正義の人を(いな)

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 一昨日だったか一昨々日だったか。

 通勤のために東武線北千住駅で日比谷線に乗り換えた。いつものことだ。北千住は半蔵門線や日比谷線など、地下鉄の始発駅なのだが、日比谷線のホームは最上階にある。線路は錯綜(さくそう)して下の東武線と入れ替わり、地下へ(もぐ)っていく。

 混雑のため乗り込むドアを物色しなければならない。少しでも空いているところに乗り込まないと、不本意ながら他人を押しのけることになる。

 そんなわけでホームを暫時(ざんじ)逡巡(しゅんじゅん)しているうち、変な人がいるのを見た。(すなわ)ち、標記「正義の人」である。

 その「正義の人」は、聞こえよがしに「チイィィィィッ!!」と舌打ちしつつ、外側から電車の窓を15センチばかり開けた。ガタピシャと、舌打ち同様の大きな音を立てて、である。

 恥ずかしながら、私は電車の窓が外側から開けられることを知らなかった。「新型コロナウイルス感染防止の観点から、換気のため電車の窓を開けさせて頂いておりますことを御了承下さい」と駅構内や車内でアナウンスが流れる折柄だ。その人にとって、換気は正義なのであろう。

 その正義の人は、これみよがしにやかましく外側から電車の窓を開けたが、しかし、料峭(りょうしょう)かつ余寒の折、その開けた窓からは二つほど進行方向に離れたドアから乗車した。

 まことに笑うべき正義と言えよう。

 ホームにいた人々皆に聞こえるほどの舌打ちをして、力任せに電車の窓を開けるアピールに、何ほどの意味があるか。それが人に何の感化を与えるだろう。ただの不愉快、嫌悪しか与えない。

 「正義は戦争の眷属」、と吐き捨てたのは、はて、どの左翼作家であったか。私は共産主義者など大嫌いだが、正義は戦争だけでなく、差別と圧制と窮屈と不愉快と、その他もろもろ、害毒以外のなにものも(もたら)さない。

 私も「電車窓開け不愉快正義男」を他山の石とし、軽々しく正義を標榜(ひょうぼう)することはすまい。

阿呆(アホ)のような(いと)おしい日

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 とても梅雨などとは思えないような青い空が広がり、涼しくはないにもせよ、なにやら明るい気持ちにもなろうという一日だった。

 駅ナカのスターバックスでコーヒーを飲む。行きつけの床屋「ET」へ行き、美しい店長さんと雑談などしつつ、髪の毛をうんと短く刈り込んで貰う。それから図書館へ行って借り出していた本を返し、ついでに机に座り込んで行政書士の教科書を読み(ふけ)る。昼14時にもなってから電車で街中へ出る。昼めしを食わなければならないのだけれど、つい「磯丸水産」なんてところへ入ってしまう。もうなんだかどうでもよくなってきて、399円の(まぐろ)の刺し盛と同じく399円の酒を注文する。税金入れても千円しないのだから、安いものだ。昼酒で酔っ払って、帰りの電車に乗る。暑い日だが、電車は冷房が効いていて涼しい。Bluetoothのヘッドフォンを着けてお気に入りの音楽など聴いていると睡魔が襲ってきて、つい眠り込んでしまう。ハッと気づくと南栗橋なんていう、日常縁のない駅に着いており、慌てて反対側ホームへ行って引き返す。

 そんな、言う人に言わせれば馬鹿野郎とでも言われかねない、まったく阿呆(アホ)のような(いと)おしい土曜日であった。