立春の丸一日の散歩

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 旧正月も節分も過ぎた。まだまだ寒さ厳しい折柄とは言え、暦の上では新春、しかも今日は既に立春である。近所の日当りのいいお宅の庭では、そろそろふくらみはじめている梅の蕾もある。

 時節、であろうか。

 なにやら物の気配に誘われるような、そぞろ落ち着かぬ気持ちもしていたところ、日本ITストラテジスト協会で知り合いになったHさんからお声がかかる。ひとつ今度の休日を共に散歩でもして楽しもうではないか、とのお誘いである。Hさんは同郷の先輩でもある。

 興が乗り、二人して数週間前から何をしようかと相談した。

 Hさんは「池波正太郎的な世界観の散歩をしようよ」とおっしゃる。なるほど、よしきた、合点というものだ。私も池波作品については鬼平犯科帳から仕掛人梅安から剣客商売から、多少ほどは読んでおりますからね、ええ、ええ。

 Hさんが「これは外せない」とする要素は、「池波正太郎」「舟」「蕎麦」「風呂」だという。

 はて、「池波正太郎」「蕎麦」はよしとして、「舟」「風呂」はどうしたものかな、と考えあぐんでいると、Hさんが「今回はひとつ、噂に聞く『矢切の渡し』に乗ってみようよ」と言った。

 なるほど、江戸のむかしから矢切の渡しというものは伝えられているが……。しかし、今でもあるのだろうか。……と、そんな風に不審を覚えるのは取り過ごしで、これが実は、まだあるのだ。江戸時代から伝えられたそのままの姿で、今も()()ぐ川船で江戸川を渡している。

 Hさんと交々(こもごも)相談し、散歩コースを決める。

 それで、今日、2月4日の土曜日に散歩しようと言う事になった。

「野菊の墓」文学碑

 今日の散歩のスタートは「矢切の渡し」である。矢切の渡しというと、時代劇や細川たかしの演歌でも知られるが、知る人ぞ知るのは名作文学「野菊の墓」の舞台であることだ。

 私は「野菊の墓」の題名は知っているが、実は恥ずかしながら読んだことがなかった。映画では、最も近いところで若い頃の松田聖子が主演したり、それ以前にも何作か別の女優で制作されていたことも知ってはいるが、これがまた、どれも見ていないのである。テレビドラマでは山口百恵主演のものをはじめ、他にも何作かあったように思うが、やはりどれも見ていない。

 原作を読まなくっちゃいけないでしょう、こうなれば。

 で、作者の伊藤佐千夫は没後長く経つので、既に著作権は切れており、青空文庫で読むことができる。無料だ。

 青空文庫はKindleでも読める。そこで、Kindleで0円購入してこれを読みつつ、家を出発する。短編だから、2時間ほどもあれば読み終わるだろうとばかり、Hさんと落ち合う約束の10時に先立ち、8時に家を出、読みながら電車に乗る。

(伊藤佐千夫「野菊の墓」冒頭から引用・昭和38年(1963)日本法著作権消滅)

 のちの月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼いわけとは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、むしろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味をむさぼって居る事が多い。そんな訣から一寸ちょっと物に書いて置こうかという気になったのである。

 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎりわたしを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈かいわいでの旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るようなしいの樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森いもりで村じゅうからうらやましがられて居る。昔から何ほど暴風あらしが吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根をがれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまたすすやらあかやらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目もくめも判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠くぎかくしなども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きいがんであった。勿論もちろん一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。

 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しくわずらって居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥びょうじょくとなって居た。その次の十畳の間の南隅みなみすみに、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場はたおりばで、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓てすりまどの障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空をさえぎって北をおおうている。

 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹いとこになって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。

 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れがおそいから、十五と少しにしかならない。せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味あかみをおんだ、誠に光沢つやの好い児であった。いつでも活々いきいきとして元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。

 さすが、夏目漱石をして「何百編よんでもよろしい」と激賞されたというだけのことがある美しい文章である。少年と少女の清純な恋情を美しく、精密に、それでいて簡潔に描き出したすばらしい小説であり、泣ける。

 さて、矢切の渡しの最寄り駅は北総線の「矢切」駅で、渡し場は駅から歩いて3~40分というところだ。

 駅前でHさんを待つ間、野菊の墓を読み耽る。9割ほど読み終わり、物語の山場で感極まって涙目になっているところへ、丁度待ち合わせ時間の10時きっかり、Hさんが到着する。

 挨拶もそこそこに「HさんHさん、渡し場に行く途中に『野菊の墓』の文学碑がありますから、是非寄って行きましょう」と誘い、Hさんも文学碑が気になっていたとのことで、さっそく出発する。

 庚申(こうしん)塚と(やしろ)のある曲がり角が目印で、そこから丘に続く道をたどる。

 江戸川を西に見下ろす高台に文学碑があり、先に挙げた「野菊の墓」の冒頭の一節、「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎりわたしを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。」という書き出しを刻んだ石碑がある。

 この石碑の建つ場所は眺めが非常によく、遠く富士が望め、小説の中に登場する通り、上野・浅草のあたりまでが霞んで見える。今は東京スカイツリーが屹立しており、浅草・業平橋の方向はすぐにそれとわかる。

矢切の渡し

 「野菊の墓文学碑」の丘を西に下り、地元の名物「矢切(ねぎ)」の畑の間の長閑(のどか)な道を15分ほども歩けば、江戸川の岸に出る。

 「矢切の渡し」は高い旗が目印になっていて、すぐにそれとわかる。

 江戸時代、川に橋を架けることや、勝手に渡しを営むことは主として軍事上の理由から幕府によって厳格に禁じられ、これを破る者は「関所破り」として厳罰に処せられた。しかし、川のそばで生活を営む農民たちが、営農のために小舟で細々と往来するようなものまで禁じられていたわけではなく、何か所かは渡し場が許されていた。これを「農民渡船」という。さもあろう、幕府の収入はすべて農業から得られており、ならばこそ農民を武士に次ぐ地位と位置づけていたのだ。営農を妨げることは自らの収入を制約することにもつながるのであるから、このようなものが許されていたのであろう。

簡素な渡し場の乗り合い口

 明治維新後、架橋がなされたり鉄道が開通したりする中、渡し舟は不要となって(すた)れていったが、この「矢切の渡し」だけは地元民の足として、また今では柴又~矢切の間のなくてはならない観光名物として唯一現存しているのだ。

 矢切側の乗り合い口には簡素な甘味品の露店があり、飲み物や焼き芋など売っている。

 舟の運航はおおらかで、何分おきというようなものではなく、客がほどほどに乗れば随時出してくれる方式だ。手漕ぎの()舟で、渡し賃は一人200円だ。

 船頭さんは若く見える人だったが、静かな口調で、多少の観光案内などもしてくれつつ、のんびりと()を操る。

 立春らしい陽気の下、まことにゆるゆると舟は対岸に漕ぎ進められていく。

ご一緒したHさんと私

 僅々(きんきん)5分ほど、すぐ対岸の柴又に着く。

柴又見物

 柴又見物をする。

 そりゃもう、「寅さん」「帝釈天」「門前で買い食い」、これでしょう。

有名な山本亭

 帝釈天では燈明を上げ、唱えごとなどもモゴモゴと口ごもっておく。

 通称「柴又帝釈天」は日蓮宗の寺で、本当の山号寺名は経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)という。庚申に縁が深く、この地域一帯にも庚申塚などが多くあるようだ。

煎餅買い喰い

団子買い喰い

高木屋老舗でおでんにビール

 「とらや」で団子を立ち食いし、「高木屋」でおでんにビールなんかをとる。

 この「とらや」は、元は「柴又屋」という名前だったが、「フーテンの寅さん」の最初の方でロケ地に使われたので、それにあやかろうとてか、「とらや」という屋号に改名したのだそうな。そのせいか、映画の中では、寅さんの家の団子屋ははじめは「とらや」という名前だったのに、途中から「くるまや」に変わったという。屋号をめぐっての争いを避けるためだったのか、どうだか。

青天白日と寅さんと私

 そして、現在の「とらや」でロケをしなくなってからは、その向かいにある「高木屋」をモデルにした撮影所のセットを使って映画が撮られたそうだ。そのため、二つの店がどちらも「フーテンの寅さんの団子屋はこちら」と言っているようだ。

亀有公園

 柴又門前を抜け、京成柴又駅まで歩いて寅さんの銅像など写真に撮る。京成に乗って次に行こうかという時、Hさんが「ここはひとつ、『こち亀』を探訪しようよ。亀有公園へ行って見よう」と言う。

 なるほど、これは面白そうである。

 柴又から亀有公園までは3キロほどある。40分か50分程度、変哲もない街道沿いを西へ西へ進み、中川を渡って環七通りまで歩けば着く。常磐線葛飾駅の近くである。

 亀有公園は取り立てて特別なこともない公園で、子供たちが元気いっぱいに走り回っている。ああ、日本にはまだまだ子供がいてよかった、などとも思う。

 しかし、入ってみると、やはりゆかりということで、「両さん」の銅像なんかがベンチにドッカと座っている。

 走り回る子供たちに入り混じり、「ひとつ『リア充写真』でも撮っておこうか」とでもいう風情の観光客が、てんでに撮影したりスマホを操作していたりするのも、いとをかし、である。……私たちもその例に漏れないが(笑)。

 私も一応「お(しるし)」ということで、写真なんか撮る。

駅の北側の派出所

 漫画の舞台は「公園前派出所」だが、実際には公園前に派出所はない。その代わり、駅の南北両方に派出所がある。さして大きい駅でもないのに、2か所派出所があるというのは珍しい。

 駅の南側には両さん一同の等身大フィギュアなどがあって、観光客が嬉々と写真など撮っている。

神田連雀(れんじゃく)

 さて、柴又~亀有の散歩から、電車に乗って河岸を変える。常磐線亀有から電車に乗って西日暮里まで行き、山手線に乗り換え、秋葉原で降りる。秋葉原の喧騒を通り抜けて、神田連雀(れんじゃく)町へは万世橋を渡ってすぐである。

 神田連雀町、とは言うが、連雀町という地名を地図で探しても見つからない。今は「須田町」「淡路町」と言う一画が、昔は連雀町と呼ばれていたのだ。背負子の肩掛けの「連尺」を作る職人がこの一画に住み着いていたところから、字を変えて「連雀町」と呼ぶようになったという。

 「かんだやぶそば」は惜しくも数年前の火災で建て替わり、昔の古い建物ではなくなってしまったが、それでも、戦災で焼けなかった古い建物や店が連雀町にはまだいくつか残り、今も営業中であることは池波ファンならずとも知るところだ。これらの店を池波正太郎はこよなく愛した。
 
 花野さんを「かんだやぶそば」をはじめ、「いせ源」「竹むら」「ぼたん」などの文化財建屋に案内する。

 それから靖国通りへ回り、池波正太郎が愛したとっておきの蕎麦(みせ)「まつや」へ行く。

 まつやの通しものは固練りの蕎麦味噌だ。器の縁に塗って出してくれる。まずはそれを舐めつつ、焼き海苔に板わさでぬる燗を一合。

 盃一杯ほど酒の残っている頃おい、「もり」を頼む。

 いつもはあまり大きなものは頼まない私なのだが、少し歩いて腹も減ったので、今日は「大もり」を頼んだ。蕎麦の香りのいい、まつや独特の蕎麦を堪能する。

 手繰(たぐ)り終わって、蕎麦湯をたっぷり飲む。

稲荷湯

 Hさんは「シビれるような熱い銭湯にヤセ我慢で入る、これがやりたいなあ」と言う。

 神田連雀町付近で銭湯を探すと、「神田アクアハウス 江戸遊」というのが見つかる。銭湯で、入浴料も公定料金の460円だ。連雀町からはすぐである。

 ところが、Hさんは「どうも小奇麗っぽくて情緒のないのがいかん。やはり『銭湯らしいところ』がいいかなあ」と言うのである。

 そこでさらに探すと、10分ほど歩いた先に稲荷神社があり、そのそばに「稲荷湯」という銭湯がある。

 稲荷湯は浴場内の「富士のペンキ絵」もなかなかそれらしく、「銭湯銭湯している……」ようなので、そっちへ行くことになった。

 皇居に近いせいか、最近流行の「皇居ラン」の帰りにスポーツウェア姿でひと風呂浴びていく人が多いらしく、今日もちらほらそういう人の姿が見られた。

 Hさんの希望通り、「なかなかシビれるような熱い湯」で、我慢して入るうち、ホカホカに温まるのであった。

鳥鍋「ぼたん」

 稲荷湯を出て、神田連雀町へ引き返す。

 もとは「池波正太郎的には、鬼平犯科帳に出てくる名物軍鶏鍋『五鉄』のモデルを探してそこへ行くべきだろう」というアイデアだった。「五鉄」のモデルは「玉ひで」という実在の店だ。だが、日本橋の方なので、ちょっと遠い。

 そこで、池波正太郎が同じく愛した連雀町の老舗、「ぼたん」で鳥鍋をつつくことにしておいたのだ。

 「ぼたん」の看板の品書きは「鳥すき」だ。一人前7,300円(税込)で、「ちょっと高い」ようにも思えるが、「払えぬというほどでもない」値段で、それよりもなによりも風情があって、一度は行かなくてはならない店の一つである。

 実は私こと佐藤、連雀町の店は「竹むら」にも「いせ源」にも、「まつや」や、焼ける前の「かんだやぶそば」にも、何度も入ったことがあるのだが、この「ぼたん」だけは入ったことがなかった。なぜかというと、「お一人様はご遠慮ください」という店だからだ。さりとて、職場がらみの人を誘おうとすると、少し高いので値段が折り合わない。妻を連れて来ようとすると、妻は主婦の経済観念で「高いなあ」がまず出てしまうから興醒めである。そんなわけで一緒に来てくれる人がなかなかいない。

 しかし今日は、「池波正太郎的な世界観」がテーマで二人は一致しているから、私もHさんを引きずり込むのに躊躇がない(笑)。

 「二人なんですが、かまいませんか」と玄関を入ると、下足番の人が愛想よく招じ入れ、すぐに和装の仲居さんが出てきて案内してくれる。

 静かな奥の方の座敷に通される。腰を下ろして、鳥すきを2人前にビールを頼む。風呂上がりのビールがうまい。街全体が広大な温泉旅館として楽しめるところであるような気がする。

 銅板で葺いた炭櫃によく(おこ)った炭火が入って出てくる。仲居さんがそこへ鉄鍋を乗せて油をひき、(かしわ)の正肉、もつ、葱、豆腐、白滝などを手際よく盛って調えてくれる。

 煮えるのにほどよく時間がかかるから、ゆっくりとつつきながら話したり飲んだりするのにちょうどよい。

 しっかりした濃い味付けで、溶き卵によく馴染んでうまい。

「卵とじ」を作ってもらったところ

 最後にお(ひつ)に入ったご飯と香の物が出てきて、雑炊が楽しめる。また、仲居さんに頼むと、鍋の残りを卵とじにして、ご飯にそれをかけまわして「親子丼」のようにして食べることもできる。

 そこで私たちも、卵を二つずつ、たっぷりととじて貰って、お櫃のご飯を全部平らげた。

 水菓子(みずがし)がついて来る。冬なので、大粒の蜜柑(みかん)が出た。二人とも満腹である。

 ちょっぴり高いが、払えぬという程でもなく、意外に分量もあり、堪能できる。

神谷バー

 Hさんは「電気ブラン」は是非飲まねばならぬ、と言う。

 電気ブランと言えば「浅草・神谷バー」で、神田からは少し離れているが、ここは再び河岸を変え、浅草まで電車に乗る。

 神谷バーはいつもながら大変な混雑だが、人を掻き分け掻き分け、席を取って、「電気ブラン」を4杯、5杯。
 

夜の仲見世~浅草寺

 以前に一度、物知りの人が「夜の浅草寺」を案内してくれたことがある。仲見世通りの商店が閉まってシャッターが閉じた後に行くと、開いている昼間には見られない「シャッターのペンキ絵」が見られるのだ。このペンキ絵は季節ごとに()き変えていて、その時季その時季の行事の絵などになるのだ。

 これをぜひHさんにも見てもらおうと、神谷バーを出て案内した。

 季節らしく、火消しの(まとい)梯子(はしご)乗りの絵などが見られた。写真は「神輿を取り巻く群像」である。

 それから、ライトアップされた伽藍を一回り見物する。

 本堂はとうに閉まった後だが、いちおう賽銭を寄進して、少しばかり拝む。

「並木藪蕎麦」と「駒形どぜう」の場所だけ

 もう、自分が知っているだけのものを総(さら)えで案内したようなことだった。

 最後に、やはりこの名店だけはHさんに把握していただきたい、とばかり、「並木藪蕎麦」と「駒形どぜう」の場所をご案内した。

 もとより、老舗の店仕舞いは意外に早く、両店とも既に閉まっているが、どちらも建物が味わい深く、外から見るだけでも面白いのだ。

 この2店をご案内したところで、もう上弦の月が西へ傾きはじめ、はや22時を過ぎる時間にもなった。

 昼は早春らしい(うらら)かさ、夜は都会にもかかわらず星空に恵まれた今日一日のことを謝しつつ振り返り、Hさんとお別れした。

 飲み食いに散歩に、面白い一日を過ごすことができた。

かんだやぶそば

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 昨日から泊まり込みだった。

 草臥(くたび)れて帰りの電車に乗り、秋葉原の駅で乗り換えを思い止まる。

 いい蕎麦屋は日曜日には開いていないものだが、神田は例外で、「まつや」「かんだやぶそば」とも開いている。

 じゃ、今日はひとつ、「かんだやぶそば」で気晴らししようか、とする。

 いつものことだが混んでいる。臆せず並ぶ。なに、蕎麦屋の客の回転など速いものだ。10分も並べば入れる。

 菊正宗のぬる燗を一合。

 通しものに蕎麦味噌の一玉がついてくる。ここの蕎麦味噌は「まつや」や浅草の「並木籔」のような固練りとは違って、ふんわりと柔らかく仕上げてある。中に入っている蕎麦の粒も柔らかい。但し、味は鷹の爪が効いてピリッと辛い。これを少しづつ舐めながら呑む。

 お()まりに、盃一杯ほど酒の残っている頃おい、「せいろう」を一枚頼む。

 まことに幸福である。

 のんびりと半分ほども手繰(たぐ)った頃、隣に婦人客が座った。私より少しばかり年上に見える人だったが、私が手繰っているせいろうを見て、「あのう、あなたが召し上がっているのは、なんというお品ですか」と丁寧に聞いてきた。

「ああ、これですか、いや、これは、一番安い、メニューの一番上に載っている『せいろう』ですよ」

「そうなんですか。……いえ、ね、色が青いから、変わった、何か、茶蕎麦なのかな、と思ったんです」

 ここぞ得たり、と私こと不肖・佐藤、「なるほど、これはですね……」と、ご婦人に講釈して差し上げる。

 本物の新蕎麦はほんのりと緑がかるが、かんだやぶそばの蕎麦は、それに似せるよう、蕎麦の茎・葉を絞った汁で新蕎麦のような色・香りをつけてあるのだ。新蕎麦よりも強い緑に染まり、香りも新蕎麦に似る。そして、これなら新蕎麦の季節(晩夏~初秋)だけでなく、年中楽しめるわけである。

「へえ~、そうなんですか」

 聴けばご婦人は長野の人で、旅行で来ているという。新幹線の発車までの間、噂に聞く「かんだやぶそば」を探して来てみたのだそうで、「長野も蕎麦の本場なんですけれどね」と言いつつ、なかなか通好みの「牡蠣蕎麦」を注文している。

御酒 \770
せいろうそば \670
\115
\1,555
サービス -\5
合計 \1,550

 ご婦人が聞き上手なものだから、問われるままに、以前の火事のこと、近くの有名店「まつや」のこと、甘味処の「竹むら」、鮟鱇(あんこう)鍋の「いせ源」、とり鍋「ぼたん」、またこれらの店の建屋は全て東京都の文化財に指定されていること、そもそも神田連雀町は……などということをとりとめなく話した。感心して聞いてくれるので、話がはずんだ。

 ご婦人を見送り、ゆっくり蕎麦湯を飲む、

 越谷まで各駅停車で帰り、新越谷駅「VARIE」の1階、カルディ・コーヒーファームに寄って、「ボジオ・ランゲ・シャルドネ」という白ワインを一本買う。

 帰宅してワインを開ける。至福。

名代・あんこう料理専門店「いせ源」・甘味処「竹むら」

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 このブログに、このような記事を書くことは非常に珍しいが、ちょっと楽しい飲み食いをしたので書きとめておきたい。

 秋葉原の駅を出て「中央通り」を南にゆくと、靖国通りに向かう途中に「万世橋」がある。ここから眺めると左手に萬世の通称「肉ビル」、右手に旧中央線の古色蒼然とした煉瓦造りの高架がある。

 「以前交通博物館のあったところの裏の一画」と言えば、ピンとくる方も多いと思う。

 秋葉原のカラフルなイルミネーションはすぐそこなのに、この万世橋の右手の、煉瓦造りの高架の一画だけ突然時代が遡ったように見えるのはなぜか。それは、あの一画だけ戦時中の空襲の被害をどうしたわけか免れ、戦前のままに街が残されたからである。しかし、米軍側の資料でも、どうしてあの一画を標的にしなかったのかはよくわからないという。

 さて、そんな万世橋と靖国通りに挟まれた秋葉原南西の一画、正確には神田・須田町と、同じく淡路町にまたがるところだが、「大人の人たち」は戦前への愛惜を込めてそのあたりを「連雀町」と呼ぶ。江戸時代、背負子を背負うための肩掛けに使う「連尺」を作る職人がここに住み着いていたので連雀町というようになったのだそうな。

 このあたりには、空襲の被害を免れたため、戦前の建物がゴロゴロと残っている。有名な蕎麦店の「神田・藪」や「まつや」も、この一画にある。

 その「神田・藪」にほど近く、あんこう料理の専門店があり、なんと創業180年(!)と言う老舗ぶりを誇っている。それが名代の「あんこう料理・いせ源」だ。この店は「知る人ぞ知る」名店で、他の料理もあるにはあるが、冬の「旬」になると「『あんこう料理』一本!」で勝負している。店舗は昭和5年築で、戦災を免れたため、東京都の「歴史的建造物」に指定され、保護・保存されている。

 一夕、この「いせ源」に行ってみた。

 あんこうは「七つ道具」と言って、身のあらゆるところがおいしく食べられることもよく知られる。グロテスクな姿態にもかかわらず、食味は繊細・淡白で、食べ飽きることがない。「肝」も俗に「アンキモ」と言われて、フォアグラに匹敵する珍味と言う人もいるほどだ。

 いせ源のあんこう鍋は、このあんこうの「いろいろなところ」を、秘伝の濃いめの割下で炊き上げて食する。仲居さんが何人もいてこまめに面倒を見てくれるから、私のような素人でも心配なかった。

 あんこうの「いろいろなところ」には、コリコリしたところやヌルヌルしたところ、ホクホクしたところや、プルプルしたところ、甘いところなどいろいろな身があり、とりわけ「アンキモ」のうまさと言ったら…!。菊正宗・上撰の熱燗が、それこそ「どこに入ったかわからぬ…」くらい、すいすい飲めてしまう美味しさである。

 あんこう鍋を堪能した後は、あんこうの身の「いろんな味」がじっくり溶け込んだ出汁にご飯を入れ、刻み葱をたっぷりと載せて、煮えばなに溶き卵をかけまわした「雑炊」がこたえらない。これも仲居さんがすばやい手際でこしらえてくれる。

 値段のほうは、あんこう鍋一人前3400円~と、「滅茶苦茶に高いわけではない」値段だ。むしろ、江戸時代から続く暖簾の、戦前から大切に保存されている店舗で、青森産の「本格のあんこう」を食って、和装の美しい仲居さんにお世話してもらってこの値段は、安い方と言えるだろう。

 さて、あんこう鍋で程よく飲んで酔った後、「甘味が欲しくなる」のもままあることだ。「酒後の甘味は体に毒」なぞと言うようだが、なに、言うヤツには言わせておけばよろしい(笑)。

 おあつらえ向きに、いせ源の向かいに、これも戦前からの老舗の甘味処「竹むら」がある。ここも戦災を免れ、都の歴史的建造物として保存指定を受けた、「なんともいえぬ風情の」店舗だ。

 「竹むら」では、最初に出される桜湯をゆっくりと味わい、それから迷わず「粟ぜんざい」をオーダーしよう。700円しない程度だ。ほかほかに蒸し上げた淡白な「粟飯」の上に、品よくこしあんをかけ回した味わいは、一緒に出される濃いめの煎茶ととけあって、「左党」のオッサンでも思わず膝を叩く美味しさだ。

 そして、土産に、老舗・竹むら自慢の「揚げ饅頭」。これは二つで450円。揚げ饅頭のふんわりとした軽い甘味は、家で待っている女子供を喜ばせること請け合いだ。

 いずれの店も、作家の故・池波正太郎が愛してやまなかったことでも有名である。秋葉原から歩いて5分、スグであるので、一度「ハードディスク代金をチト削って…」試してみては如何。