読書

投稿日:

 「(くらら)」を読み終わる。

 「眩」は、江戸時代の絵師、葛飾應為(おうい)がモデルの小説だ。図書館で借りた。

 葛飾應為は葛飾北斎の娘である。應為の作品として残されているものは少ないが、数少ないそれら作品からは、父北斎を凌ぐとも言われるほどの実力が窺われるという。

吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)

 應為の代表作は何と言っても「吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)」だ。應為の特徴と言われる陰翳と光のコントラストの技法が遺憾なく発揮され、暗夜の吉原が活き活きと表現されている。この作品は小説「眩」の装丁にも使われている。

 作品は葛飾應為の少女時代から始まり、最晩年までを一気呵成に描き切る。作品の中の葛飾應為は、老いるほどにまるで小娘のように研ぎ澄まされていく。もし、眼を見開き目標へ没入するその姿が無垢で純真で真摯で、そして天才であるなら、それは物語にはならない。市井のはざまで汚れ、恋し、苦しむ。それゆえ自由であり、だからこそ物語となるのだ。

言葉

 いろいろな言葉が出てくる小説で、筋書きとは関係なく勉強になる。

伝法

 「伝法な口のきき方」というと粗っぽい、ものに(こだわ)らない、はすっ()な言葉(づか)いのことだ。

 だが、「伝法」は仏教の教えを師匠から弟子に伝えることをいうもので、浅草にある「()法院」だってそういう寺である。

 なぜ乱暴なことを伝法と言うのかと言うと、どうも、この浅草の傳法院の「寺奴(てらやっこ)」が乱暴だったことから来ているらしい。

炬燵弁慶(こたつべんけい)

 内弁慶と同じような意味で、内弁慶よりも更に範囲が狭い弁慶だ。

唐子(からこ)

 昔、私の家にも父が頒布会などで揃えたという陶器の(そろい)、白地に青で図柄が描かれた小鉢や小皿、湯呑が多くあった。これらには支那の服を着た辮髪(べんぱつ)の子供が毬突きをしているような図柄が描かれていた。

 ああいう図柄のことを何というのかこの歳になるまで全く知らなかったが、アレを「唐子(からこ)」というのだそうである。

区々(くく)

 「まちまち」とも「ばらばら」とも()むそうである。

墨ばさみ

 左のような道具である。チビた墨を()る時に、これに(はさ)んで磨り易くするわけだ。

 物語中では下地を塗った紙をぶら下げて乾かすのに使っていた。洗濯ばさみのかわりである。当時洗濯ばさみなんてものがあったのかどうかはよくわからないが……。

 小さい頃「鉛筆ホルダ」なんてものがあり、大概の子はこれを持っていて、短くなった鉛筆に取り付けて使いやすくしていた。まあ、それと同じようなものだろうか。

(うちかけ)

 「襠」。実はこの漢字の一般的な読みは「まち」だが、小説「眩」では「うちかけ」と()ませている。

礬水(どうさ)

 絵の具の滲み止めに紙や絹布に塗る液である。これを塗ったものや、これを塗ることを「礬水(どうさ)()き」という。

 こんな単語は聞いたことがなかった。よほど珍しい言葉なのだろうと思ったのだが、今この稿を書くのに「どうさ」と入力して変換すると、きちんと「礬水」と出る。IMEの標準辞書にはこれがあるのだ。へえっ、あるんだ……と驚いた。

 ともかく、礬水は明礬(みょうばん)を水で溶いたものに(にかわ)を混ぜて作る。

 「礬」と言う字の音読は「バン」であり、「礬水」をそのまま音読すれば「バンスイ」であって、どう読んでも「どうさ」にはならない。他方、礬水には「陶砂(どうさ)」という表記もある。この「陶砂」のほうが「どうさ」と読むには自然と言える。しかし、礬水の化学的な来歴から言うと「礬水」と書いたほうがより正確な感じがする。それらの状況から考えて、「陶砂」の自然な読みが「礬水」のほうに移ったのかな、と思える。

読書

投稿日:

 去年の秋にNHKで見たドラマ「(くらら)」の原作が図書館にあったので借りた。

 葛飾北斎の娘、應為(おうい)をモデルにしたもので、朝井まかての作品だ。

 以前から読もうと思い、図書館に行くたびに朝井まかての文庫本の棚へ寄るようにしていたのだが、いつ行っても、ない。検索端末で調べると在架と出るのだが、棚にはない。おかしいなあ、と思っていたら、単行本のほうにあった。文庫本と単行本は、同じ番号が振られているが、棚が離れているのだ。最初から気づいておけばよかった。

 しかし、そのせいで思いがけず面白い読書もできたからよしとしよう。朝井まかての文庫本の棚へ行ったときになんとなく借りた「御松茸騒動」という本が面白かったのである。

読書

投稿日:

 最近はなんだか、本代をケチるようになってしまい、市立図書館南部分室へばかり通うようになった。

 先日、高田屋嘉兵衛が主人公の小説「菜の花の沖」(司馬遼太郎)を読み、とても面白かった。それで、その中にもたびたび取り上げられる、高田屋嘉兵衛より二回りほど前の時代の人物、「大黒屋光太夫」にも興味を持った。

 この「大黒屋光太夫」については、私が好きな作家の吉村昭に作品があることも、前から知っていた。有名な作品なので書店の文庫の棚によく見かけるし、図書館の棚にも確か、ある。

 先月頃だったか、図書館でさっそく借り出そうとして吉村昭の棚に行ったら、「大黒屋光太夫」上下巻のうち、貸し出し中なのか、上巻だけがなかった。

 最近「こだわり」のようなものがだいぶなくなってきた私は、まあ、しばらく待てば返却されるだろう、どうでもいいや、と、下巻だけの「大黒屋光太夫」の隣にあった「ニコライ遭難」をヒョイと手に取り、借り出した。

 この「ニコライ遭難」がまた、面白かった。丹念かつ膨大な取材に基づいて史実を淡々と追い、忠実・正確に物語を進めつつ、しかし、随所に文学的創作と潤色が光るのである。吉村昭の本を読むことは「プロの仕事」に酔うような感じで、楽しい。

 読んでいる最中にインフルエンザに罹ってしまったのだが、病臥中「ニコライ遭難」を読むことで丁度その無聊を紛らわせることもできた。

 昨日はインフルエンザ後の病み上がり出勤だった。さすがに体力の衰微著しく、きつかった。

 帰りに図書館に寄った。今度は「大黒屋光太夫」が返却されてきているだろうと思い、棚に行ってみたのだが、今度もない。

 前から読みたいと思っていた別の本でも借りるか、と思い、昨年NHKのドラマで放映されていた「(きらら)」の原作を探す。江戸時代の浮世絵師、北斎の娘で、その腕前は父北斎をも上回るのではないかとすら言われる女流、葛飾應為(おうい)をモデルにしたものだ。朝井まかてという作家の作品である。

 以前これを探したとき、図書館の端末で調べて「在架」だったので、棚に行ってみたら実際は不在架だったということがあった。別にこんなことで窓口にいちいち苦情めいた確認を入れるようなキチキチ不寛容の私ではない。市立図書館の運営ごとき、このくらいのことはあるだろう。

 待っている間にそのうち戻ってくるだろう、と思っていたのだが、今日はひょっとすると「眩」が在架かも、と思って朝井まかての棚へ行ってみた。

 先日は不在架だった朝井まかての作品がたくさん戻ってきてはいたが、相変わらず「眩」は不在架である。そんなに読みたきゃ予約しろよ、という話もあろうが、これがまた、そういうこだわりも私には希薄なのである。

 ところが、ふと棚を見るうち、気になる作品が目に付く。同じく朝井まかての作品で、「御松茸騒動」という中編である。パラパラっ、とめくってみると、冒頭から楽しい描写が2ページほどあり、これは面白そう、と思って借りることにした。

 それにしても大黒屋光太夫がないなあ、と少しばかり残念だ。ふと、そうだ、一応端末で調べてみておこうか、と思い、カウンターのキオスク端末に向かってみた。そうしたら、文庫本の上巻は貸し出し中で確かに不在架だが、単行本のほうは上下そろって在架である、と出た。

 ああ、そうか。気づくのが遅かったなあ、と思う。何も本は文庫だけではない。文庫がだめなら単行本、ということに気が付かなかった。書店で探すとき、単行本は高いので、最初に候補から外す、というあさましい癖がついてしまっていたのだ。図書館では単行本も文庫もどっちも「タダ」である。正確に言えば住民税を払っているのだから、読まなきゃ損々、てなものだ。

 そういうわけで、「御松茸騒動」(朝井まかて)の文庫と、「大黒屋光太夫・上下」(吉村昭)の単行本を借り出した。

腰痛・読書・図書館など

投稿日:

 腰痛で垂れ込める。

 中年以降の持病で、これをカバーするべく筋肉鍛錬(筋トレ)にも励んで来たが、所詮如何になるべくもなし。さなきだに、生まれついての頑丈者でもなく、じたばたしてもはじまらぬ。

 読み終わった「阿房(あほう)列車」を図書館へ返しに行く。昨日他の本を借りたついでに返してしまえばよかったのだが、ちょっと感想を書いておこうなどと思ったものだから、返却期限の今日の今日まで引っ張った。いっそ蔵書にしたく、未練なのだが、まあ、(いさぎよ)く返してしまおう。

 つい、また、他の本を借り出す。以前、同郷の先輩Hさんと「矢切の(わたし)」を見物に行った際に、そのHさんから教わった「菜の花の沖」の第1巻。

 それから、岩波の「日本の酒」。その時、日本酒の銘柄に関する蘊蓄をHさんが披歴してくださったので、酒から2冊の本を連想したのだ。

 更に別の本を思いつき、探してみた。

 先日テレビで見た葛飾應為(おうい)の伝記「(くらら)」の原作が、「朝井まかて」という作家の手になるものだということをおぼろげながら覚えていたので、それを借りようとしたのだ。

 図書館の端末で探したら在架と出たので、その書架に行って見たがなかった。まあ、拘泥しても仕方がない。今度来た時に、あれば借りてみよう。