3秒でも5分でも1時間でも1日でも3日でも1週間でも1か月でも1年でも10年でも、時間と言うのはどんな尺度でも、本当に
人間関係に悩む人は、時間に甘えよう。
オッサンは生きている。
3秒でも5分でも1時間でも1日でも3日でも1週間でも1か月でも1年でも10年でも、時間と言うのはどんな尺度でも、本当に
人間関係に悩む人は、時間に甘えよう。
以前、
その頃、ちょうど日本では「測地成果2000」という標準が行き渡り、明治時代からの伝統である「ベッセル楕円体」を使用した
そこへ、GPSの普及、またこれを活用したカーナビの普及で、米国主導の座標系である「WGS-84」も混在して使用されるようになった。そのため、当時の情報システム内部では、旧日本測地系、GRS-80測地系、WGS-84測地系の三つの測地系を矛盾なく混在させて作動させる必要があった。
プログラミング技術上では、例えばC++やJavaなどのオブジェクト指向言語なら、こうした事態を解決するため「座標」のクラスを作り、クラス内部ではいずれか適切な座標系で数値を保持させる。その数値は「プライベート」にして隠蔽し、クラス外からの直接操作はこれを禁ずる。「アクセッサ」のみを使用して座標を操作するのだ。そして、いずれの測地系を使用して値を入力しても、内部では必ず空間の一点のみを指す値に変換して保持し、また逆に、値を取り出す際には、いずれの測地系での値を要求しても正しく取り出し可能とする。
こうしたふるまいをするクラスを作ることで、プログラム内部では混乱も矛盾もなく座標を扱えるようになる。無論、アメリカの旧測地系であるクラーク楕円体をはじめとして、世界中の測地系を詰め込んでクラスをデラックス化するのもよい。
さて、こうしたことを思い出していて、日付についても似たようなことを考える。
世界には多様な文化があり、そのため、「ある日ある時間」を表すにも、文化や地域によってさまざまな表し方が存在する。思いつくまま挙げるだけでも、例えば教祖イエス・キリストの生誕を基準とする西暦、ヨーロッパのグレゴリオ暦やユリウス暦、太陰暦を基本とするイスラム暦、同じ太陰暦でも中華文化圏で用いられてきた
だが、どんな日付表現をしようが、科学的には「ある日ある時間」は、ただ一つである。
一方、コンピュータシステムは人間を支えるものであって、人間がコンピュータに奉仕しているようでは本末転倒だ。コンピュータはあらゆる日付の表現ができ、かつ、あらゆる日付の表現を受け取ることができることこそ望ましい。世界中の多様な文化を矛盾なく受け
しかるに、現在のコンピュータシステムはその点が貧弱である。「建久二年辛亥
今このようなことを考える理由は、ただ一点、畏きあたりにおかせられて、近々まさに譲位あそばされんとし、恐れながら改元の沙汰もこれあることと考えられるからだ。
改元であろうと何であろうと、人間に奉仕するべきコンピュータシステムは、これを平然と受け
だが、現代のコンピュータシステムはそこが貧弱であるため、改元で右往左往しなければならないのだ。
それどころか、コンピュータシステム運用上の煩雑さを理由として、元号制に反対したり、イスラム文化やアジアの文化を否定し、「西暦で統一すべき」などと、多様な文化を蔑んでそれでよしとする差別主義者がIT技術者にすら少なからず見受けられるのは、あまりにも残念である。
携帯電話のパネルの、一番下の行、Androidのいわゆる「バック・ホーム・アプリ切替」の三つのボタンがまったく反応しなくなってしまった。
時節柄、職場関係の連絡がつかないと困るので、昼間に時間を貰って、職場の近くのドコモショップへ持って行った。そうすると、担当のお姉さん、にこやかに、
「修理すると悪くすれば4万円、待ち時間は40日。機種変更は今すぐ可能だが、今のと同じクラスの機種なら9万。」
……と、端的に言えばそういうことをまことに親切かつやさしく言ってくれちゃうのであった。
ぬぅ、デフレ脱却への寄与とはいえ、こ、ここは一体、どこのぼったくりバーですかのう、あうあうあう……。確かに新宿区ではあるが、歌舞伎町ではないぞ。
まあ、以前、「月々通話料に2年間上乗せしますと実質負担はxxxx円です」なんていうややこしい説明が槍玉に挙がったものだから、最近は正直な値段を端的に言うようになってしまい、結果として「9万円でござい」なんつー説明をせざるを得ない店頭のお姉さんも、会社の方針に振り回されているだけであって、別に営業が下手なわけでもあるまいけれども……。
それにしても数字が心臓に悪い。高齢化社会への対策のためワシの生命を縮めて平均寿命などの数値を低下させようとでもいうのか。
お姉さんが悪いわけでもないのだが、「いやあ、お姉さん、9万って数字は、心臓に悪いよ~……」と、一応言ってみたら、お姉さんもそんなこたぁ分かりきってることですわよ、おじさんだってわかってるでしょ、と、テレパシーで伝わってくるほどの複雑な無言の笑みで答えてくれるのであった。ぬぅ、勤労者ってものはツラいねえ、お互い。
とりあえず、モバイルSuicaがないと定期が使えず、帰宅できなくなってしまうから、代機はおサイフケータイ付きのを出してもらい、修理金額の見積もりだけたのむ。
さて、
「ハゲた人のハゲの隠し方を笑ってはならぬ。『時間の経過』というものに思いを致すべきである。あの珍妙なるバーコードは時間の経過によって作られていったものなのである。その人の年齢のことを言っているのではない。バーコードやトグロ頭は今日少し、明日少し、と、少しづつ少しづつ隠して行っているうちにあのようになったものなのだ。おそらく、はじめは分け目の幅が少し広くなった程度でもあったろう。そこに少し、分け目をずらして頭髪をかぶせたものかも知れぬ。誰が『よし、明日から俺はバーコード頭にしよう』と、あんなヘンな頭を目標にするものか。」
……という意味の論をどこかで読んだ。誰か有名な人の書いたものであったと思う。
一方、ここに、児童の虐待に気づいてすぐさまその処置を取る教員が大変少ない、という新聞記事がある。
家庭における児童・幼児の虐待が果たして教師の与るところか否かということはさておく。問題は時間、である。昨日までツルっとしてピカッとしていた健康な小児が、今日突然ギプスをはめて頭に包帯を巻き松葉杖で登校して来て、それを見て驚いた教師が「いったいどうした、何があった!?」と聞くや「・・・お父さんに殴られました」とボソッと答えれば、そりゃ誰だってしかるべき公的機関なり警察なりに通報し、児童を保護するに決まっている。これだけ世間がやいやい言っていることでもある。
しかし事態は単純ではない。そこには時間の経過がある。
ある日、子供は、腕か肩か、体のどこかに小さな青あざか、タンコブのひとつもこしらえてくるのかも知れない。人あって「そのコブはどうしたの?」と聞いたとして、「ご飯をこぼしてお父さんに叩かれました」と子供が答えたとして、さて誰がこれを不自然な虐待などと思うものか。今日のあざは明日のやけど、明日のやけどは来年の骨折、と、次第次第に事態は進むのだ、一足飛びにではなく。
子供を育てる親として、時間に弄ばれぬ精神力を持したい。そうした精神力は、実に住環境によって保たれうるところが大きいと信ずる。