬した吉野山の風景の如き、抒情詩の背景としても、何ら現実的の鑑賞は現われていない。『万葉』にある吉野山の歌は、ことごとく概念的の記述に始終している。

 富士山に対する山部赤人の有名な歌でも、自然描写でも何でもなく、ただ概念的に、古来語られている富士を語って、「語り継ぎ、云ひ継ぎ行かむ」といっているに過ぎない。「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」という反歌には、いかにも日本人の自然に対する態度の素樸さが見えていて、写実的のその態度も面白いが、しかしこれも実際見た現実ではなく、いわゆる「歌人はいながらにして名所を知る」というような格言を生ずることが、日本人の自然に対する感覚の不充分をいい現わしているのである。

 と言われてしまうと、そうかも知れないな、と思う。

「山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく」(柿本人麻呂)

「み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)

……というような歌も、自然を読んでいるようでいて、よく読むと自然を写し取ってはいない。読み込まれているのは自然に対する主観であり、読み手の観念である。

言葉

連袂(れんべい)

 「れんけつ」だと思ったら、「(たもと)」の音読みは「べい」だそうである。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.4(著者略歴)より

三十九年三宅雪嶺らと連袂退社し、「日本及び日本人」に拠る。

 文字(づら)は「袂を(つら)ねる」とあるわけだから、意味は分かるが、読みは知らなかった。

膠柱(こうちゅう)的」

p.8より

 国民の場合も個人の場合も、時代の必要に応じて、種種なる性質が要求されるもので、したがって性格の涵養は、決して膠柱的ではあり得ない。

 これは、故事成語である。

 「膠柱」、つまり「膠」と「柱」であるが、それだけではサッパリわからない。この「柱」とは、「琴柱(ことじ)」、つまり琴の音程を調節する、白くて三角形の、琴の弦の下に並んでいるアレのことである。

 琴の音程は、この琴柱をその都度自在にずらして調えるが、これを立てたままでは弦が伸びて傷んでしまう。だから演奏しないときは外す。演奏するときは改めて琴柱を立て、試し弾きしながら音程を調える。これにはけっこう手間がかかるというので、琴柱を「膠」、つまり接着剤で琴に固定してしまった人がいた。

 ところがこれでは、微妙な琴の調整ができず、別の曲を弾くことができないばかりか、琴は温度や湿度、経年変化で音程もその日その日で違ってくるから、まるで使えない楽器になってしまう。

 この故事を「琴柱(ことじ)(にかわ)す」と言い、史記・(りん)相如(しょうじょ)伝が出典というが、手元に書籍がなく、確かめてはいない。

 史記・藺相如伝というと、一般によく知られている成語の出典には、「完璧」の故事、「刎頸の交わり」の故事などがあろうか。

 ともかく、「膠柱的」というのは、自在に調整もできず、融通がきかない、固着的なことを言う。

「那堪空閣妾。未慰相思情」

p.22より

その時代の漢詩文を集めた『文華秀麗集』には、大伴氏の女性の作があり、『経国集』にも嵯峨天皇の王女有智子内親王の詩が載っている。それには「那堪空閣妾。未慰相思情」というような句もある。女性教養の自由であったのは、臣下の女性のみではなかったらしい。

 この句について、手元に調べる便(よすが)がなく、訓み下しがわからないのだが、多分、

(なん)()れ空閣に()へん (いま)相思(そうし)の情を(なぐさ)まず」

……ではないかと思うのだが、違うかもしれない。

()ち得る」

 「贏」の音読みは「エイ」「ヨウ」、訓読みは「あまり」等であるが、「贏ち得る」と書いて「かちえる」だそうである。

p.22より

女性が日本文学の創始者たる栄冠を贏ち得たのは当然であろう。

 訓み方は分かったが、なんで「勝ち得る」と書かず「贏ち得る」と書くのか、理由はちょっとよくわからない。

(かがみ)を将来に(のこ)す」

 また実に難しい。「鑒」は音読みにカン・ケン、訓読みで「かんがみる」「かがみ」だそうな。「貽」の音読みは「イ」「タイ」、訓読みは「のこす」「おくる」だそうである。

p.33より

シナ流の歴史観によって「鑒を将来に貽す」(『続日本後紀(しょくにほんこうき)』)とか「善悪を甄ち、以て懲勧に備ふ」(『三代実録』)とかいうことを序文にいっていたりするが、内容はかならずしも事実を道徳で歪めているわけではない。

「善悪を(わか)ち、(もっ)懲勧(ちょうかん)(そな)ふ」

 「甄」の音読みは「ケン・シン・セン・ケイ・カイ」、訓読みは「すえる」「つくる」「みわける」とある。

 ところが、「甄ち」というのがわからない。「(みわけ)る」という()みがあるところから、多分「(わか)ち」ではないかと思う。

(すく)ない」

 これで「すくない」と読む。この文字からは、普通は「(あざ)やか」という訓読みが真っ先に思い浮かぶ。そうすると、あざやかなもの、ということで、そこから「新鮮」のように「若い」という意味が出てくる。そこから更に、「若い」は「すくない」に通じ、「鮮」の一字で「若死に」の意味までも持つのだそうである。

p.39より

おそらく西洋の近代国家でも、その文明がわが徳川時代のそれのように、下から盛り上がって出来たもので、しかもピラミッド型に下の方が広がったものであるという例は鮮ないと思う。

 思うに、「朝鮮」という国号は、「朝」には国とか王権とかいう意味があり、それに「鮮」ということは、「若々しい国」、あるいはそこから、特有の謙譲をもって「中国に比べるとまだおさない国」というようなことなのかも知れない。

粗笨(そほん)

 荒っぽい、雑、というような意味である。

 「粗」は「あらい」であることは論を待たないが、「(ほん)」は、竹が太く、荒いことで、そこから広がって、「おろか」「うすのろ」などのネガティブな意味を持たせられている。

  •  (ウィクショナリー日本版)

「スペキュレーション」

 投機、思惑などのことであるが、文脈では「思い切った推測」のような意味で使われている。

p.94より

 かくの如く古代中世の歴史には珍しい信仰状態がどうしてわが国に成立したかについては、いささかスペキュレーションに傾くが、おそらくわが国固有の民俗信仰そのものが、わが国民形態成立の人類学的研究に現われている諸民族の混和という事実に伴うところの信仰の混和から成立したものであったからではないかと考えられる。

(うった)える」 

 なんと、これで「うったえる」である。

p.108より

ただ文学はその表現が議論ではなく具体的であるから、われわれに間接に愬えるので、読む者が何とかそれを再現して見なければならぬ。

大和古寺風物誌(亀井勝一郎 著)

 亀井勝一郎は筋金入りの共産主義者だったと思うのだが、こんなにも上代の日本と皇室に対する讃頌(さんしょう)の念、日本書紀への通底が深かったのだとは知らなかった。

 まだ読んでいる途中だが、そんじょそこらの薄っぺらな左翼とはわけが違う、と思った。

言葉

上宮(じょうぐう)太子(たいし)

 聖徳太子のことである。

 最近、学校では聖徳太子の幼名である「(うまや)(どの)皇子(みこ)」として歴史を教えているらしいが、どうも気にくわない。

 昔から聖徳太子は「聖徳太子」として呼びならわされてきているが、これは、聖徳太子の生前の名前ではなく、諡号(おくりな)、すなわち、故人の生前の徳を称えて死後に送られた名だからである。諡号は尊重されるべきものであるから、よって、故人を敬い、死後は諡号で呼ばねばならぬ。

 もしそれがかなわぬ時は、死ぬ直前の名で呼ぶことである。「厩戸皇子」の名は幼名で、推古天皇の摂政として政務をお取りあそばされていた頃の聖徳太子は「上宮太子」と呼ばれていたのである。

 この作品中では聖徳太子のことは一貫して「上宮太子」と記されている。

歔欷(きょき)

 すすり泣き、むせび泣くことである。

平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「大和古寺風物誌」から引用。
下線太字は佐藤俊夫による。
p.146より

高貴なる血統に宿った凄惨な悲劇を、御一族は身をもって担い、倒れたのであるが、この重圧からの呻吟と歔欷の声は、わが国史に末長く余韻して尽きない。

前巻「現代人のための結婚論」にあった愛の相互性とオタクについて

 ふと、前に読んだ世界教養全集第5巻収録の「現代人のための結婚論」(H.A.ボウマン)の中の、「愛の相互性」というところで思い当たったことがある。

平凡社世界教養全集第5巻「現代人のための結婚論」から引用。

p.438から

 そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。

 
 ここで思い当たったのが、所謂(いわゆる)オタクのマニアックと相互性についてである。

 つまり、こうだ。

 1対1の愛については相互性があるといえよう。「私は彼女を好きになった」という場合、彼女は私を好きであったり嫌いであったり、そのどちらでもなかったり、あるいはそれらの中間であったりする。

 しかし、「私は湯飲みを愛する」などと言っても、湯飲みから何ほどのものが返って来るでもなく、これは「相互性のない愛」であるとは言える。

 だが、工業製品の消費者としての感想は、巡り巡って作り手に届き、ひょっとすると新製品のデザインに反映されるかもしれない。だが、それは相互性と言ってよいほどのレスポンシビリティではないだろう。

 同様に、アイドルのファンの熱狂はアイドルを擁するテレビ局やプロダクションの経営に反映され、アイドルの立ち居振る舞いに影響を及ぼすかもしれない。しかし、その影響はごくわずかであって、これも相互性と呼べるようなものではなく、一方的な熱狂に過ぎない。

 「漫画の売れ行き」や「アニメの人気ぶり」なども、似たり寄ったりだろう。つまり、1対1ではなく、漫画の出版社と一読者の熱狂とは、10万対1くらいの反映のされにくさの相互性しか持っていない。

 だから、オタクの愛は愛ではない、と言えないだろうか。そしてまた逆に、相互性のない、愛とは言えない自称の愛を「オタクの愛」と言い、また相互性のない愛を愛として認めている者を「オタク」と定義づけることはできまいか。

読書

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 平凡社の世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」を読み終わる。

 どの評論も結局のところ海外のものの翻訳であったり抄録であったりするので、どうも論理に飛躍があるなどしてわかりにくいところも多く、「まあ、こういう論もかつて世にあったのだな」という感じで、面白い読書ではなかった。

 但し、最後の評論、「現代人のための結婚論」は、平明でわかりやすい箇所も多く、この巻では最も共感の大きいものであった。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」のうち、「現代人のための結婚論」から引用。
他のblockquoteタグ同じ。

p.512から

この本の冒頭にながながと述べたように、人とうまくやっていける技術と精神を身につけた人だけが離婚の十字架を負わなくてもすむかもしれない。そしてそう思えばこそ、「ゲット・アロング・ウイズ」ということを、私たちは何よりも強調したのだ。ゲット・アロング・ウイズは教育の事がらである。

p.513から

How do I love thee ? Let me count the ways.
I love thee to the depth and breadth and height.
My soul can reach, when feeling out of sight
For the end of being and ideal grace.
I love thee to the level of every day’s
Most quiet need, by sun and candle light.
I love thee freely, as men strive for right.
I love thee purely, as they turn from praise.
I love thee with the passion put to use
In my old griefs, and with my childfood’s faith.
I love thee with a love I seemed to lose
With my lost saints. I love thee with the breath.
Smiles, tears, of all my life ; and, if God choose,
I shall but love thee better after death.

下は、上の詩を佐藤俊夫が試訳したものである。誤訳等については寛容願いたい。
如何(いか)(なれ)を愛すや そが手段(すべ)を数へ述べん
深きに広きに高きに汝を愛す
眼に(みゑ)ざれば魂にて(ふれ)
かの至善至高(おふ)るとも
汝を日夜愛す ()(ともしび)の欠くべからざるが如く
汝を自由に愛す 人正しきを求むるが如く
汝を純粋に愛す 人称賛より離るゝが如く
汝に情熱を注ぎて愛す 
(いにしへ)悲しみに(そむ)けるが如く (ゐとけな)き日々の信仰の如く
(きゆ)るとも更に()た汝を愛す
聖魂(うしなは)るゝとも 汝を愛す 息吹(いぶき)
(ゑみ)に 涙に わが生命(いのち)の全てにより
神死を(たまひ)てのち(なほ)()た汝を愛さん
佐藤俊夫注記 原詩10行目後半「Childfood」は本書記載の通りとしたが、「Childhood」の誤字と思われる。

 なおこの詩は、世界的に有名な詩であるようだ。イギリスのエリザベス・ブラウニングという詩人の作品である。私は知らなかった。翻訳もあまりないようだ。

p.515「解説」(堀秀彦)より

天才的な妻とは、たいへんやっかいな妻のことだ。非常に個性的な夫とは扱いにくい夫のことだ。結婚生活をしている限り、男も女もよい意味で平凡な人間でなければいけないようだ――だから、常識的でわかりきった結婚論がいちばんよい結婚論だとも言える。

p.516、同じく解説より

この本は人と人とがどうしたらうまくやっていけるか、という問題を出発点とし、一貫したすじとして書かれている。

 上記は私の読後感と全く一致する。

言葉
ゲット・アロング・ウイズ

 「Get along with」。簡略に言って「仲良く」であろうか。

引用元前記と同じ。下線太字は佐藤俊夫による。
p.512から(前出)

この本の冒頭にながながと述べたように、人とうまくやっていける技術と精神を身につけた人だけが離婚の十字架を負わなくてもすむかもしれない。そしてそう思えばこそ、「ゲット・アロング・ウイズ」ということを、私たちは何よりも強調したのだ。ゲット・アロング・ウイズは教育の事がらである。

 単純な真理である。人と仲良くできないような者同士が結婚などできるはずもあるまい。

 次は、同じく平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」である。前巻と打って変わって全部日本人の著作である。但し、最後の「茶の本」は岡倉天心が英語で表したものであるから、翻訳である。