いつ死んだらいいでしょうか

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 金銭的に最も合理的な死亡年齢を教えて下さい。多分、社労士の先生などがお詳しいのではないでしょうか。

 私は今53歳ですが、15歳の年からキッチリ年金を払い、職場の制度もあってただの一度も欠かしたことはありません。私が死んだあと、妻や子供が困ることがないよう、身銭で十分に保険なども掛けています。

 しかし、老害だ旧幣だと若者に愚弄されながらいつまでも生きるのも腹立たしく、感謝も尊敬もされない人生など馬鹿々々しいから、できればさっさと死にたいと思っています。

 そうは言うものの、今すぐ首を吊って死ぬのは自分が払った金と貰った金のつり合いから言って非合理であるように思うのです。退職金や保険金も、できるだけ多く貰って死ぬのでなければ損です。

 退職金を全部貰い終わり、保険金の最大額が出る、ちょうどよいところで死ねば最もいい計算であるような気がしますが、年金のことを考えるとそれはちょっと非合理な感じがします。

 自分が払った程度の年金を貰い、しかも若者に愚弄されない程度に負担をかけず、整斉粛々と死ぬのは、場合にもよると思いますが、何歳ぐらいで終了するのがいいでしょうか。

 私は、長生きしてしたいことなど特にありません。ずっと寝て暮らせればいいと思っているのですが、死んでしまえば永遠に寝て暮らしているのと一緒で、永久休暇みたいなものなので、それが一番いいと思っているのです。ですが、それで妻や子に悲しまれたり経済的に困窮させたり、つまり、私というものが哀惜され、それで迷惑になるのが嫌なのです。

何が「全力」だよ(笑)

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 「全力」なんていう言葉を軽々しく撒き散らすような(やから)を信用したくない。

 全力、というのは並大抵のことではない。自分だけが懸命になって額に汗して頑張ればそれが全力だ、などと言うのは、みっともなく痛々しい。

 私が考える全力と言うのは、次のようなことだ。

 今日はテストの日だ。数年にわたって勉強してきた力を発揮する日である。

 これまで、貯蓄をテストに注ぎ込み、妻を働かせ、両親から学費を無心し、子供たちの進学をあきらめさせて一心不乱に勉強に励んできた。合格だけが唯一至高の目的である。

 ところが、よりにもよって今朝(けさ)、電話がかかってきた。

「警察です。あなたの実家の父上と母上が強盗に押し入られた挙句殺されました。あなたの実家を訪ねていたあなたの奥様と生後間もない子供さんも殺されました。奥様には性的暴行の痕跡があります。ともかく、すぐに現場へお越しください」

 両親、妻、子。私にとってかけがえのない、全身全霊をもって愛するべきものがこれらである。しかし、私は全力でテストを受けると決めたのだ。これら、自分にとって全てであるものをもかなぐり捨てて顧みないことこそが「全力」ということである。

 しかるをもって、私は警察からの電話を無視し、テストを受けに行った。

 旬日が経過し、両親と妻子の死に目に会うことことすら(なげう)ったテストの発表日が来た。

 合格した。

 こういうことが、いわゆる「全力」である。自分の持てるもの全てどころか、自分以外のもの(すべ)てをも()した全力だ。

 だが、こんな(たぐ)いの「全力」を尽くして(かえり)みないような(やから)を私は見下げ果て、唾棄し、嘲笑する。

 軽々しく全力などと言うのは甘すぎる。それほどに全力を尽くしたいなら、テストの日など待たず、たった今、玄関から走り出して、100メートル走の全力疾走と同じだけの体力を注ぎ込み、100000メートルほどを力の限り走り続けて死ねばいいと思う。文字通りの全力だ。できるものならやってみるがいい。

 だがしかし、できまい。

 そして、仮に100キロメートル無休全力疾走を敢行して派手に死んだとして、それで尊敬されるなどとは思いのほか、そんな暴挙に出たところで、誰もが「バカなんじゃねえの?」と嘲笑して済ませてしまうだろう。

 そんな嘲笑をすらものともしないことが「全力」である。

 誰かのために、何かのために死ぬなら、それは確かに全力である。だが、人間、そう簡単に死ねなどしない。つまり、全力などと言いながら全力など出せない、そういう惰弱(だじゃく)で薄甘く、最低限の生きる便(よすが)だけはキープしておいて卑怯とも思わないような、どうしようもなくいい加減な存在が人間なのである。

 だから私は、「全力」だなどと簡単に言い捨てる人種、一見意識が高いようでいて、そのくせ身の回りだけは確保しておきたいような奴が嫌いである。

 妻や子、両親、自分のどうしようもない無能、楽しみ、悲しみ、諦め、弱さへの哀惜、同情、悔恨、そういった諸々を抱きしめて、沁々(しみじみ)と誠実に生きることの方が、「全力」だなんていう取って付けたような情動より、幾層倍か美しい。

敬老の日

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天皇陛下万歳

 祝日「敬老の日」である。国旗を掲揚し拝礼する。

 今や、老人があまりにも複雑な状況に置かれる世相となった。しかし、老害だなどと批判に晒されるのは、半面手厚い保護と尊敬があるからでもある。

 何にせよ、老いることを忌避すべきことと思うまい、悲しむべきことと思うまい、懊悩すべきことと思うまい。それは寿(ことほ)ぐべきことだ。もし自分の老いる日々が想像の外にあったとしても。

 なぜなら、その日々は全く来ないか、確実にやってくるかの二者択一なのだから。老いる前に死ぬか、老いるかの二者だ。

 まったくやって来ないものは、確実に来るもの同様に現実感をともなって感じられる場合もある。つまり、老いる前に死ぬのを想像することは、現実に老いるよりもなお老いの感覚を濃厚にする。

焼きが回った

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 今日たかだか、とはいえ、それは相当それなりに気合を入れてではあるが、3kmばかり走ったら、気分が悪くなり、食ったものを全部戻してしまった。

 随分鍛えてもきた私だ。その意味からは、「焼きがまわった」と言ってもいいかも知れない。

 まあ、そりゃあ、若くはない。しかし、これしきで気分が悪くなる私でもないのだ、と言ってしまうと、それは少し過信なのだろう。

 体のリソースは限られているから、残り、ケチケチと大事に使わなくては。しかし、年金破綻、老人総労働のこのご時世、体を大切にして長生きをしてもしんどいことばかりで、生きていても仕方がない、とも言える。健康長寿が呪わしい社会が来てしまったわけだ。

 65歳から5年くらい年金を貰い、70歳くらいでスカッと死んでしまいたいのだが、自殺なんかするとなんだか忌まわしいから、病気などでやむなく、という感じで消えたい。多分、(がん)か何かに(かか)って、痛ェ痛ェ言って苦しみのたうって死ぬのだろう。

 消えるときに、もう、面倒臭いし恥も多いから、私が生きていたあらゆる(あかし)や痕跡を消し、できることなら家族や知人友人の脳からも私の記憶を消去して、私が死んだことすら誰も知らず、私がいたことも誰も覚えておらず、墓もなく、記憶もない、誰も悲しくない、という消え方をしたい。そう願うのだが、人の記憶から消え去ることは難しい。この科学万能の時代に、それしきのことがどうしてできないのかと残念に思う。

怪談めく

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 ふと思いつき、最近話題の「大島てる」で、自分の家やその周囲、親類縁者の住まいなどに怖い点や変な点がないことを確かめ、なんだかホッとするなど。

 残暑払いに怪談めくのも、最近はこういうふうにリアルでゲスな。

死と酢とセロリ

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 最近、生野菜のサラダなどを食うとき、酢やレモン汁などをかけるようになった。これらをごくわずか、盃に一杯ほどもかけ回し、野菜が少し湿ったところへ塩を一摘み振る。塩気がなじみ、まことに旨い。

 普通、オッサンは酸っぱいものがあまり好きではないものなのだが、オッサン度が深くなってくるにつれ、好みが逆方向に変わってきたのである。

 殊に暑くなってくると酸味は涼味でもあって、柑橘の酸味で調えた胡瓜やレタスは、こたえられない快味である。

 時々、ささやかな贅沢だと思ってやるのが、最近よく見かける「シークヮーサー」の生ジュースをレモンの代わりにかけることだ。片口に盃一杯ほどのシークヮーサージュースをとり、生野菜にかけ回し、塩を振って食う。鮮やかな味になってとても旨い。セロリやパセリなど、香りの高い野菜にもよく合い、旨い。

 単に旨いからやっているだけだが、多分、他の調味料でサラダを食うのに比べれば、カロリーも低く、クエン酸が疲労を去る効果もあるだろうし、恐らく健康にはいいのではないかと思う。但し根拠はない。

 これでウィスキーを3杯、また4杯、そして5杯。

 こうした気に入りの旨い肴で酔っ払ってくると、投げ(やり)に幸福となる。多幸感のあまり、もうあまりやることもなくなってきたから死んでもいいな、とすら思う。ま、これで本当に死んでたらそれこそホントのアホですけどね。