おろしや国酔夢譚

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 「菜の花の沖」から高田屋嘉兵衛の伝記に興味を覚え、そこから吉村昭の「大黒屋光太夫」、桂川甫周の「北槎聞略」、井上靖の「おろしや国酔夢譚」と渉猟してきた。

 「おろしや国酔夢譚」については、緒形拳、西田敏行、川谷拓三の出演で映画化もされている。

 Amazonで検索してみると、ちゃんとビデオが配信されている。日によって違うようではあるものの、通常画質なら216円で視聴できる。

 日曜日の午後の楽しみとて、さっそく鑑賞した。

 すばらしい映画で、思わず涙が出た。

 しかし、この映画の封切は平成4年(1992)だ。ソ連が崩壊したのは平成3年(1991)だ。この時期に、なぜこの映画だったのか、と反芻反問しないわけにはいかない。

 余談、パッケージ写真のエカテリーナ女帝役は塩沢とき風のなんだか変な写真なのだが、映画の中身はそうではなく、エカテリーナ女帝役で出演しているのはマリナ・ブラディというフランス人女優で、パッケージ写真のようなチープな感じではなかったことを付け加えておきたい。

読書

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 井上靖の「おろしや国酔夢譚」、読み終わる。

 高田屋嘉兵衛の伝記小説「菜の花の沖」(司馬遼太郎)を読んだことから興味を持ち、これまでに吉村昭の「大黒屋光太夫」と、江戸時代に桂川甫周により記録された「北槎聞略」を読んだ

 「北槎聞略」は一種の学術書であり、相当読みごたえがあった。なによりも新鮮だったのは、江戸時代の一介の雇われ船頭に過ぎない大黒屋光太夫が、驚くほど精密な情報を持ち帰っていることだ。

 後世に至って、北槎聞略にはソ連側から学術的な検証が加えられ、少なくない誤りが指摘されているのは岩波文庫版の注釈からも窺える通りであるが、全体のボリュームとそれらの誤りの比から言って、むしろ光太夫の体験談は、鎖国下の江戸時代としては逆に正確であることが裏付けられていると言ってよいと思う。

 さておき、「おろしや国酔夢譚」は大黒屋光太夫の伝記小説としては最も知られたものだ。

 井上靖は明治生まれの、いわば「昔の人」だし、出版も少し古いので、登場人物の心の動かし方などがどうも昔風だ。「何でここで怒るかな」というようなところで怒ったり、「何でここで泣くかな」というようなところで泣いたりする。かなづかいは現代かなづかいではあるものの、「(はだか)」を「裸か(はだか)」とかなを送って書いたり、「(しか)し・しかし」を「(しか)し」と書いていたりと、少々古臭い。また、吉村昭の「大黒屋光太夫」の読書感想にも書いたが、この作品が書かれた頃はまだ大黒屋光太夫に関して発見されていない資料があったらしく、その晩年について多少見解が異なるようである。

 そうはいうものの、吉村昭の「大黒屋光太夫」にも「北槎聞略」にも書かれていないエピソード、例えば光太夫を送還してきたラクスマン一行への歓待饗応時の料理メニューが取り上げられるなどしていて、面白い作品だった。

言葉
逍遙(しょうよう)称揚(しょうよう)慫慂(しょうよう)

 「おろしや国酔夢譚」の中に「慫慂(しょうよう)」という言葉が出てきた。

 私は「逍遥(しょうよう)」と「称揚(しょうよう)」は知っていたが、恥ずかしながら、「慫慂」については今日の今日まで意味を知らなかった。

「コトバンク」より引用

〇 しょうよう【逍遥】

( 名 ) スル
 気ままにぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き。 「河畔を-する」 「此庭上を-して、其感を楽み/薄命のすず子 お室」(三省堂「大辞林」)

〇 しょう‐よう〔シヨウヤウ|シヤウヤウ〕【称揚/賞揚】

[名](スル)ほめたたえること。称賛。「善行を―する」(デジタル大辞泉)

〇 しょう‐よう【×慫×慂】

[名](スル)そうするように誘って、しきりに勧めること。
「今日牧師が来て、突然僕に転居を―した」〈有島・宣言〉(デジタル大辞泉)

 「おろしや国酔夢譚」の中では、次のように使われていた。

「おろしや国酔夢譚」(井上靖、文春文庫、ISBN978-4167902087)p.315から引用

 光太夫はまた大学の近くのネワ川の岸に建てられてあるクンストカーメラに出向いて行って、火箸、象牙の箸、椀、扇子、硯箱、鈴、そうしたこまごましたものを寄附した。いずれも日常使用していたもので、こんなものを寄附して何になるかと思うような品ばかりであったが、ラックスマンの慫慂(しょうよう)に依ってのことであった。

遣日使節御馳走づめ
「おろしや国酔夢譚」(井上靖、文春文庫、ISBN978-4167902087)p.357~358から引用

 六日にロシア使節の主だった者はこの地の高名な豪商であるという人物の案内で、小舟で埠頭に運ばれ、街を一通り見物させられたあとで、“露西亜屋敷”と真新しく書かれた立札のある家に入れられた。この時は光太夫も一行の中に加えられていた。そしてそこで、風呂の接待を受け、入浴後大きな庭園に面した広間で、幕吏、藩吏、代官、土地の有力者と思われる人たちの饗応を受けた。卓の上には山海の珍味が並べられた。塩味の焼魚や煮魚、そのほかにえび類が大きな皿の上に並び、パンの替りに米飯が出された。

 この時の献立は、『江戸旧事考』に「寛政年中魯西亜使節饗応の献立」として記録されている。

 ――熨斗鮑(のしあわび)(三宝)、たばこぼん。
 ――茶。
 ――(御座付)、吸物(味噌小魚吸口)、小皿(打焼小串魚青山椒(あおざんしょう)猪口(ちょこ)(花鰹寄鰊子(はながつおよせかずのこ))。
 ――(膳)、白か(はつか)大こん、青海苔、ふ()の魚、岩たけ、たん()く玉子、蜜柑酢。
 ――(汁)、みそ、青菜、竹輪かま()こ、小しいたけ。
 ――(香物)、干さんしょう、なら()け、花輪。
 ――(壺)、すり山葵(わさび)銀杏(ぎんなん)煎海鼠(いりなまこ)、砂糖仕立。

 以上が一の膳で、二の膳は、

 ――(地紙形)、草花かいらき、ちりめん大根、も魚子(もろこ)()け、鱒平造り、海そうめん、とつがさ。
 ――(汁)、針午房(ごぼう)、くじら、ねぎ。
 ――(猪口)、いり酒、おろし大根、衣きせ鱒、掛しょう()、油揚たら。

 三の膳になると、やたらに小皿が並んだ。

 ――(汁)、うしお仕立、(すずき)こせし。
 ――(大猪口)、()るま午房、ことしからし。
 ――(向大皿)、焼物。
 ――(平)、煮()まし、かま()こ、大竹のこ、結ゆ()、わら()
 ――(銀置露)、枝山升(さんしょう)、こん()、玉子、鴨、松たけ。
 ――(台引)、塩鯛、花鮑(はなあわび)、揚昆布造物。
 ――(引盃)、吸物、ちりめん(じゃ)こ、松露(しょうろ)

 以上のあと、銚子が運ばれては、その間に、猪口、小皿、口取、硯ふた、丼、鉢、小皿、雑煮(花かつお、わら()、串貝、こん()、磯とうふ)、平、猪口と、いつ尽きるともなく並んでいる。

(ルビの一部は佐藤俊夫による)

 ……いやもう、呑めるクチには、読んでいるだけで唾が湧きますなァ(笑)。

読書

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 引き続きゆっくりゆっくり、岩波の「北槎聞略」を読み進めている。通勤電車内の楽しみだ。

 もうこの本も終わりのほうに近づいてきたが、次のような面白い部分があった。引用し、現代語訳を付してみる。

北槎聞略(岩波文庫、ISBN978-4003345610)p.248~249より引用

 帝号を称する国をイムペラルトルスコイといひ、王爵の国をコロレプスツワといふ。彼邦(かのくに)にて他邦の者どもおち合、(たがい)其許(そこもと)の国は何国(いずく)にて何爵ぞと(とう)とき、コロレプスツワなりといへばとり(あう)者もなし。イムペラルトルスコイなりといへば席中(せきちゅう)形を(ただ)し上座を(ゆず)ると也。世界の(あいだ)四大部洲(しだいぶしゅう)にして其(いる)る所の諸国千百に下らず、其内帝号を称する国(わずか)に七国にて、皇朝其一に居る。されば光太夫等何方(いずかた)(ゆき)ても少しも疎略にせられざりしなり。

現代語訳(訳:佐藤俊夫)

 「なになに帝国」という国のことをロシア語では「империя(インペリア)」と言い、「なになに王国」という国のことを「королевство(コロレフストフォ)」と言います。

 ロシアで外国人同士が寄り集まって、「あなたの国はどこですか、王様の位は何ですか」と尋ねあうような場合、「なになに王国です」と答えると、誰も相手にしてくれません。

 ところが、「なになに帝国です」と答えると、集まった外国人達は姿勢を正し、上座を譲ります。

 世界、つまりヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカなどの中には、数え切れぬほど多くの国々がありますが、そのうち「帝国」を称する国はたった7か国しかありません。わが日本はその7か国のうちの一つに入っています。

 そのため、大黒屋光太夫らは、ロシア国内のどこへ行っても、少しもぞんざいな扱いを受けることはなかったのだそうです。

同じく北槎聞略(岩波文庫、ISBN978-4003345610)p.249より引用

 キリロおよび今度来れる蕃使(ばんし)等が説に、日本国国体(こくてい)風教(ふうきょう)、礼儀、衣服、制度に至るまで(こと)全美(ぜんび)にして議すべき所あらず。そのうへ軍事、武備(ととのお)り、武芸の精練なるに至りては諸国のおよぶべきにあらず。刀剣弓矢(とうけんきゅうし)の制作器械の良好なる、実に万国に(かん)たり。(しか)るに外洋(がいよう)の諸国を畏怖し(おそれ)、我魯西亜(ロシイヤ)をも(おそ)(はばか)らるゝと(きき)およべり。大に(いわ)れなき事といふべし。これしかしながら和蘭(オランダ)国人等久しく貴国に通商し、その貨物(しろもの)を諸国に市易す。もし諸国より貴国に通信互市(ごし)の事あらば其()を失はむ事をいめる根なし(ごと)より(おこ)りしなるべし。これ其(もと)外洋(がいよう)人たゞ支那と和蘭のみ通商を許されて其他諸国の(ふね)(いれ)られず、また外邦(がいほう)へ舶をも出されず、外国の形勢、事理、情実を(つまびらか)にせられざるよりしてさのごとく畏怖せらるゝなるべし。貴国人物制度の全備(ぜんび)もとより外国の軽侮(かろんじあなどる)をうくべからざる事は(かみ)にいふ所のごとし。足下国に帰るの後よく此事理(じり)をもて貴国の人々に告知(つげしら)しむべしといひしとぞ。

現代語訳(訳:佐藤俊夫)

 今回、大黒屋光太夫たちを送り届けてきたキリロ・ラクスマンらロシア帝国の使者たちは、我が国を評して次のように言っています。

 「貴日本国は、国のありよう、教え、礼儀、服装や制度など、あらゆるところがよく整っており、文句をつけるような部分がまったくありません。刀剣や弓矢などの武器を作る技術や道具も優れており、これは世界のほかの国々と比べてもトップクラスです。

 にもかかわらず、外国を恐れ、わがロシア帝国をも恐ろしがり、避けていると聞きました。これはまったく根拠のないことです。

 そのように思い込んでいるのは、おそらく、オランダ人達のせいでしょう。オランダは長年日本と貿易をし、日本からの輸出品を世界中に売って利益を上げています。もし他の諸国が日本に連絡をはかり、相互に貿易を始めると、オランダは日本との独占貿易の利権を失うのです。オランダ人達はそのことを嫌い、根拠のない説を日本に吹き込んでいるのだと思われます。

 このようなことになってしまうのは、日本のほうにも原因があります。日本は中国とオランダだけに通商を許可し、他の国々の船の入港を拒絶し、また日本からも諸外国へ一切船を出しません。そのため外国の形勢や情報、詳しい事情などがよくわからず、むやみに外国のことを恐れる結果となってしまっているのだと思われます。

 貴日本国は、国民も制度もきちんと整っており、もとより外国から侮られるような要素が全くないことは、先に述べたとおりです。

 あなた(訳者注:大黒屋光太夫のこと)が国へ帰ったら、このことを論理的に、よく日本の人たちへ説明してください。」

 使者のロシア人たちは、上のように伝えたそうです。

読書

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 井上靖の「おろしや国酔夢譚」が、最寄りの図書館「越谷市立図書館南部分室」に在架であることを知る。

 大黒屋光太夫について書かれた小説では、吉村昭の「大黒屋光太夫」よりも井上靖の「おろしや国酔夢譚」のほうが昔に書かれているから有名ではある。ならばやはり、これも読んでおかずばなるまい。

 但し、何日か前に書いたように、「おろしや国酔夢譚」のほうは、大黒屋光太夫に関する重要な資料が発見される前に書かれているので、光太夫帰国後の状況について、やや事実と異なるそうである。

 それにしても便利な時代である。自宅に居ながらにして最寄り図書館の在架状況がわかるのだから、本当にいい時代だ。

 今読んでいる「北槎聞略」を読み終わったら、「おろしや国酔夢譚」も借りて読んでみよう。

読書

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 引き続き読み進む。司馬遼太郎「菜の花の沖」第5巻。

 この巻では相当長々と主人公高田屋嘉兵衛とは直接関係のない、しかし物語上重要な当時の状況、ロシアとの国際関係、国内の政治状況などが作家・司馬遼太郎自身により語られる。そのページ数たるや、53ページから387ページまでの335ページに及ぶ。全部で414ページ中の335ページだから、この第5巻の8割はそういうページで占められている。

読書メモ
言葉
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 この作品中に、度々、主人公高田屋嘉兵衛と前後する時代の船頭、「大黒屋光太夫」が登場する。沖船頭で、東廻り(太平洋)で難破・漂流し、アリューシャン列島に漂着、紆余を経て貴顕の教授ラクスマンの助力によりロシア皇帝エカテリーナ2世への謁見まで許された。やがて皇帝の力により送還され、10年後に帰国した人物だ。

 帰国後、光太夫の体験談を幕府の奥医師で蘭学者の四代・桂川甫周が聞き取って書きまとめたものが「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」であり、今に伝わる。

 この書名の「北槎(ほくさ)」というのは何かということだが、「()」は「いかだ」とも()み、してみると「北槎」とは「北の筏」、ひいては「北方の漂流」というほどの意味である。

 下の「聞略」のほうは「聞略」でひとつではなく、どちらかというと「北槎聞」の「略」ではあるまいかと思う。つまり、「北方の漂流記」の「概要」とでもいった意味が妥当であろう。